今日の遅れを取り戻すために光太朗は残業したものの、経理部の面々が会社に残ってまで仕事をするのは各期末くらいだから、最後に退出したのは彼だった。月末が近いといっても、みんな定時に帰れるように調整している。
光太朗も普段はそうしているのだが、作業自体が遅れる以外に、何度もやり取りしている営業担当の社員へ間違えて声をかけるといったような、他の者がまずしないようなミスをすると決まってこうなる。
陰鬱としながら外へ出れば、街灯や他のビル群が夜空を照らしている。同じく帰宅途中であろうサラリーマンたちが駅に向かって歩いていた。そこに紛れれば、周囲の似たような形のオフィスビルくらい、自分と他人を区別するのは難しいと光太朗は感じた。
「サラリーマンの聖地」と世間から銘打たれるほど、光太朗の勤め先は数々のオフィスビルが密集している。駅までの道もビルかコンビニ、飲み屋くらいしかなく、レストランを探すのも一苦労で、ランチの選択肢が少ないというのが社員の定番の愚痴だ。
この一帯では会社員以外の人間はまずいない。そのはずだが、今日はなんだか違う様相を見せていた。
駅名の書かれた看板が煌々と照っているのが分かるところまで来ると、なんだか周囲が騒がしいことに光太朗は気がついた。一緒に歩いているサラリーマン同士や社会人のカップルと思われる二人組など、複数人で行動している者たちは何やらひそひそと話しているようだ。
何事かと思ってあたりを見渡すと、人々が明らかに避けて歩いているゾーンがあるようだ。駅のシンボルになっているモニュメント前で、誰かが何かしているらしい。
何かあったのだろうか。光太朗が立ち止まって目を凝らそうとするが、ちょうどそこを避けて移動しているサラリーマンとぶつかってしまった。お互い小さく謝罪しつつ、ここに立っていては邪魔になると気がついた光太朗は、抵抗感を覚えつつも人の避けている辺りに少し近づく。
――視界に何かが入るよりも先に、耳に歌が飛び込んだ。瞬間、光太朗は惹かれるように無意識にふらふらとそちらへどんどん歩み寄っていく。
アコースティックギターの弦が紡ぐ音色と共に、歌声の輪郭がより実体を持っていく。ハスキーで少し高いそれは、声変わり前の男子とは系統が違っていて、きちんと発声しても掠れているのが常であるようだった。低いパートになると、その声は腹に直接響くようで少しだけくすぐったい。
(……まさか)
光太朗の心臓が早鐘を打つ。この声は確かに――聞き覚えがありありとある。数日前に聞いたばかりではないか。なぜ人々がそこを避けるのか、理由を考えるのも忘れて光太朗は一気に歌声の主へ近寄った。
「あれ?」
予想では、光太朗の前に声の持ち主であるトーヤが現れるはずだった。
しかし、ギターを弾きながら歌っているのはツヤのあるシルバーではなく、マットな黒髪の青年だった。声が記憶のものとそっくり重なるのに、別人であることなどあり得るのか。光太朗は意表を突かれてしまった。
前髪がとても長く、認識できたとしても顔の全貌まで分からないほどだ。髪色も、髪型も記憶のトーヤとは異なる。つまり目の前のこのストリートシンガーは、トーヤとは全くの別人のはずだ。
しかし、それでも光太朗はその場を去りがたく、しばらく立ち止まって彼の歌を聴いていた。
そもそも、会社員は多いものの、繁華街のようなきらめきなどほとんどないこの場所に路上パフォーマーが来ること自体、非常に珍しかった。少なくとも光太朗の記憶にはないから、貴重な機会だろう。
今歌っているのはオリジナルの曲だろうか、ギターのメロディはどこかで耳にしたことがあるかもしれないが、歌の音程を追うに、光太朗が初めて聴く曲のようだ。
トーヤとそっくりそのままのハスキーボイスが、彼の内にすっと入り込んでいく。今まで自分の趣味など考えたことなどなかった光太朗だったが、この声は――自分にとって非常に好ましく、ずっと聴いていたいとさえ思った。
