『手折られ花はほころぶ』サンプル - 3/6

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 夏期補講の二日目にあたる次の日。
 広斗は登校して花壇へ水をやっていた。今日も部員は誰も来ていないし、近くに顧問がいない。広斗がいなければ、学校の花壇はたちまち干からびるだろう。
 羽川高校では何かしらの部への所属が義務付けられている。開校時からある錆びついた校則だ。しかし、部活動でたいした実績も残せていないのも相まって、あらゆる部活動においで幽霊部員が多発している。
 やることなど花への水やり程度と周囲から思われがちな園芸部など格好の的だ。真面目に毎週出ており、かつこうして夏休みの間も花壇やプランターの面倒を見ているのは広斗のみである。
「三木くん、こんにちは」
「…お疲れ」
 人の気配も、他の誰かのやる気も何もない花壇へ英良はやはり訪れた。
 花の卸の担当や他の店の人への挨拶として「お疲れ様です」という言葉が染みついている広斗は、昼時の挨拶にやや面食らい、おずおずと英良へ返事をした。
「今日も他の人はいないんだね」
「いつもいねーよ」
 散水用のシャワーホースで水を撒きながら、広斗はぶっきらぼうにそう答えた。英良の性格だ、嫌味ではないとはわかっていても、一人である事実を突きつけられるとかすかに気に障った。
「三木くん、暑くない? 僕、麦茶持ってるよ」
「…昨日も言ったけど、間宮こそ暑くねぇの」
「うん、もうなれっこだよ」
 ニコニコと愛想よく微笑んでみせる英良の格好は昨日と同じだ。第一ボタンも袖もぴっちりと閉じられている。街中で浮いたりしないのだろうか。
 見ているだけで暑苦しく感じるかと思いきや、英良の額には汗ひとつ浮かんでいない。本人の言う通り、肌を守るのは慣れているのだろう。この暑さで顔も白いままなのは不思議ではあったが。
「今日も三木くん、窓から見えたよ」
「…お前さぁ、授業ちゃんと聞いてるわけ」
 問うてから、愚問だと広斗は後悔して額を押さえた。相手は学年一の秀才だ、何当たり前のことを聞いているのか。
「うん。それはバッチリ!」
 朗らかにそう答え、英良は指でオーケーマークを作って見せた。何を当然、といった怪訝な態度を取られず、広斗は少しだけ安心する。
 英良は昨日と同じように、散らばり乱反射する水滴の数々を、同じくらい目を煌めかせながら眺めていた。
(そんなにきれいなもんか?)
 昔から店の手伝いをしてきた広斗にとってあまりにやりなれた作業を、こうも感心した顔で見つめられると妙に身がかゆくなる。
 たかだが部活動の一環だが、自身が今部活中であるのを広斗は再認識し、英良に問う。
「間宮って何部だっけ?」
「ううん、部には入ってないよ。生徒会所属なんだ」
「あ、そういやそうだっけ」
 羽川高校の生徒会では生徒への校則順守の呼びかけや定期的な高校周辺の清掃や、地域のボランティアなどの奉仕活動を行う。
 定期的な活動を求められるほか、生徒会だけは幽霊会員を許されず、委員長と顧問の教師が厳密に出席率や参加態度を管理している。その代わり、内申点は上げてくれるとのもっぱらの評判だ。
「生徒会は夏休みなんもねーの?」
「七月は河原のゴミ拾いをしたけど…そのくらいかなぁ」
「うへぇ、こんな暑い中でよくやるぜ」
 自分のことを棚上げして、広斗は感心と畏怖を同時に覚えた。河原なんて水面の照り返しも相まって日焼けとの戦いになるだろうに、肌の弱い英良はさすがに心得ているのだろうか、見えている部分はやはりどこも真っ白だ。
「三木くんもお疲れ様。熱中症だけには気をつけてね」
 英良は微笑んで広斗を労わる。
 学年一の成績に、この穏やかな性格だ。さらに、広斗はあまり関心がないためピンときていないが、器量も良いとのことで、クラスの女子がテスト前にこぞって英良へ勉強を請うていた姿をなんとなく思い出せた。
