きみと一緒に暮らせたら

「そういえばさぁ」
「なんだ」
「あの服…グレーで、よくブルーのネクタイと合わせてたやつ。あれいいんじゃないか?」

 今日のパーティーで何を着ていくかを選ぶべく、自室のクローゼットへ向かった桜庭の後ろ姿をちらりと視線で見送ったあと、天道は手元に気をつけつつ玉ねぎへ包丁を入れていく。
 細かく刻んだ玉ねぎが目に沁みて思わず目頭を押さえた。そうしながら脳裏に浮かべているのは、今説明した、シワひとつグレーのシャツをパリッと纏っている桜庭の姿だ。鮮明に思い出せるものの、最後にいつそれを見たかと言われると天道は途端に自信がなくなる。

「そんな昔の話を」

 天道がどの服を示しているかが桜庭にもすぐ理解できた。キッチンにいる彼にも届くように、少し声を張り上げて答える。

「君たちと初めて会ったころくらいに着ていたものだぞ」
「ん? そうだっけか」

 指摘され、天道は笑って答えながらも記憶を続けて探る。会ったころといえば桜庭がまだ30歳にも満たないどころか、ようやく20代を折り返して少ししたくらいのときだ。
 彼が服を探しているところを見て、ぱっと浮かんだのがそれだった。確かに桜庭の言う通り「昔の話」だが、どうにも自身の中で当時の桜庭が印象づいていることを天道は自覚する。

「でも気に入っていなかったか、あれ」
「確かにな」

 正直に認め、クローゼットから糊のきいたホワイトカラーのシャツを取り出した。
 天道の言葉を受けた桜庭は、吊り下げられたり、畳まれてしまわれたりした洋服たちを改めて見てみる。彼の言うシャツは、この中にはもうない。

「しかし、あれも君たちと会う前から着ていて…ずいぶん前に捨ててしまった」
「そうか」

 オリーブオイルとにんにくのあたたまるいい香りが満ちて、キッチンカウンターを乗り越えて無人のリビングにも届いていく。
 みじん切りした玉ねぎをフライパンへ入れて炒める。あまり物はなくても、天道が通うようになってから食べ物や食器類の増えた棚や冷蔵庫を確認し、どの具材を次に入れようかと考える。
 しかし、「捨ててしまった」という桜庭の声が妙に耳の奥に残ってしまったものだから、最近の彼が着ていたものをなんとか思い出そうとする。

「あ、俺あれ好きだよ」
「どれ」
「流れ星みたいなブローチ。二人で行った先でたまたま見つけたじゃん。ジャケットに合わせたらどうだ?」
「…検討しよう」

 まさにネイビーのジャケットを手に取っていた桜庭は、天道の耳がぎりぎり拾えるくらいの声量で答えた。
 衣擦れの音まではさすがに聞こえてこなかった。炒めた玉ねぎが少しずつ透き通っていくのを確認しつつ、天道は手を動かすのをやめない。
 火が充分に通ったところで、木べらを置いてトマト缶を開ける。計量カップに少しの水を注ぎ、そして先ほどキッチン下から見つけた、大豆の水煮缶もすぐに入れられるようにフライパンの横に置いておいた。

「そろそろか」

 独り言を呟き、天道は跳ねないように気をつけながらトマト缶の中身をフライパンへ投入する。
 真っ赤に熟れた果肉そのままで缶に閉じ込められていたトマトを潰すと、汁がすぐにぐつぐつと煮えてきた。あらかたペースト状にできたあと、水、そして大豆煮を煮汁ごと入れる。
 桜庭は飾りつけを楽しむ習慣がいつまでも身につかなかったから、それぞれの調味料ボトルにラベルシールを貼ったのは天道だ。コンソメ、そしてこの前の海外ロケで購入したハーブソルトをサッと振りかけて軽く混ぜると、天道はようやく蓋をした。
 キッチンタイマーをセットする。そのとき、昔――アイドルになるよりもだいぶ前だが、派手に擦ってつけてしまった手の甲の傷跡が、いつの間にかもうすっかり薄れていることに天道は気がついた。
 デビューしたてのころは緊張で少し浮足立っていたのもあり、こうしたところの写真映りをやたらと気にしていたものだったが、細胞は入れ替わり、ザラザラの傷跡をすっかりきれいにしたようだ。
 「季節の変わり目は手が乾燥しやすいから」と、桜庭がスタッフや出演者の誰かから聞きつけたのかプレゼントしてくれたハンドクリームのおかげか、傷跡がないどころか少しの光沢さえ帯びている手の甲をじっと見つめる。
 昔に比べたら血管が目立つようになった。天道がそうして頭に浮かべるのは、夜遅くまで教材をめくっていた大学生のころと、ステージ上で桜庭や柏木と幾度となく重ねる手だ。

