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今日の帰り道も、いつも通り自転車で走る。
たった一つ違うのは、途中で本屋に寄り、ようやく読書感想文の課題図書を買ったところだ。羽川の生徒がこぞって買うせいか、同じ本が山積みで置かれていた。
花屋へ帰ると、店の入り口で郁恵は華道に親しんでいる常連客の中年女性と世間話に乗じていた。
「あら広斗、おかえり」
「広斗くん、おかえりなさい」
客の方も自分の息子に言うような調子で出迎えるので、広斗はなんだか居心地が悪くなる。いつもは店番を申し出るが、今日は避けといた方が無難そうだ。店内奥では、康雄が花の手入れをしている。客は一人だけいた。いつも通りの真夏の昼下がり。
階段を上り、家へ入る。部屋着に着替えてから寝るのがほぼルーチンになっていたが、今日は英良と会話をしたからだろうか、なんだか意識が冴え、眠れるような気分ではなかった。
読書感想文のコツを教えてもらったのだ。せっかくなのでさっさと片してしまおうとして、広斗はリビングのソファに身体を投げ出すと、仰向けになって購入した文庫本を開いた。
――自分の苦手なことをしていると、現在進行形で行っていることよりも周囲に気が散ってしまう。あちこちへ飛んでいきそうな意識を、広斗はなんとか目の前へ向ける。
カチコチ、時計の秒針。ブーン、冷房のファン。オホホ、階下の店からかすかな笑い声。
表と裏で濃さの違う手。文庫本の小さな字。ほんのわずかに黄ばんでいる天井。
(…ダメだ、つまんねー)
ゆっくりではあるが確実にページを進めていった努力もむなしく、広斗は一章の半分で文庫本を床へ投げ出した。
登場人物は把握した。あとはもうカバー裏のあらすじと、末尾の解説を参照して書いてやろうか。英良から感化されたやる気はすっかり薄れてしまった。
気分転換を図り、広斗はテレビを点けるが、昼下がりのこの時間、チャンネルを変えても歴史ドラマの再放送やワイドショーくらいしかやっていない。
義務教育を終えて迎えた、高校一年生の夏休み。無意識下のどこかで劇的な変化を望んでいたが、現実はたいしたことなかった。
変化と呼べる事柄といえば、中学生の頃は「お手伝い料」だったのが「アルバイト代」に変わっただけである。といっても、店はアルバイトを募集していないため、同僚と呼べる人間もいない。
そして、両親が実質お小遣い扱いのアルバイト代を一年前より上げてくれたから、四月に初めて自身名義の口座を作った。しかし、広斗自身は積極的に遊びに出るような性格ではないため、貯金はやたらと増えつつある。
周囲はアルバイトに励んでいる者が多い。広斗は一度だけ、いつも学校で共に過ごしている友人たちに誘われプールに出かけた。その後もたびたび広斗は友人から遊びの誘いを受けていたものの、アルバイトのていで店の手伝いに出ておりスケジュールが合わず、かといって宿題がはかどっているわけでもない。
不満は――一つだけあるものの、それ以外は満足もしていないような、物足りなさの正体がわからない日々が続いている。たいしたことない。広斗にとって日常とはその言葉で表せる。
『虐待が発覚したのは小学校での体育の授業のときでした。いつもトイレで着替える被害者の男児をからかおうと無理やり入った同級生が、男児の腹や背中に無数の痣を見つけ……』
気分転換に点けたテレビは、男子児童が長い間親から虐待を受けていた旨のニュースを告げ、コメンテーターが言いたいように見解を交わす。
虐待の傷跡が刻まれた身体の写真までありありと晒しており、こちらの気分が参ってしまいそうだ。舌打ちひとつかまし、広斗はリモコンでブツンと電源を落とした。
(テレビ見るくらいならな…)
予備校で自習をしていると言っていた英良を思い出し、広斗は大きく伸びをしたあと、床に捨てた本を拾い上げて再び開く。
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「そーいえばよぉ」
「ん?」
「読んだぜ。一章だけな」
今日も昨日とほとんど変わらない。真夏の光線は二人の肌を照らしつける。
英良は三日目の夏期補講を終えたあと、広斗が水やりをしている花壇へやってきた。来ることを当然のように予想していた広斗は大あくびを隠さずに、頭をボリボリと掻く。
