『手折られ花はほころぶ』サンプル - 6/6

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 灼熱は五日間も保つ気力はなかったようだ。真っ白な入道雲が青空をすっかり隠してしまっている。夕方から夜にかけて雨が降るらしい。
 地面から蒸し蒸しとたちこめる湿気が厄介だが、それ以外は比較的過ごしやすい昼過ぎのこと。
 土と花の具合を見て、広斗は今日の水やりをやめることにした。水はたっぷり与えすぎても根腐れなどを引き起こす原因になる。今日くらいは空けても大丈夫だろう。そう判断する。
 となると、やることはもう残されていない。誰も彼もが目を逸らしている用具入れの整理はあるが、そこまではさすがにやる気になれなかった。
 もう帰ってもいい。そのはずなのだ。しかし、広斗は花壇の前に立ち尽くし、ただ待つ。
 いつも彼の来る時間は少し過ぎてはいた。もうとうに家か予備校に直行していても変ではない。雲を経ているとはいえ、真夏の日差しは肌を少しずつ焼いていき、汗は額に浮かび流れ、まぶたの上に留まるのを、たびたび目をこすって払う。
 見てしまった責任感なのか、何とかしてやりたい親切心なのか、もう広斗には判断がつかなかった。
 ただ、衝動混じりな意思の中で――側にいてやることくらいならできる。そう感じていたのは確かだった。

 何分経っただろう。蝉は鳴き続けている。
 その中に交じって背後でジャリ、と土を踏む音がした。
「…三木くん、熱中症になっちゃうよ」
 振り返ると、そこには一日目に会ったときと変わらない、長袖のワイシャツをしっかりボタンを留めて、汗ひとつかいていない英良が立っていた。違っているのは、いつも浮かべていた人のいい笑みがないところ。
 穏やかでぬるい、夏の風が二人の間に吹いて止む。
(来たか)
 嬉しさは一瞬で沈み、いざこうして本人を目の前にすると、言いたいことが喉あたりで渋滞を起こし、つっかえて何も出てこない。
「間宮、予備校は?」
 とりあえずそれだけを聞く。ゆるやかに、しかしぎこちなく表情をゆるめていった英良は、花壇に来てから握りしめていたスマートフォンに、さらに力を籠める。
「今日は先生に質問して、ついでに図書室で勉強していく、って言った。…お母さんにこんな嘘つくの、初めて」
「そーかよ」
(俺…俺たちにはずっと嘘ついていたのに)
 思わずそう言い返してやりたくなるのを、広斗は唇をぐっと噛んでこらえる。
 自傷について、少しだけでもいい、わかりたい。本人を糾弾する真似なんてしてはならない。それが康雄の提言やインターネットでいろいろと調べた広斗なりの答えだった。
「んじゃ、長居できるってわけだな」
「…うん」
「とりあえず日陰行こーぜ、暑くてしょうがねぇ」
 カバンを持ち、広斗は校舎裏を指さす。頷きもせず、英良は黙って広斗の跡をついていく。
 ロボット? いや――これは人形だ。真っ白な肌と唇、汗ひとつかかない身体、そこに隠された多くの傷。
 英良が何かしらを欠いていないか、改めて広斗はゾッとする。しかし、彼は人形ではないのは充分理解していた。彼は花が好きで勉強が得意な、ただの高校一年生のはずなのだ。
「ふぅ、ここならいっか」
 広斗は地面にカバンを投げ捨て、クッション代わりに尻に敷いて座り込む。英良はその様子を見て一瞬身体の動きを固めたが、おずおずと広斗の隣で膝を抱え込んだ。
 彼の見つめる先は雑草だ。もしくはその中に紛れている花かもしれなかった。広斗は曇天を見上げて話を切り出す。
「昨日は悪かったな、ごめん」
「…え?」
「見られたくないもの、勝手に見て」
 反応が怖かったものの、広斗は右隣の英良の方へきちんと顔を向けた。
 英良は広斗の顔を見て、驚いて目を丸くさせている。いつぞや思った、小動物のようだという印象が広斗の中で少しだけよみがえった。
 それからまた、膝に顔をうずめるように俯いてしまう。
「…僕こそ、ごめん」
「はぁ? お前が謝ることなんかねーだろ」
 逆に謝罪を受け、広斗はかなり戸惑った。勘違いで嫌がる本人の腕を引き寄せ、勝手に腕をまくったのは広斗のほうだ。確かに無数の傷跡にはショックを受けたものの、英良に謝る筋合いはないはずである。
「本当に。謝ることねぇ。俺がやったことなんだ」
「…でも、ビックリしたでしょう?」
「……それは、…まぁ」
 語気を強めて念押ししたものの、図星を突かれた質問に広斗は返答に詰まった。ほとんどかすれるほど声を小さくさせて、耳にも聞いてわかりやすく動揺する広斗に、英良は顔をあげて、それからかすかに身体の緊張を解いた。