「何をぼんやりしているんだ」
「あ、桜庭…」

 シックなジャケットにキラリと浮かぶブローチは、まさに夜が完全に来る前の空のようで、天道は思わずほう、と溜め息をついた。

「かっこいいな。似合ってる」
「君がつけろと言ったのだろう」

 溜め息をついて軽く睨んでみせるところは変わらないが、目のあたりの影は少し深みを増したようだ。少し誤るとどうしても背伸びした印象になる服を見事自身のものにし、片腕に抱えているコートさえもあの頃から変わってしまった桜庭の姿が、天道の目にはデビュー当時のものと一瞬重なる。
 シルバーの腕時計をちらりと確認し、桜庭は一度リビングの椅子についた。予約したタクシーが来るまではまだ少しある。天道もそれに倣い、エプロンをつけたまま桜庭の向かいに座った。逆の手首に付けている、もうこの部分へ根付いてしまったかのようなイルカのブレスレットが揺れて光を反射する。

「監督の試写パーティーなんて、桜庭も名役者だな」
「縁があるのはありがたいが…何人来るのか」

 プロデューサー伝いに受け取った映画監督の招待状を見て、桜庭は先ほどよりも深い溜め息をつく。神経質そうに指先に力を込めて手を組んだそのうえに、天道はリラックスさせる意味合いも込めて自身の手を重ねた。
 そのまま自然に互いの指をなんとなく絡ませる。節が少し張った二人の手。

「うまいもん出たら教えてくれよ」
「どうせ歓談でありつけないだろう」
「なら冷蔵庫にヨーグルトと切ったグレープフルーツが…あと大豆のトマト煮作ってるから」
「あぁ、ありがとう」
「俺も食ってから出るよ」
「……」

 なんとなくの戯れで絡ませていた手を離して、煮えているフライパンへ背をピンと伸ばして確認する天道の伸びたえりあしを、桜庭はじっと見つめた。

「そういえば今日は夜から雨が降るみたいだ」

 桜庭の部屋に来る前に新聞で読んだ情報から、天道が世間話へ話題を広げていくのを、桜庭は時折頷きながら聞く。

 彼が一緒に暮らそうと持ち出したのは、天道の目の下のシワが今よりも深くなる前だ。
 こんなに互いの行き来するくらいなら、と。事実、桜庭自身は天道の部屋まで行くのを面倒がっていたところがあった。
 しかし天道からの回答はノーだった。そのときには恋人として交際を重ねて幾年か経っていたから、断られたとき、桜庭は正直不意を突かれた気になった。
 普段は快活に話すのに、言葉を選んで遠慮がちに俯いて首筋を掻いていた天道を、桜庭は今でもはっきりと思い出せる。

『一緒に暮らせたら嬉しいよ。でも、…やっぱり俺たちはアイドルだから。なんか誤解受けるようなこと言われて、俺たちそれぞれが傷つくのが怖いんだ…』

 三文記事に叩かれて潰えるほどのキャリアではないはずだが、桜庭の口から出た返事は『そうか』のみだった。

 それからは何度か桜庭、逆に天道のほうからも「一緒に住もう」と喉まで出かかったものの、二人が共に暮らすことは、デビュー当時に夢見たステージよりも遠い憧れになっていた。
 いつも二人の間には仕事のことがあり、互いにそれを幸福としていた。互いの部屋の鍵は、優先順位を誤らないためのお守りのようなものだ。
 こうして訪れては、時間になればたまに一緒に出る。行き途中、まれに恋人として存在する天道が浮上してくるのを、桜庭は押さえて彼の仕事の話にあれこれと指摘をする。
 完全に同じではなくとも、似たような思いであることを桜庭はとうに感じ取っていた。そして天道もそれを隠すような真似はしなかった。隠そうとすると逆に挙動が変になるのだと、桜庭本人から言われたことがあった。

 二人で判断したことだった。私生活との境がたまにわからなくなるこの仕事に身を置いて、もう6年が経つ。
 学生時代に迎えた同じ年数とは違う。目の前の景色は日ごとに違う色を見せて、そこから目を逸らすことなどできるはずもない。
 だからだろう。仕事仲間から一歩踏み超えた思いを抱いた瞬間から、寝食まで共にすることはないとどこかでわかっていたようなものだった。

 ピピピ。タイマーが完成を告げる。

「どれどれ」

 天道がゆっくりと立ち上がる。すぐ傍のキッチンへ向かう天道の、後ろ姿こそは、出会ったころとあまりに変化のないものだから――桜庭はまた、こうしてふとした瞬間に言葉を誤りかけて、とても自然に、別のものとすり替えるのだ。

「…天道」
「ん?」

 スープのように食べられそうな出来栄えに満足し、顔に微笑みをたたえながら天道はフライパンから顔をあげた。桜庭は既に立ち上がり、薄手のグレーのコートを着ている。
 器によそいながら続きを待つ。天道に背を向けたまま、桜庭はドアノブへ手をかけた。

「帰りは深夜ごろになるかもしれない」
「俺は今日、こっちじゃなくて自分の部屋に帰るぜ。でも、疲れてなかったら連絡ほしいかも」
「…わかっている。君も夜の雨に気をつけろ」
「あぁ」

 そして天道は、出ていく桜庭の後ろ姿を見送った。

《了》