(何ていう人かな)
スマートフォンを取り出して、このストリートシンガーの名前をメモしようとした。しかし、彼の周辺を見ても、名前やSNSの記載がどこにもない。おや、と光太朗は首を傾げる。
こういったパフォーマンスの前で立ち止まるのは初めてだったが、自己紹介が書かれたボードなどが近くに置いてあるのはなんとなく知っている。しかし彼の場合それらしきものが全く見当たらず、側には髪と同じ色のギターケースくらいしかなかった。
疑問に思いつつも、演奏の後で尋ねてみようと光太朗は気を取り直し、スマートフォンを鞄へしまった。あと何曲、彼の歌を聴けるだろう。そんな期待に胸を弾ませる。
演奏が突然終わり、歌も急に切れた。
長い前髪の隙間から二つの鋭い光が自身を射貫く。
目の位置がどこかも分からないのに、不意にそう感じた光太朗は小さく息を飲んで背を正す。
ストリートシンガーはギターを下ろし、やや乱暴な手つきでケースへしまった。バタン、と派手な音を立ててケースを閉じて担ぐと、あっという間に終わってしまったライブに戸惑っている光太朗へカツカツと大股で近寄る。
青年は光太朗の細い手首をガッと強い力で掴むと、引きずるように連れ歩き始めた。あまりに急な事態に、彼は焦りを隠せない。
「え、ちょ、ちょっと待ってください。何ですか!?」
「……」
「ちょっと、何なんですか、ねぇっ」
痛みを覚えるほど手首を握られて、情けないことに光太朗の力ではとても引きはがせない。周囲も何事かと二人をちらちらと横目に見るものの、もともとこの青年を避けるか嘲笑していた通行人たちは、関わりたくというようにすぐに視線を逸らす。
執務室で説教を受けているときの疎外感と降って湧いた不安に、光太朗から血の気が引いた。
(どうしよう……!)
パニックでほとんどの機能が固まってしまった頭が「警察」というキーワードに思い当たるまで、かなりの時間を要した。「警察を呼びますよ」と光太朗が震えた身体で言ってみせるまえに青年が立ち止まる方が先だった。
駅から少し離れたオフィスビルとビルの間にある、薄暗い裏路地。男性二人がようやく入れるくらいの幅の中で向き合うと、顔と顔の距離がかなり近くなった。
何をされるのだろう。絶望的な気持ちに光太朗は恐怖のあまり目をつむることさえできずに立ち尽くす。この暗闇よりももっと暗い髪の青年がどんな顔をしているかなんて分かるはずもない。
「おい」
青年から低い声音で話しかけられただけで、光太朗はとうとうぎゅっと最大限の力で瞼を閉じ、「ひぃっ」と小さく悲鳴をあげて身を竦ませた。
ぱさり。何かが落ちるような軽くて小さな音がした。それ以降青年からのアクションが一切ないから、不審に思った光太朗は恐る恐る目を開ける。
――目の前に現れたのは、街灯を反射して煌めくシルバーの髪。彼が溜め息をつくと、記憶にある煙草の香りがかすかにして、光太朗はあんぐりと口と目を開いて彼を見上げた。
「と、トーヤさん!?」
「あんたマジで誰に対しても敬語なの?」
ウィッグを脱いだトーヤは不遜な物言いで呆れてみせた。
しかし、思ってもみなかった再会を喜ぶ余裕が光太朗にはまるでない。まず、彼がウィッグを被って駅前で歌っていたことから順を追わないと何もかも整理できなかった。
ストリートシンガーであったトーヤはずっと目を白黒させている光太朗をキッと睨みつけると、突然鞄を持っている彼の手を先ほど以上の力でぎりぎりと掴んだ。
「お前オレのこと撮ってただろ。消せ!」
「いったぁ、な、なんのこと――」
「スマホ。オレが歌ってるときに触ってたじゃねえか」
「ち、違います! あれはあとで名前を調べようと思って、でもどこにも書いてないから」
