『手折られ花はほころぶ』サンプル - 5/6

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 ぼんやりとレジカウンターに肘をつき、広斗は虚空を見つめる。集中できなくて、店に飾られた花々が、なんだか抽象的な模様にしか見えてこない。
「広斗っ」
 郁恵に肩を強く叩かれ我に返る。広斗は恐る恐る見上げたが、予想に反して郁恵は眉を吊り上げてはいなかった。
「あんた体調悪いの? 昨日からずっとそんなぼへーっとしちゃって」
「…いや」
「店番なんて無理にしなくていいんだからね」
 どうやら体調を心配されているらしい。いい加減しっかりしなければと思い、広斗は両頬を軽く叩いてみせた。
「だいじょーぶ。いいからかーちゃんは早く行けよな」
「ほんとぉ? お客さんに愛想よくなさいよ!」
 今度こそ眉を吊り上げて、郁恵は店の出口を経て外を出ていった。そんな服を持っていたのかと意外に思うほどしゃれこんでいた。
 店番は代わると言っていたが、郁恵は昨日、久しく会っていない高校時代の友人とたっぷり喋りにカフェへ向かう予定だと楽しみに頬を緩ませながら話していた。そんな約束を反故にするような真似はできない。
 しかし、ほとんど眠れず少し充血した目に浮かぶのは、昨日の昼に見た、英良の左腕に刻まれた無数の切り傷だ。
 目に焼きついて離れてくれない。しかし英良のあの震えた声、虚ろな表情が、このまま忘れてはならないという理由のわからない義務感が、雫(しずく)となって広斗の胸に波紋を広げる。

