ぬるい水薬

 咳き込むたびにあばらが軋む。最近は季節の変わり目で空気も乾燥してきているから、咳が出るとなかなか落ち着かない。
 少しの間収まらないのを知っているから、ポケットからハンカチを取り出して口を押さえる。振動が響くせいか、隣の矢田部が俺の顔を覗き込む。

「デラさんどーしたの。風邪?」

 そして俺に何の断りもなく額に手のひらを当て、そして軽く鼻で笑ってみせた。

「なんだ、たいしたことないじゃん」
「…風邪じゃない。小さい、ころから喘息、なんだ」

 手を払い、依然として咳き込みつつもカバンから咳止めの薬を取り出す。普段は寝る前に飲んでいるけれど、こうしてこき使われて終電も危うい時間まで働き詰めにされる時期には持ち歩くようにしている。
 シロップと二層になっている咳止め薬は振ってから飲まなければならない。しかし、薬剤師からも「おいしくない」と説明されたとおり、縮んで息苦しくなる気管支に絡みつくような甘さはかなりまずく、いつまで経っても慣れや市ない。
 隣で運悪く俺とは別業務で残業している矢田部が、何かを察したようにあぁ、と短く呟いた。

「だからセックスのときあんだけ苦しそー――」

 薬を振っていた手をそのまま左でずらして矢田部の肩を殴った。
 悲しいかな、大学時代にマリンスポーツにハマっていたという矢田部の肩は俺よりかなりしっかりとしていて、打ちつけた手の甲のほうが痛くなる。
 痛みにムカついて強くシェイクすると、肩をさすりつつ矢田部はヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべたままだ。

「いいじゃん。どうせ誰も聞いちゃいないよ」
「…もしもの場合を考えろよ」
「『もしも』なんてない。いつもしてんじゃん」

 そして身を乗り出して俺の耳に唇を寄せ、わざと耳朶に音を立てて口づけられる。

「なんならここでしてもいいんだよ」

 背すじがぞわりと反応する。変な刺激を与えられたせいで胸からむかむかしてきてよりむせかえる。
 息苦しく喘いで喉をさする俺を一瞥し噛み殺した笑い声をあげる。睨んでもその視線がこいつに届くことはない。腹立たしい、何もかもが。息もまともにできない胸に、憎しみが染みのようにじわじわ広がって消えてくれない。
 内心の怒りを堪えつつ、ようやく少し呼吸が落ち着いてきて、薬のフタを開けてキャップに刻まれた目盛りに気をつけながら注ぐ。
 こぼれないように持ち上げてぐいと飲み干す。粘つく甘さが喉奥に絡みついて、全部飲んでも薬独特の化学めいた味が舌先にいつまでも残るから、続けてとうに冷めきったお茶を飲んだ。
 ふと気づくと、矢田部がまだこちらを見ているのに気づいた。大きな目が少し細められていると、途端に値踏みされている気になり不快感が一気に増す。

「…なに見てんだよ」
「そう、そうだよ」

 夜もふけて無精ひげがちょっとだけ目立つ顎をさすりながら、何やら矢田部は頷く。

「俺以外見ていないわけ。だからそんな声ちっさくしなくてもいいじゃん」

 確かに、オフィスはもう俺たちのいるフロア以外は見渡す限り消されている。しかし、他のフロアではまだ残っているのかもしれないのだ。
 大っぴらに下品な話ができる図太い神経の野郎は矢田部くらいだ。思わず隠さずに舌打ちしてしまう。

「まだ他で残業してる人いるかもしれねぇだろ。お前本当にいい加減な奴だな」
「ほう、さすがに裏アカがバレた清寺(きよでら)大先輩が言うと説得力が違うッスね」
「……」

 言いようのない屈辱に手に力が入る。
 この拳で矢田部を殴るのなんて簡単だ。どんなに俺がひ弱だろうが、頬にめり込んで鼻血を出させるくらいはできるはずだ。
 しかし、社会的な体裁とか理性とか、そんなものを乗り越えて――俺はこいつから放たれる圧倒的な「力」に最初から打ち負かされている。勝負をする前から負けている。
 運動部出身の鍛えられた身体、体育会系出身とは思えないほどの清潔さ、人懐っこい顔立ち、機転の回る頭。矢田部は新入社員のころから会社の人気者で、あっという間に営業のエース候補と言われるくらいまでにのし上がった。
 俺は内勤営業で入社して、一度体調を崩して以降、こいつらの見積書や請求書やらを処理する経理に回された。
 前の部署の上司にはハーレムだなんて冷やかされたけど、――俺は女性が恋愛対象じゃない。
 今までずっと誰にも、親にも数少ない友達にも言った試しがない。リアルの知人たちにはカムアウトせず、墓まで持っていくつもりだった。
 だけど、――ときどき無性に、ものすごく強い力で抱かれたくなる、やり場のない飢えと渇きに、俺は腕を伸ばして求めてしまう。
 でも俺は、俺自身が好きじゃない。筋肉とは縁遠い身体に浮いたあばらの中に、呼吸も満足にできない気管支と肺が入っているというだけで全身を掻きむしりたくなる。こんな奴、一夜限りでも相手にするのは俺自身がご勘弁願いたいところだ。
 どうやってこの欲望を満たせると言うのだろう。そう考えて、せめてバーチャルの世界ではと思って、SNSを始めたのがずいぶん前のこと。
 オンラインは最高だ。姿が見えないぶん、俺も相手も想像に委ねられる。口では気の利いたことが言えなくたって、文字でなら考える余裕はいくらでもあるし、アイコンは実物の俺とはかけ離れた絵にしたって、見ている人間はあたかも俺の実態だと思い込んでくれる。
 ネットの世界だけが、これからもずっと一人でいるはずの俺の癒しだった。ここでなら仕事の愚痴も、好みの男の話もいくらでもできる。
 会社の後輩が終業ぎりぎりに仕事をお願いしてきてムカついても、顔がいいから許してやってもいいことだって。

『清寺さんって、俺のこと好きなんスか? ヤリてぇとか思うの?』

 人生が終わった日を忘れもしない。
 俺たち経理に見せるものとは全然違う表情を見せる矢田部が、ニヤニヤと意地汚く口角を上げながら自分のスマホに――実物とはかけ離れた俺のアカウントを開いて俺自身に見せてきた日を。
 あれから俺はこいつの言いなりだ。ホテルに呼び出されたらそこへ向かうし、人の気配にビビりながらも会社でだってそういうことをする。
 本当に、嫌なんだ。それに矢田部だってリスクがある。だけどこいつに身体を暴かれて、自分では知り得なかった快楽を脳に刻まれると、もう何が正しいのか正常な思考をする力をどんどん奪われていくんだ。
 アカウントを消すのも考えたけれど、もう知られた以上ネットでも俺の挙動を矢田部に把握されているし、スクショだって撮られているかもしれない。
 どうしてあんなことをしたんだろうと毎日後悔するけれど――俺だってまさかこんな事態に陥るなんて思っていなくて、ただ、居場所を求めて、少しは自分のことを忘れていたくて。

「デラさん、疲れたんなら俺やりましょーか。手止まってるッスよ」
「……いいよ、お前数字扱うのヘタだろ。見積もりだってたまにミスってんのに」
「はは、手厳しー」

 そう笑って缶コーヒーに口をつける矢田部の横顔を見ていると、ただ見ているだけで良かったあの日々も、書類を出すときのあの快活の笑みも何もかもが幻に感じられて、咳は既にやんでいるはずなのに、胸にはじわじわと冷たい虚しさが広がっていった。

《了》