とんでもない誤解を受けた光太朗は怒気を孕んだトーヤの声に怯えつつ慌てて弁解する。しかし、それでもトーヤの怒りは収まっていないようで、手の痛みにとうとう顔をしかめて、目にうっすらと涙を浮かべた。
「調べて何だよ、晒してやろうって?」
「さっきから何言ってるんですか! 普通に何ていう人が歌ってるか気になっただけです……!」
手を引きはがしたくても、力ではとても敵わないのはここに連れられた時点で明白だ。単に重ねているだけの手に精いっぱいの力を込めながら光太朗は必死に訴える。
その甲斐あって、トーヤはようやくハの字眉の下にある瞳が潤んでいることに気がついた。どうやらこのコータローが言っていることに嘘はないらしい。手をほどくと、掴まれていた彼の手の甲が少し赤くなっていて、トーヤは申し訳なさそうに目を伏せる。
「……悪い。ちょっと突っ走りすぎた。でもなんでオレが気になったんだ。トーヤだって気づいたのか?」
急にしおらしくなったトーヤの態度に、光太朗は手を庇いながらぎゅっと目を細めて彼を見つめた。顔を認識できないため、彼が演技で反省しているか声だけでは判断が難しい。
長い時間をかけてじっと見つめれば、どこが眉や口なのかなどは多少判別できるためそうしているのだが、急に光太朗から無言でがんを飛ばされる姿勢となったトーヤは怪訝そうに眉をひそめる。しかし、先ほど手ひどく扱ったことが脳裏にあったため何かを言い返すこともできない。
妙な沈黙が流れたあと、光太朗は少しだけ顔の力をほどいた。まだ胸がざわざわしているが、今は彼の言葉を信じることにした。
「いいや、気づきませんでした。ただ、……その」
このあと続けようとした言葉が、じつは恥ずかしいものではないかと感づいた光太朗はじんわりと耳を赤くする。
ホテルで過ごしたときはずっと怯えたような顔をしていたくせに、こんな百面相もできるのか。少し面白そうに彼を見つめるトーヤだが、目と目は合っているのに光太朗には分からなかった。
「す、好きな声だなと思ったんです。だから何て歌手が歌っているんだろうって」
「声? この声がいいって?」
驚愕したトーヤは話題に出た声をひっくり返して驚き、思わず光太朗の顔を横へ手をついた。また痛い目に遭わされるのではないかと肩を竦める光太朗だが、トーヤは目を丸くしたままもう一度訪ねる。
「お前、マジで声がいいと思ってんの? この……ダミ声が」
「だ、ダミ声って。そんな風には思いませんでした」
真正面から否定した光太朗に不意を突かれ、トーヤは勢いよく後ろに下がった。ビルの壁に当たるドンッという打撃音が響き、光太朗は「大丈夫ですか!?」と慌てるが、トーヤは口元を押さえて俯く。
(何なんだよ……)
なんとか平静を取り繕うものの、心臓は嬉しさのあまり刻む声を褒められた覚えなどなかった。それがこの、一度しか会っていない、それもアルバイト先の客に言われるなんて。
声変わりして以降、この特徴だらけの声に言及されるとしたらからかい目的だけだ。しかも自分の歌がそれに拍車をかけているのも彼は自覚している。
歌――思い当たったトーヤは喜びから一転、暗澹たる気持ちで俯いて自嘲気味な笑みを浮かべた。
「あのさ……さっきオレが歌ってた曲、何か分かったか?」
「え? オリジナルの曲ではないんですか?」
「オリジナル……」
胸に重たい石を投げ込まれて気がひどく重くなる。この反応にも慣れているはずなのに、光太朗の口調がとても無垢なものである分、刃で切りつけられたような痛みがあった。
「……――」
「え? 何でしょうか」
聞き返すと、トーヤの口から国民的に有名なロックバンドと、最近映画のテーマソングとして採用された曲の名前が挙げられ、光太朗は思わず「え」と言いかけたのをすんでのところで堪える。しかし戸惑いはばっちり伝わったようで、顔は分からずともトーヤが気分を害したのが伝わり、光太朗は息を呑んで身体を縮こまらせた。
