『瞳に映る、キミのうた』サンプル - 4/6

 少しでも気を抜くと、会社にいるというのに数日前の夜について脳が勝手にありありと思い出す。
 いけないと頭を振ってもなお、カセットのスイッチを押したように自分の頭が彼の声を再生してしまう。光太朗はデスクに肘をついて溜め息をついた。
 夢のようで、しかし夢とロマンチックに呼ぶには乱暴すぎたあの夜を反芻するのはこれで何度目だろう。

 ――トーヤと名乗る青年が一度達した頃には、光太朗は既にバテきって指一本動かせず、意識を保つので精いっぱいだった。
 返事もままならない光太朗にトーヤは「まだ時間内だけど、もういいの?」と尋ねたような気がする。光太朗はそのあたりの記憶が曖昧なのだが、「おやすみ」という彼の、その日一番優しい声音で囁かれたのを最後に意識が途絶えたから、きっと自分は頷いたのだろう。
 次に目を覚ましたときは朝の五時前で、普段起きている時刻より二時間も早かった。べたついた全裸のままでシーツにくるまっていたが、ここがどこか認識した瞬間に飛び起きたのを光太朗はよく覚えている。
 腰を中心に節々が痛むのをなんとか堪えながら身体を起こすと、トーヤの姿はどこにもなかった。一人で寝起きするなんて当たり前の習慣なのに、人間一人にとってはあまりに空白の多いラブホテルの部屋の広さを、光太朗はそのとき改めて思い知ったのだ。
 ふらふらと立ち上がり、鞄からスマートフォンを取り出すと、光太朗の予約した店経由でトーヤからメールが来ていた。
『起こしてもマジで起きないから退室した。追加料金はないから安心して。次の予約待ってるよ』
 距離感の近い、しかし単なる義務的な内容のその文面を、光太朗は何度も視線を往復させて読み返す。その後、疲労の取れない身体を再びベッドへ横たわらせた。
 二度寝する気には到底なれず、結局始発の出る時間までずっとぼんやりと天井を眺めていた。ただ、頭の中にはトーヤの声がずっと響いているようで落ち着かない。彼の声と、かすかな煙草の香りが、すっかり光太朗の中まで刻まれていた。
 まだまだかなり余っている有給休暇を使っているから、チェックアウトまでいてもよかったはずだが、この場所ではとても気が休まらず、光太朗はガラガラの電車に乗って帰路についたのだ。

 それから光太朗はトーヤのいる店に一度も連絡を入れていない。鮮烈すぎたあの晩をもう一度味わうための心づもりが全然できず、ただ記憶の中のトーヤが思い出に変わらないように、何度もあの声を頭の中で再生していた。
 少し高くて掠れた声が笑うとさらに上擦る。反対に、自分に言うことを聞かせようとするときや答えるのが恥ずかしい質問をするときは低くなって、どこか怖い響きで自分を縛りつける。
 乱暴ではあったものの初めての光太朗にさほど痛みのないセックスをしてくれたのもそうだったが、光太朗の一挙手一投足を見抜いて暴いていくあの声が何よりたまらなくて、頬が勝手に熱くなる。
 このままだと際限なくトーヤが思い出されてしまう。光太朗は危機感を抱いたものの、幸か不幸か刺々しい声が光太朗の耳を突いて、記憶の中の声を簡単に上書きした。
「今居(いまい)さん。請求書の確認は終わったんですか?」
「は、はい! すみません、すぐやります」
 声の主である里島係長が分かりやすく自分にイラ立っているのを察した光太朗は気を取り直し、目の前のディスプレイに向き直った。
 月末が近く、ただでさえ各取引先へ送らなければならない書類が多い上に、受注量の調整で金額が変わったから確認してくれと営業からせっつかれる時期だ。そんなときに手を止めて物思いに耽っている自分が周囲からどう見えるか。表情は想像つかなくても、その胸中は推して知るべしというものだ。
 現に、少し離れた誕生日席に座っていた里島は足音を立てて光太朗のもとへ来ると、威圧的に見下ろした。
「今居さん。はっきり言わせてもらうけど、数日前からだらしがない」
 あえて周囲に聞こえるほどの声量で里島は光太朗へ説教を始めた。同じ経理部の社員は一斉に顔を伏せ、知らないふりをする。もう何度も味わったが、それでも光太朗の疎外感を浮き彫りにさせる光景だ。
 光太朗が少し顔をあげると、腕を組んだ里島がたんたん、と指で自分の腕を神経質そうに叩いているのが目に入った。そこから視線をさらに上をずらしても、光太朗にとってはあまり意味がない。しかし、「相手の顔を見ている」というポーズのためにそうする。
「集中力がない。忙しい時期なのに手を止めている時間が多いのはどういうつもりなんでしょう」
「申し訳ございません。気を引き締めます」
「昨日は朝礼が始まる直前に慌てて執務室に入ってきましたね。あれはどういうことですか?」
 光太朗の謝罪を流して、里島は昨日の彼の態度を持ち出した。
 いつも朝礼の三十分前には出勤しているところを、昨日は寝坊したせいで五分前にデスクへ着いた。寝坊なんて初めてのことで肝が冷えたが、それは光太朗自身も自分の落ち度だと思っている。
 そして、同じ部署にいつも朝礼の五分前、下手すると一分前に来ている社員が何名かいるのにもかかわらず、一回のミスで自身がこうして糾弾されているのも、それまで積み重ねてきた自分の行いのせいであるのも充分理解していた。
「経理の仕事を甘く見ないでください。第一、営業部から来たのに営業からの依頼を処理するのが遅いって……」
 大きな溜め息をついた里島は、眉尻をすっかり下げた表情で自分を見る光太朗が気に食わず、そこで話を終わらせた。
 ――彼が人の話を聞くとき、穴が開くようにこちらを見てくるのがわざとらしく、またやや不気味で気に入らない。他の社員が似たようなことを話しているのを里島は聞いたことがある。どう注意すべきか考えあぐねている自分の身にもなってほしいものだ。
 里島が身を翻すと、独特の匂いが光太朗の鼻をついた。俗に加齢臭と呼ばれるものだ。歳のせいだろうか、普段の声からしてわずかに震えている地声とこの加齢臭で、彼は相手を里島だと認識していた。
 隣の席も、前の席も光太朗を慰めるようなことはしない。みんな、不機嫌な里島とどんくさい光太朗に関わりたくないのだ。
 その心情をひしひしと肌で感じるのは毎回つらかったが、冷めた視線が自分に突き刺さっているのが分からずに済むのは、正直自分がありがたいと光太朗は感じていた。