『瞳に映る、キミのうた』サンプル - 1/6

 二人入るにも広すぎるこの部屋では、冷房よりも自分の鼓動の方がずっと大きく聞こえる。クーラーが充分効いているにもかかわらず、手のひらに冷や汗を絶えず滲ませている光太朗(こうたろう)は、先ほどから何度も滑り落としそうになっているスマートフォンを改めてぎゅっと握りなおす。
 画面を点けて時間を確認すると、店のスタッフにホテルの名前と部屋の番号を伝えてからまだ数分しか経っていない。しかし光太朗にとっては永遠に等しく、緊張のあまりめまいすら覚えていた。彼は肩を大きく上下して、気休め程度の深呼吸をする。
(どうしよう……)
 あとどれくらい待てばいいのだろう。光太朗はせわしなく部屋をうろうろと歩き回る。視界には彼が今まで見たこともない大きさのベッドがある――大の男二人が、どんな体勢を取っても余裕がありそうな広さのベッドが。
 ここで何をするのか、光太朗自身もじつは仔細までを理解できているわけではない。だから彼は、来たる未来に身を委ねるしかない。その確定された未来を招いたのは彼本人だが、後悔にも似た焦燥感がずっと胸の内を渦巻いていた。
 ――プルルルル。
 光太朗が部屋の中をぐるぐる周回して幾度目かのとき、「その時」の訪れを知らせる内線電話が鳴り響いた。
「ひいぃっ」
 上ずった情けない悲鳴をあげた光太朗はしかし、これまでの社会生活で鍛えられた反射に等しい俊敏な動きで受話器を取った。フロントスタッフの業務的な声が耳に入ってくる。
『お連れさまが見えましたため、鍵を開けますがよろしいでしょうか』
「はい、はい、はいっ大丈夫ですっ!」
 三度も「はい」と答えてしまった。会社であれば間違いなく叱られているが、今の光太朗に自分の応対を省みる余裕など欠片も残っていない。
(とうとう来た……)
 解錠されたドアにそろりと近づいて、祈るように胸の前で手を組んで来訪者を待つ。後は野となれ山となれ、光太朗は思い切り息を吸い込んで最後の深呼吸をした。
 ピンポーン。
 構えすぎていた光太朗はチャイムが鳴った瞬間にドアを引いた。こんなすぐに、しかもかなりの勢いで開くとは思っていなかった来訪者が驚いてよろける。
「うぉっ」
「あ! す、すいません」
「なんスか、もう。ビビらせんなって」
 軽く笑って、部屋までやってきた青年はそのまま室内へ無遠慮に入る。
 この人が――光太朗はしばしそのままの姿勢でフリーズしてしまったが、ドアを開きっぱなしにしていることに気がついて慌ててドアノブを離した。
 シルバーの髪はホテルの温白色の照明を反射して、歩くたびに揺れて煌めく。部屋に入ってきた瞬間に煙草の香りが漂って、無臭そのものだったこの空間はたちまち彼の存在感に満ちていった。
「コータローさん?」
 自分の名前を呼ぶ声はハスキーで少しだけ高い。独特なその響きは光太朗の記憶のどの人物とも似ていないから、なんだか後引くように耳に残る。
「どーしたんスか。……アハ、顔めっちゃ赤い。マジで初めてなんだ」
 錆びついた動きで光太朗が振り向くと、その様子がおかしくて青年はまた笑った。光太朗をまじまじと見つめる目は細められて、いかにも楽しげだ。
 さっさとベッドに向かって仕事を始めようと思っていた青年は計画を変える。目の前の、いかにも気弱そうな垂れ眉のサラリーマンにゆっくり近づく。
 ――光太朗には、彼の考えが全く見えないから先ほどから速い鼓動が全く休まらない。青年は自分より少しだけ低い光太朗の、ほんのつま先程度までしか離れていないところまで近づいた。
「どーも。本日ご指名いただいたトーヤです」
「あ……」
「ちな、バリタチ。もう知ってると思うけど」
 おかしげに少し上ずったトーヤの掠れた声が空気を震わせるのが伝わって、光太朗は凍りついて何も言えなくなる。
 ……こんなにキョドる客、いるんだ。
 光太朗の反応を不審に思う反面、耳の淵まで真っ赤にした彼がおかしくて、トーヤはこちらがサービスの提供者であることを忘れてちょっかいを出したくなった。
 しかしこれは商売だ。大事な部分を確認しなければならない。トーヤは気を取り直す。
「今日は一二〇分、本番ありの五万円で間違いない? コータローさん」
 予約内容を読み上げられていると理解するのに間を要した光太朗は、脳内のシナプスがつながってようやくガクガクと頷いた。これから何が起きるか全く想像つかなくて、期待よりも不安のせいでシャツの内側は冷や汗が垂れっぱなしだった。