『手折られ花はほころぶ』サンプル - 1/6

 三木と間宮。名前順に並んですぐ前にいる人間にも関わらず、広斗は英良の声をよく覚えていない。
 席が前後だったから、四月は挨拶と軽い自己紹介を交わしただけ。声を記憶していないのだ、自己紹介の内容などつゆほども残っていない。それからプリントの受け渡しや登校時にあいさつをする程度で、ゴールデンウイーク明けには席替えが実施されたため二人は離れた。
 広斗が知っている英良の情報は、五月末の定期試験で学年一番の成績を取ったため、瞬く間に秀才である評判が学年中に広がったことくらいだ。それくらい目立てば嫌でも印象に残る。しかし、逆に言えばそれ以外はない。友人が英良の話題を振ると、顔より先に前の席にいるときの小さな背中が思い出された。
 成績が異なるだけで違う世界の住人に感じられるものだ。言葉として「学年一番」は知っているものの、いざ目の前にすると現実味を帯びない。
 評判が広まったとき、平均よりやや低い点が刻まれた自身のテスト用紙と目の前の背中を見比べて、この先一生関わりを持つことがないのをうっすらと予感していた。

「ねぇ、熱中症になっちゃうよ」
 そんな遠い存在であるはずの英良の声が上から降ってきた。
 日がいきなり陰ったものだから、太陽が雲に隠れたのかと思い見上げると、八月の燃え盛る太陽の代わりに笑みを浮かべた英良が立っていた。広斗はぎょっと驚いて、かがんでいた姿勢を崩して尻もちをついた。
「ま、間宮?」
「三木くん、お疲れさま」
 ニコニコと楽しげな顔で英良はカバンへノートをしまう。陰の正体は雲ではなく、英良が頭上にかざしてくれたノートだったらしい。それは分かったものの、なぜここにいきなり英良が現れたのか、広斗は目を白黒させて彼の頭のてっぺんから爪先まで視線を往復させる。
 英良は広斗の態度を気にすることもなく隣へしゃがみこんだ。まっさらになった思考を整理して、広斗はようやく声を絞り出す。
「え、っと。間宮、なんで学校ここにいるんだ?」
「今日から夏期補講なんだ」
「かき…? …あぁ」
 自身とは縁遠い話だったため、そのワードが何を示すのか頭の中で正解を探るのにやや時間が必要だった。
 広斗たちの通う高校では、長期休暇中に補講を行う。もともとは成績が危ぶまれる生徒を対象にしたものだったが、数年前に進学率向上のために内容を拡充させ、発展的な内容も取り扱うようになった。
「先取りコース」は参加したい生徒だけが申し込む。英良はそれに参加しているのだろうとようやく合点がいった。ちなみに広斗は「先取りコース」の案内が書かれたプリントをもらったその日に捨てている。
「律儀なもんだな。夏休みも出席なんて」
「そうかなぁ。三木くんはどうして学校に来てるの?」
「どうしてって…見りゃわかんだろ、部活だよ」
 土まみれの軍手をはめたまま握ったり開いたりしてみせる。額に汗が伝い目に入りそうなのを、汚れたままの軍手の甲で乱暴にぬぐうのを見て、今度は英良が目をぱしぱしとまたたかせる番だった。きょろきょろとあたりを見渡し、不思議そうに首を傾げる。
「園芸部の人、他にいるの?」
「俺が当番なんだよ。あと他の奴は元から来てねぇ」
 英良の方も見ずにそう言い放つと、広斗は作業を再開した。ケースの中に入っていたポットを取り出し、根が崩れぬようにそっと取り出す。やわらかなビニール製のポットは扱いが難しく、広斗は睨むように向き合っていた。頭上、遥か遠くで燃える太陽がじりじりと背を焦がしていく。
 そんな彼の真剣さを真似るように、英良は息を詰めてその様子を見守る。広斗に手によって無事に花壇へ植え替えられた青い花は、今の空を思わせる。二人は同時に息を吐いて脱力したが、ハッとした広斗はぐるりと首を真横に動かして英良を訝しんだ。
「いや、間宮なんでこっちに来たんだ?」
「え? だから夏期補講…」
「ちげぇ、どうしてわざわざ花壇まで来たってことだよ」
 学年一の秀才から放たれるずれた回答に広斗はずっこけそうになる。英良はもう一度にっこり笑みを浮かべたあと、いたずらっぽく目を細めて膝へ顔をうずめた。