 それからしばらくの間、二人はずっと無言を保ち続けていた。
 時折、広斗が自販機で買ったスポーツドリンクを飲み、英良は親に持たされたボトルに入っている麦茶を口に含んだ。
 かける言葉は互いに選び続けていた。互いに聞きたいこと、言いたいことは多くあるはずなのに、どれも正解ではないという自信のなさが沈黙を深めていく。
 ――先に口を開いたのは広斗だった。乾ききった地面を見つめ、おずおずと問う。
「いつからやってんの」
「…中学生くらいのころから、かな」
 思い出したくない大小の記憶の数々が勝手に思い起こされ、英良はまぶたを閉じる。
 自傷について誰かに話すのは初めてだ。自身でも、なぜこの夏休みで初めてまともに話した広斗に教えているのかよくわからない。
 しかし、派手なリアクションや言葉の数々をぶつけられないのは、張りつめた英良の心に少しの隙間をもたらし、そこへ安らぎが流れ込んでいく。
「…言いたくなけりゃ別にいーけどさ」
 相変わらず調子は粗雑だが、言葉と言葉の間にクッションを挟むような広斗の質問は、英良の耳にスッと入り込む。
「どーして腕、切るんだ。俺調べたけどよ、それでもわかんなかった」
 英良自身が後悔と醜悪の塊と感じてやまない傷跡の理由を、広斗は自分なりに考えてくれたのだ。
 ハッと顔をあげると、広斗の目がかすかに充血しているのにようやく気がついた。
 単に読書感想文に難航して夜更かしをしただけかもしれない。彼の家は花屋だと話していたから、その手伝いが夜遅くまでかかっていただけかもしれない。
 それでも――自身をこうして気にかけてくれる広斗に、英良の胸の内に暑さ以外の何かがじんわりと広がる。
 いつも緊張で冷えている場合がほとんどの自分の身体に、初めて血が巡り始めたような、言いがたく、それでいて不快さからはかけ離れた感情だ。
「やっぱ、気になるよね」
「気にすんなってほうが無理」
「あはは、…僕もね、説得力ないかもしれないけどさ。やるたび後悔はしてるんだ」
 血が巡ったことで、先日何の感慨もなくつけたばかりの切り傷が再び痛みを持ち、英良は顔をしかめる。
 マイペースなのは変わらない英良の回答を待ちながら、広斗は今こうして自分がかき集めている情報のピースをつなぎ合わせて考える。
 常にトップで保たれる成績、内申点への加算が期待される生徒会への所属、親に嘘をついたと告げた際の顔のこわばり――親が絡んでいると結論づけて間違いないだろう。
「でもね」
 袖越しに左腕をさすり、英良は目を伏せる。
「…どうしていいか、もうわかんなくて」
「…そーか」
 問題の核であろう親のことまで深掘りはできなさそうだ。しかし広斗は、そこまで英良から聞き出せたことでもう良しとした。
「俺にもわかんねーけど、わかんなくてもよくね?」
「え?」
「テストじゃねーんだからさ。それに、お前は俺んちが花屋だってことも知らなかったろ」
 種からまいた花が開くのにかかる時間と、人が何かの答えへ導かれるまでにかかる時間はどっこいどっこいなのだろう。粗暴で愛想がない広斗ではあるが、待つのは得意なほうだった。
 少しからかってニヤリと笑ってみせた広斗に、英良はきょとんと少しの間放心して彼の態度を見つめて――そして、顔の前で掌を合わせてゆっくりと口角を上げてみせた。
 その頬に差す薄桃色は、昨日康雄が手にしていたガーベラを広斗に思い出させた。
「間宮さ、親に嘘つく余裕はあるわけ?」
「うぅん、微妙。お母さんが鋭くてさ…」
 なんだか少しだけ脱力した二人は、そのままぼんやりと古い校舎の、やや褪色した壁を見つめながら話を続ける。
 蝉しか聞いていない、たった二人だけの会話だ。
「じゃあさ、俺がいるときでもいいし、どっちでもいいけどよ。たまに花壇(ここ)来れば? 花好きって言ったろ」
 自分がいるときと言ったが、園芸部は幽霊部員の宝庫なので自分以外がいることはまずない。飯田は部員ではない英良がいたところで、何か口を挟むような性格ではないから、英良がいつ来るぶんには特に気にしなかった。
 まるで夢を話された気分に陥り、英良は嬉しさを噛みしめつつ、あふれる不甲斐なさは両親の顔を嫌でも思い起こさせた。
「そうだね、三木くんがいたら。…でも、どうかなぁ。難しいかもしれない」
 何度も図鑑を読み込んで、目と記憶に焼きつけてきた花の数々。極彩色をまとう花々や、心を落ち着かせる木々や草の香りは、今でも英良の胸をときめかせる。
 そして、広斗はそれらの名を知っている。わかち合えたら、どんなにいいか。
「お父さんもお母さんも、怒るもん」
 彼の瞳に宿る、諦めに対するさみしさに、広斗はとうとう何も言えなくなる。

 日々は夏を引きずりながらも、確実に変わりつつある。
 出席番号が前後の広斗と英良は――この日、ようやくお互いを知るに至った。

《続きは同人誌で》