 こうやって改めて英良の顔を見ると、色が白い以外に仔犬を彷彿とさせられるのは、どこか掴みどころのないのにやわらかい性格が先に印象づいてしまったからだろうか。
「僕の顔に何かついてる?」
 首を傾げて英良は顔に触った。黒くて丸い目がパシパシとまたたきをすると、ますます人懐っこい生き物のていを成してくる。
 思わず笑いそうになるのを奥歯で噛み殺しながら広斗は首を横に振った。
「いいや、別に。間宮も暑かったら日陰行けよ」
「うん!」
 広斗がホースを持って移動すると、英良も後ろをひょこひょことついてくる。しかし今度は「なんで来たんだ」と言う気にはならなかった。
 花壇なんて、「学校の背景の一部」として捉えていない者が大半だろう。誰がどう管理しているかまでを把握している人間なんて、教師も含めてはたしてどれだけいるのか。
 しかし、間宮は花壇、そしてそこにいる広斗に気がついた。存在を認知されたのが、広斗にとっては気を許す理由に充分成り得たのだ。
「間宮は夏休みの宿題、どんくらいやった?」
 広斗が何気なく振った話題に、英良は普段通りの調子でケロリと答える。
「もう全部済ませたよ」
「はぁ!?」
 持っていたホースノズルが滑り落ちそうになり、広斗は慌てて手元をあたふたとさせてなんとか持ち直した。英良は驚いてみせた広斗には顔色も変えず、そのままのんびりと話を続ける。
「今月のねぇ、三日くらい? には終わったかな」
「マ、マジかよ…」
 それでは夏休みが始まってから二週間足らずで全て終えたことになる。自分はまだ半分も終わらせていないなんて口が裂けても言えなくなった広斗は、気まずさに暑さとは別の冷や汗が吹き出るのを感じた。
 自分が家でダラダラしたり、友人と遊びに出たり店番を担ったりと適当に過ごしている間、間宮は勉強を続けていたのだ。その事実にじょぼじょぼと、シャワー口から出る水が弱々しくなる。
「三木くん疲れたの? 代わろうか?」
「いや、いい…」
 はぁ、と深い溜め息をついて広斗は肩を落とした。
 類は友を呼ぶ。広斗の友人もまた、一部を除いて広斗と同じような成績の者ばかりだ。同じ高校に通っているのにこうも差が出るものかと恐れすら覚えかける。
「読書感想文も終わらせたってことだよな」
「うん」
「あれ、どーだった? 俺、本読むのすげー苦手でまだやってねぇんだわ」
 他にも手をつけていない宿題が多くあるのは伏せつつ、花壇へ水をやり終えた広斗は、水栓から外したホースを巻き取りながら英良へ問う。
 本を読むこと自体が苦手な広斗は、せめて事前にどんな話だったかを英良から聞いておいて、それから流し読みでもできないか企んだ。
 しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
「うーん…よくわからなかった」
「…は?」
「僕、感想文とか書くの苦手で」
「お前苦手なこととかあんの!?」
 目を伏せて気まずそうに笑い頭を掻く英良に、広斗は先ほどと同等、もしくはそれ以上の驚きをそのまま大声にした。
 少しだけ驚いて肩をすくませた英良だが、おかしそうに笑ってみせる。
「たくさんあるよ、体育とか。僕、運動音痴だし」
「いや、だから読書感想文…」
「あぁ! そうだ、うん」
 またしても妙に脱力させられる返答が来て、広斗は溜め息をついた。この二日間でわかったことは、英良がやはり勉強のできる優等生であることと、本人の会話が至ってマイペースであることだ。
 立ちあがり、ホースリールを片手に持ちつつ倉庫へ行こうとすると、英良もついてきた。二人は並んで歩く。
 真上よりかは少し傾いた太陽が、二人分の真っ黒な影をつくり、それらはくっついては時々離れた。
