『手折られ花はほころぶ』サンプル - 2/6

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 ホイールの少し錆びついた自転車を押して校門を出る。ここから自宅までは十分と少し程度だが、これから吹き出るであろう汗の量を想像し、広斗は辟易とした。
 スクールカバンに突っ込んでいたペットボトルの水は既にぬるま湯だ。残りの量を一気に飲み干して、広斗は自転車にまたがり、ペダルへ足を置いた。

 広斗たちの通う羽川はがわ高校は周辺に駅とコンビニ程度しかない住宅街の側にあるが、少し抜けると「はがわ商店街」とやや褪せた文字で書かれたアーケードの看板に書かれた、昔ながらの商店街に続く。
 肉屋や八百屋などの他にも、個人経営の文房具屋や本屋など学業に結びつくような店が営業されているため、住民の他にも、羽川の生徒が放課後や休日に立ち寄る定番の場所となっていた。
『フラワーショップ・MIKI』――広斗の家は、商店街の中にある花屋だ。「広斗ちゃん、おかえり」。近所に住んでいる人々は未だにちゃん付けで、帰路についている彼とすれ違うと笑顔で出迎える。
 そう呼ばれるのが気恥ずかしく、年齢があがるにつれて黙って頷いて応えるだけに留めている広斗は、店の脇に自転車を留めると、上階に建っている家にはあがらず店内へ入った。
「ただいま」
「広斗、あんたすごい汗ねぇ」
 レジカウンターでノートパソコンを開き、ネット通販の業務に取り掛かっていた母の郁恵が顔をあげ、汗まみれの広斗を見るなり笑った。
 と、思いきやすぐに眉を吊り上げてみせる。
「広斗! あんたまた日焼け止めつけてないでしょ」
「へーへー」
「全くもう! 普段からあれだけ言ってるのに…大人になってから後悔するわよ! お父さんを見ればわかるでしょう!」
 呆れて大きな溜め息をつき、郁恵は天井を仰いだ。毎日見ているせいで、年齢の割に顔に皺の多く刻まれた父の顔が広斗の目に浮かぶ。
 塗れば透明になるはずの日焼け止めをつけていないのがなぜバレるのか。親の勘というものだろうか。それともそれだけ自身の露出している部分が黒く焼けてしまっているのだろうか――火照る顔に触りつつ、広斗は話題を変えた。
「親父は?」
「裏で作業してるわよ」
「何かやることある?」
「そうね、勉強なさい」
 有無を言わさぬ速度でピシャリと言われた広斗は、苦虫を噛み潰したような顔で黙って店の裏に入った。郁恵も反抗的な広斗の態度に慣れ切っているため、もうそれ以上は何も言及しない。
 勉強という言葉を聞き、一瞬だけかすかに英良の顔がよぎる。彼は今ごろ、勉強に励んでいるのだろうか。
「親父、ただいま」
「ん」
 広斗の方を見向きもせず、父の康雄は言葉少なに答え、色とりどりの花々を束にまとめている。近くには優しいライトブルーのラッピングペーパーと、その色にはっきりと映える金縁のリボンテープが置かれていた。
 長年かけて積み重なった太陽の光でできた、たくさんの皺に刻まれ囲まれた目は真剣そのものだ。この状態で話しかけたところで、穏やかな康雄は叱りこそしないものの、ろくに返事がないことがほとんだ。
「何か手伝うか?」
「そうだな、勉強したらどうだ?」
 集中モードに入り切っていると思っていたにもかかわらず、康雄は作業用マスクの下でニヤリと笑って目を細めた。
 しまった、カウンターの会話は作業スペースにも筒抜けだった。広斗はとうとう舌打ちし、眉間に皺を寄せ不機嫌な態度を露わにしてみせる。
「うっせーな、かーちゃんも親父もそれしか言えねーのかよ」
「勉強はしといたほうが身のためだと思っているからそう言っているまでだ」
 淡々と返され、今度は広斗が溜め息をつき天を仰ぐ番だった。郁恵ならヒートアップして大声同士のぶつけ合いになるが、康雄相手だと口喧嘩の相手として分が悪い。
 夕方も近くなってきた時間帯、客足もほとんどなくなってきた。実際に作業は父母の二人で事足りると広斗は諦めがついた。
 再度店内へ戻ると、郁恵は作業しながら「宿題はやってるの?」とほとんど信じていないような適当な口ぶりで聞いて見せる。その態度のお返しとして、広斗も適当に「やってるよ」とだけで答え、広斗は店を出た。
 店すぐ横にくっついている階段を上り、鍵を差し込み開ける。冷房で快適な温度へ冷やされた、一人だけの家の中はやはり安心する。なんだか肩の荷が下りたようだ。広斗ははぁ、と息を軽くつく。
 洗面台へ向かい、手洗いとうがい、そして適当にガシガシと冷水で顔を洗う。洗濯機へ汗をぐっしょり吸い込んだシャツを投げ込み、上裸で自室へ向かう。
 部屋は冷房を入れてないせいで少しだけ蒸れている。外出用のズボンから部屋着のハーフパンツ、そして寝間着も兼ねているティーシャツへ着替えると、すっかりくつろいでしまい、広斗はベッドへ飛び込んだ。
 ベッド横のローテーブルに置いてあるリモコンを手に取り、冷房を点けると、涼しい風が広斗の頬を撫でていった。
 焼ける暑さの昼時に力仕事をしたせいか、睡魔が広斗を襲う。ぼんやりとしつつある視界に入るのは勉強用机と、夏休みも折り返しを過ぎたというのに、半分もこなしていない宿題の山だ。
(やってらんねぇ…)
 まだ得意なほうである数学の宿題は大半が完了しているが、課題図書を読んで書く読書感想文は本すら購入していない。活字なんて読むだけで疲れるうえに眠くなる。
 地理では地元の歴史を自分で調べてレポートにまとめる宿題が出ているが、地元に住んでいる人間が通うような市立高校では、生徒の大半が似たような内容になるのではないかと広斗は呆れてしまい、これまたやる気が非常に出ない。

 勉強なさい。勉強したらどうだ。
 両親の言葉が頭の中を嫌でも反響する。世の中の学生が日々言われているだろう指摘を受けるたびに、広斗のやる気は削れていくのだ。
 しかし、両親にむやみやたらに反抗したいわけではなかった。勉強そのものへの意欲が元から希薄に等しいのだ。
 七月の期末テストでどの科目も補修対象にならなかったのが奇跡とさえ思える。それでも、郁恵には怒鳴られる程度の成績ではあったが。
 郁恵の怒り顔を頭から追い出すと、入れ替わるように再び英良の顔が浮かんだ。のんびりとした口調と、穏やかな笑顔。
 実際に話してみるとやや不思議な雰囲気ではあったものの、品行方正を絵に描いたような英良は、約束された事象のように期末テストも学年一位の成績であり、廊下に名前が貼り出されていた。
 彼なら勉強も宿題も、周りからやれと言われる前にやっているのだろう。自分には到底できない行いだ。
「ねみぃ…」
 冷房も部屋全体に効き始めてきた。広斗は勝手に下りていくまぶたを無理に開こうとはせず、そのまま目を閉じる。
 近くの住民が夕飯の買い出しに商店街へ来ている、賑やかな話し声が遠くに聞こえる。昔から聞いて耳に馴染んだそれは、広斗にとって静寂よりも心地良い。
 次に目が覚めるのは腹が減った夕暮れ時だ。それだけを予感して、広斗は徐々に眠りへと落ちていった。