「あのね、見えたんだ。窓際の席に座ってたら、花壇のところに誰かいるなって。窓からじゃ誰か分からなかったけど、近づいたら三木くんだった」
「…そーかよ」
 ずいぶん暇なんだな、と嫌味を言いかけて広斗は口をつぐむ。ほとんど話したことがない相手によくそんな話しかけようと思うものだ。
 英良は人見知りをしないタイプなのかもしれないと思い至る。初めてまともに会話を交わして、広斗は記憶のかろうじて隅に残っていた、勉強を教えるようクラスメイトから請われる英良の姿を思い出した。
「きれいだねぇ」
 青い花びらを見つめうっとりと目を細める。そんな英良を尻目に広斗は立ち上がり、あらかじめ用意しておいた水いっぱいのジョウロを持ち上げた。
 注ぎ口からこぼれる光の粒が、太陽のギラギラとした熱線を反射して煌めき、乾いた土へ染みこんでいく。気分はわずかにクールダウンしたが、それでも流れる汗はとめどなく顔を伝い、しずくは顎からちぎれ落ちる。
「暑くねぇの?」
 八月の真夏日だというのに、英良は長袖のワイシャツを着ている。第一ボタンまでしっかり締めて、袖のカフスも閉じられていた。見ているだけでも暑いのに、英良本人は汗ひとつかいていない。先ほどまでクーラーの効いた教室にいたからだろうか。
 一方で広斗が今日着てきたオレンジ色のティーシャツはすっかり汗まみれになり、土と似たような色になってしまっている。
「暑いんだけどね。日焼けすると真っ赤になってけっこう大変なんだ」
「そーなんか」
 適当な相槌を打ちながらも、広斗は合点がいった。ワイシャツから少し露出している英良の肌は陽に透けそうなほど白く、少し病弱な印象すら受ける。勉強できるのは知っているが、英良が何か目立ったことをした覚えがまるでないため、運動については見た印象の通りなのだろう。
 対する自身の肌はすっかり焼けて小麦色が染みついている。親に何度注意されても、日焼け止めを塗るのを失念した結果だった。
「僕、そろそろ行かなきゃ」
 閉じられた袖から覗く腕時計を見て、英良は立ち上がりズボンについた土埃を払った。どこに行くかはわからないものの、そもそもいきなり来たのもあり、広斗は返す言葉に窮し「そうかよ」とだけ小さな声で返す。
 はたして英良はここまでマイペースな男だったのか。勉強のできる品行方正な優等生、と言い切るには広斗の中に違和感が残る。ミステリアスというよりかはやや妙な感じだ。
「またね」
 去り際、英良は広斗を振り返り、にこやかに手を振ってみせた。反射で手を振り返し、細いシルエットの後ろ姿を、そのまま少し呆然としたように見送る。
 いきなり来て、いきなり去る。嵐ほどの勢いはとてもないが、予想外の人物が来るとはこうも妙に心臓がざわめくものなのか。
「…またね?」
 英良の言葉を反芻して、広斗は首を傾げつつ顎を掻く。
「そっか」
 一人で呟き、花壇周りに散らかしたスコップやジョウロなどをガチャガチャと用具入れにしまい、肩に力を入れて持ち上げ、倉庫へのろのろと向かう。
 夏期補講は今日からだから、英良は明日も登校するのだろう。広斗は明日も花壇周りの水やりの当番だ。
 英良は「またね」と言ったから、きっとまた、汗をかきつつ花の様子を見る広斗を涼しい教室から観察し、そしてここを訪れるのだろう。
(変な奴)
 彼から感じたマイペースで妙な雰囲気を、広斗は一言でそうまとめた。
 しかし、名前順で前後の割に印象がまるでなかった英良の輪郭が、今日のこの短い時間だけで急に色濃くなったのは確かだった。

 薄暗い倉庫内で用具入れを半ば落とすようにして置くと、汗が数滴コンクリートの床へパラパラと飛び散った。
 軍手を外し、用具入れに投げ入れると広斗はパンパンと掌を叩き払い、蒸し暑い透明な煙の満ちているような倉庫からさっさと飛び出る。
 真夏の日差しが目に突き刺さる。顔を思い切りしかめ、広斗は大きく伸びをした。顧問の飯田(いいだ)へ報告してから帰ろうかと思ったが、頼まれた仕事はすべてやり尽くしたのだ、面倒くささが勝り、広斗はそのまま帰宅する方を選んだ。