怯える一方で、彼の歌を思い出してみる。歌声のみを追うと初めて聴くと感じた曲だったから、この歌手がどんな歌を出しているのかも気になった。ただ、その前にギターで弾いていたメロディには確かに聴き覚えがあったのだ。
(まさかあの曲だったとは……)
光太朗は全然思い当たらなかった勘の鈍さをまず呪い、無礼を詫びようとした。目の前の歌手は、流行りのJ-POPも知らない自分の無知に不快感を示しているのだろうと思ったのだ。
しかし、トーヤは大きな怒声を張り上げたり舌打ちしたり、威圧的に不快感を表すことはない。その代わり、きまりの悪そうな声でぽつりと呟く。
「……ちょっと音程の取り方が甘いだけだ、ちょっとだけな」
「……っ!」
自分を責められてきた経験があまりに多いせいで、相手に非があるという考え方が身についていない光太朗はまたしても息を呑んだ。まさかそっちが原因とは思い至らなかったのと、強気な彼の自虐めいた言葉に今度こそ反応に困ってしまう。
トーヤの呟きは完全に藪蛇で、彼に「この人は音痴なんだ」と思わせることにまんまと成功した。しかし光太朗は光太朗で、トーヤを嘲笑することなどとてもできない。スマートフォンを取り出したと誤解してあれだけ怒っていたのは、きっと彼が歌うことで周囲から馬鹿にされてきたのだろうというのは容易に想像がつく。
スーツの裾をぎゅっと掴む、行き場のない自分の手に汗がじんわり滲んでいる。たいして気の利いた言葉も出てこないまま、光太朗はおずおずと分からないなりに相手の顔色を窺う。
「で、でも、トーヤさんの歌声は本当にいいなって思いました」
これでは先ほど言ったことの繰り返しだ。無理やりこの場に連れてこられたのは自分なのに、彼のフォローもまともにできない自分に光太朗はガッカリと気落ちする。顔の認識能力以外の部分が原因で相手を困らせてしまうのは余計に落ち込んだ。
トーヤはすぐに答えずじっと光太朗を見つめる。こんなにびくびくしているくせに、自分としっかり目は合わせてくる彼を不思議に思いつつ、歌声を褒められるのは内心とても気分が良かった。
光太朗は自分を、嫌ってはいない。こうして路地裏なんかに連れてきてなお逃げ出さないあたり、ビビり性なんかではなく、むしろ変に肝が据わっているのかもしれない。トーヤの中で確信が固まった瞬間、ある計画が思い浮かぶ。
――まだトーヤには「猶予」があり、時間のあるうちに何とか叶えたいある願望があった。光太朗の肩をガシッといきなり掴むと、彼と同じだけまっすぐ見つめ返す。
「なぁ、頼みがあるんだ」
「な、な、なんですか!?」
嫌な予感に震えるも、逃げ出すこともできずに光太朗の声は上ずる。
「コータローさん、明日からオレの歌の練習に付き合え。じゃねえや、付き合ってくれ」
「は!? な……なんでですか!?」
「アンタにしか頼めねぇんだよ! オレの声が好きってんなら頼めるよな?」
「え……えぇ~!!」
光太朗がこの日一番の大きな声を出した。急に持ち掛けられたお願いを頭で処理できずにくらくらする。
自棄気味になった勢いのままに風俗のサイトにアクセスした日から、光太朗の日常は加速度的におかしくなっている。慣れないことをした罰が当たったのか。成す術もなく、祈るように天を仰げば、都心の明るい空に月がぽっかりと浮かんでいる。
彼の歯車を間違いなく狂わせている当のトーヤは、ふらふらと脱力しかけている光太朗に意を介さずに服のポケットからスマートフォンを取り出して「LIMEのID教えろ」とせっついた。
八月下旬のむせかえる熱気が二人を包んでいた。トーヤと光太朗の関係が「風俗アルバイトと客」から明らかに違うものへと変化した、運命的な夜だった。
《了》