「なんだか、読んでもなんというか…『フーン』って感じだった」
「『フーン』って…。つまんなかったのか?」
「いや、…僕、感想を書くの苦手で。でも要点ならわかるから、それに少し自分が思ったことをくっつけた感じかな」
 優等生のメソッドをふむふむと頷きながら聞いているものの、英良にも苦手な勉強分野があることが広斗にはまだ信じられずにいた。
 相手は学年で一番の秀才な生徒なのだ。成績なんて下から数えた方が早い広斗にとって、英良には歴史に名を残してきた学者ほどの価値――もとい、別世界の人間のような異質さを覚えていたのだ。
「章は三つに分かれているけど、メインは最初の章の主人公だから、そこから視点を外さずに書いたら怒られないと思うよ」
 英良はちょっとだけからかうように、いたずらっぽく笑った。広斗はそんな秀才がマニュアルどおりに宿題をこなしているのが意外だったのだ。てっきり、読書感想文も逐一課題図書に感銘を受けながら書いているものなのかと。
 部活動に使われている物が雑然と詰め込まれたいつもの倉庫へ入ると、英良は入ったことがないのかキョロキョロと見渡している。そして埃っぽいせいか、一度だけ小さくくしゃみをした。
 ホースリールを定位置へさっさと戻し、倉庫へ出る。日差しは今日も調子よくカンカン照りだ。
「んじゃ、最初だけ読みゃいいわけだ」
「えー、全部読みなよぉ」
 おかしく笑ってみせる英良を見ていると、広斗はなんだか奇妙さを覚えた。いくら涼しい校内の中にいたところで、外をこんなに行き来したら冷房の冷たさなんてとっくに奪われるはずなのに、英良は未だに汗ひとつかいていない。
 本当に、肌や身体のどこかに何かしらの病を患っているのだろうか。聞くに聞けず、広斗は内心で気まずさを覚えつつ話題を探す。
「僕、そろそろ行くね。今日もありがとう」
 しかし、その前に英良が長袖のシャツから覗く腕時計を見て広斗へ告げた。昨日は臆して聞けなかった質問を広斗は口にする。
「昨日もどっか行くって言ってたけど、塾とかか?」
「うん、予備校の自習室にね」
「はぁ」
 ほとんど絶やされることのない微笑みで告げられる行き先に、呆れと感心の混じった、妙にため息交じりの声が出てしまう。
 高校生活、あっという間の三年間だと教師からは言われるが、まだ一年生の夏休みである。そんなに学ぶことがあるのか、広斗には見当もつかない。
「三木くん、明日もいる?」
「花壇見りゃわかんじゃねーの」
 少しひねくれた広斗の回答にも、英良は気分を損ねることはなかった。それどころか、笑みを顔いっぱいに浮かべて翻る。
「それもそうだね! それじゃ、またね!」
 手をブンブンと振り、英良はやや駆け足でその場を去っていった。
 二人で会話していたせいか、場の静けさが一瞬だけ濃くなり、すぐにいつも通りへと戻った。
 英良の別れ際の挨拶は、明日も広斗は花壇へ来るとほとんど確信めいた、明朗な口調だった。
(なんでバレてんだよ)
 汗で張りついた前髪をあげつつ、図星を突かれて広斗はムスッと下唇を突き出したが、それもすぐほどく。
 広斗の見間違いでなければ、白磁をそのまま肌にしたような英良の頬に、ほんのりとかすかな赤みが差していた。
 英良本人も、もしかしたら今まで接点のなかった広斗へ、広斗が英良に抱いているような物珍しさを感じているのかもしれない。
 しかし、仮にそうだとしても英良は無邪気に笑うから、それまでただのガリ勉優等生だと思っていた本人像が、広斗の中でみるみるうちに全面塗り替えられていった。
 少なくとも、成績を鼻にかけるような嫌味さは一切感じられない。それもまた、英良の人望を形作る要素であった。
(明日は何時に来るとすっかな)
 夏期補講の案内が記されたプリントを捨てたことを若干後悔しつつ、広斗は眩しすぎる日差しから腕で顔を隠しながら自転車置き場へ向かった。