 眠れない真夜中、広斗はタオルケットに包まれた中でスマートフォンを握り締め、インターネットで情報を調べていた。
 検索欄に入れた言葉は「リストカット」。最上位に出てきた行政機関のウェブサイトをタップする。
『悩みをひとりで抱え込まないで』
『つないで支える、いのちのコール』
 思い詰めた人間を励ますような言葉の羅列がそこにあった。リストカット自体の説明はなかったものの、検索結果を眺めているだけでも、どういう状況に置かれた人間がその行為に走るのか、広斗は薄々理解しつつあった。
『マジでテスト病む~』
『リスカしよーとかいって』
 過去に誰かと誰かが交わし合ったふざけた会話。しかし、それまでリストカットがどんなものか考えたこともない広斗は確信する。
 英良は自身の苦しみを誇示したくて、そうしているわけではない。
 何かに追い詰められて、腕を切らずにはいられないのだ。
 精神的な苦しみ・つらい気持ちを誰かに察してほしい・周囲に助けを求められる状況ではない…リストカットをする原因を推察するものは、インターネットの海にたくさんあふれていた。
 しかし、それのどれに英良が当てはまるのかは、広斗にはとても見当がつかない。
(だって、あいつ)
「日常」が崩れるその直前まで、あんなに楽しそうで朗らかな笑い声をあげ、花壇やプランターに対する広斗の一挙手一投足に目を輝かせていたのだ。
 だから、考えても答えはぐるぐる迷走する。しかし、勘ではあるが――英良が入学当初から学年の成績トップを保っているのと、なんとなく関係がある気がしていた。
「あのーすみません」
「はっはい!」
 客の声にビクリと身体を反応させると、声の主は客ではなく、いつの間にか店の奥から出てきた康雄だった。店内は穏やかそのものの無人だ。
 康雄は郁恵と違い、しっかりと呆れた表情で溜め息をついてみせる。
「そんなにやる気がないなら勉強にあてるんだな。だらしない態度の店にはお客さんも寄らない」
「…やる気がねぇわけじゃねーよ、ごめん」
 確かに指摘通りだ。背すじを正したあと、素直にこうべを垂れた広斗を見て、叱り文句を続けるつもりであった康雄はおや、と首に傾げる。
「なんだか今日の広斗は素直だな。いつもそうだとありがたいんだが」
「うっせーな」
 からかってくる康雄を、広斗はシッシッと手で仰いで奥へ追いやろうとする。
 いつもはやれやれ、だの言いながら店奥に引っ込み作業再開する康雄であったが、普段通りではない広斗の態度が気になり、その場に立ったままだった。
「何か悩みでもあるのか?」
「…親父には関係ねぇよ」
「親が関係なくたって聞けるものだろう、悩みというのは」
 反抗的な広斗の態度は慣れっこで、この程度では眉ひとつ動かさず動揺しない康雄に広斗は逡巡(しゅんじゅん)した。
 広斗と英良は高校生の身分だ。法的に未成年で、アルコールは接種できないどころか、外出時間すら制限されている。だから、英良の問題を成人である康雄に託してしまってもいいだろうかと一瞬悩んだ。
 しかし結論はすぐに決まる。あれだけ必死に隠したのだ、英良は事を大きくするのを嫌がるに違いない。
「…友達が、いろいろ悩んでるだけだよ」
 微細を隠そうとすると非常にアバウトな悩みとなってしまった。これが藪(やぶ)蛇(へび)となり、康雄に詳細を伺われたらどう誤魔化そうかと広斗は内心ヒヤヒヤする。
 しかし、広斗のその言葉だけで康雄はほう、と少し蓄えられた顎ヒゲを撫でた。
「友達の悩みっていうのは、そんな難しいのか?」
「…少なくとも、俺には理解できない」
「そうか」
 静かに頷き、おもむろに店内へ出ると、花束用の売り物として出されていたガーベラのラッピングをそっと触れる。
「ガーベラは暑い日差しには弱いから、この時期は直射日光の下に置いていては枯れてしまう」
「…はぁ」
 康雄から醸し出される年齢以上の風格に、なんだか教訓めいたものを感じて広斗は曖昧に頷く。
「でも、きちんと育ててあげれば植え付けから数年にわたって花を咲かせてくれる。さて、こういう花を一般的に何て言うか?」
「はぁ!? た、多年草?」
「正解」
 一本だけガーベラを取り出し、康雄はくるりと回して見せる。みずみずしく鮮やかなピンク色が、店内の窓を越してやわらかな暗さとなる真夏の光を少し反射する。
 まるで花の話をしたときの英良を彷彿とさせる、やわらかな紅色。
「きちんと育てるには、毎日ずっと見て、観察してやること。わからない、予測できないなりに側にいてあげるのが大事なのは、花も人も変わらないのだろうな」
 もはや広斗の悩みなどどこかへ置いてきたように、しみじみと噛みしめて康雄は呟き、ヴガーベラの花弁へ視線を落とす。
 その慈しみ、心から花を愛している康雄の瞳を見ると――今度は広斗自身の悩みも思い出されそうになるのだが、今はそれどころではない。広斗は広斗で、自分の心にそっと蓋をする。

 側にいてあげることが大事。康雄は広斗にそう答えを提示した。
 たまには休みを取るべきであるほか、郁恵のこともあり、今日の当番は顧問の飯田に代わってもらっている。
 窓から自分の姿が見えない英良は、それでも好きな花を求めに花壇へやってくるのだろうか。それとも、「三木くんがいないから」と思い、予備校へ直行するのだろうか。
(なんつー…)
 その考えに至ったとき、これはうぬぼれだと広斗は勝手に気恥ずかしくなった。そして、やや自嘲気味にもなる。
 今まで必死に隠してきた傷を露わにした張本人なのだ。もう顔も見たくないと嫌っていてもさほど不思議ではない。しかし広斗にとって、英良の傷よりも、本人とそうした接点を持てなくなることのほうがなんだか恐ろしかった。
 あの無数の傷跡が、自身以外の誰にも明かされないまま時が流れていく。そんなもの、しおれかけの花に水をやらず素通りするようなものだ。
(明日、来るのかな。間宮)
 ただそれだけが心配だった。来なかったとして、自分にその理由を英良へ問う権利など、はたしてあるのだろうか。それすらわからなかった。
 夏期補講は明日で最終日。新学期になるまで時を待っていたら、とうとうきっかけが掴めず「なかったこと」になるだろう。
 広斗は彼の左腕の残像に、明日への祈りを重ねる。