結局休みやすみ読んでいたら、一章だけを読み終えるのにも真夜中までかかってしまった。それだけでも広斗の人生史上最高の読書記録である。
「ね、一章だけじゃ書けなさそうでしょ」
「いや、俺は書くわ」
「えぇ! 三木くんチャレンジャーだなぁ。二章以降も新しい登場人物出てくるよ?」
「だから一章だけの感想書く」
こんなに暑い日だというのに寝ぼけまなこの広斗を見て、英良はくすくすとおかしそうに笑った。三日月の形に伸ばされた薄い唇は、日の光に透けすぎて白いほどだった。
ノズルから噴出される水の量を調整している間に、英良は花壇側のプランターへ近寄り、しゃがんで花を見つめる。
「これってクレマチス?」
「…おう」
濃い紫を宿した、先に向かうにつれて鋭くなっていく花弁を瞳に映して、英良はその花の名を言い当てて見せる。
花の名が書かれた札は立てていないはずだが。広斗は驚きつつ。水やりの手を止めて英良のもとへ近寄る。
「よく知ってんな」
正直に感心し、広斗は英良を称える。
彼自身はもちろん家の都合上、花や木の名前には詳しい。「その見た目で?」と友人にからかわれたことが何度もある。
しかし、誰もが知っているサクラやヒマワリなどといったものはともかく、学校や家のプランターに咲いている花を言い当てろと言われれば難易度は跳ね上がるはずだ。
生き字引。英良を見ていると、中学生のころに学んだ言葉が急に思い出された。
「僕も花が好きなんだ。図鑑を図書室でたくさん読んだよ」
優等生は地球の真理まで知っていかねないと危うく思うところだったが、英良は広斗を振り返ってそう教えてみせた。
昨日の帰り際同様、英良の頬にはかすかな赤みが差し込み、顔いっぱいの笑みをほころばせている。まだ真っ白よりかはいいと、広斗は英良の顔を見て不思議と少しだけ安心した。
「広斗くんも花が好きなんでしょう?」
「は?」
「好きじゃないと、園芸部入らないもんねぇ」
のほほんとした英良の口調に調子を崩され、広斗は一瞬答えに窮してしまった。
花が好きかどうかをストレートに聞かれると、なんだか素直に答えるのが気恥ずかしいのはなぜだろう。
しかし、英良の問い通りだ。――花が好きでなければ、進んで園芸部に入り、夏休みもこうして登校しようとは思わない。
「好き、てか…俺んち花屋なの、知ってんだろ」
直球からは少し逸れた回答を示すと、英良は身を逸らして目を大きく見開いた。
「えぇっそうなの?」
「はぁ!?」
英良のリアクションに、逆に広斗が驚いた。開店してもうすぐ十五周年を迎えようとしている、地域密着の花屋だ。高校からの友人にもその紹介だけですんなり納得されるほど、羽川の人々には親しまれている。
しかし、英良は知らないらしい。さすがにショックを隠し切れず広斗が言葉を失うと、英良はしてはいけない反応をしたのを理解したらしく、慌てて手を振った。
「ご、ごめんね。僕、お父さんの仕事の都合で転校が多くて…ここに来たのも二年ちょっと前なんだ。だから、商店街もほとんど…入ったことない、かな」
「二年って…そんくらいありゃ商店街の店くらい把握できんじゃねぇの?」
「うーん…そうでもないみたい。ごめん」
それ以上の言い訳はせず、英良は困ったように眉尻を下げて笑った。
英良の出身中学の話は聞いたことはない。それでも、お使いや野暮用で訪れたりしないものだろうか。広斗は英良に対して抱く不思議さが、浮世離れしているところにあるのではないかとようやく理解した。
「『フラワーショップ・MIKI』っていうんだよ、覚えとけ」
「うん、覚える。三木くんの名前がついているんだね」
「うちの親父とかーちゃんが開いたからな」
「へえぇ! 素敵だねぇ」
この三日間で英良についてわかったことは、花が好きで、ちょっとばかし、いやかなり世間知らずで、素直なのには違いないことだ。
しかし、商店街の店をあまり把握していないところには驚かされた。文房具ならここ、本ならここ、服ならここ、と生徒の大半は行く店が決まっているというのに。
(こいつ普段何してるんだ?)
勉強か。自己解決した広斗だが、それでもさらに疑問が湧く。勉強以外、何もしていないのだろうか。
そう思ったと同時に、口は開いていた。
「なら、水撒き手伝ってくれねぇか?」
「え?」
「花、好きなんだろ。いつもタダ見せしてやってんだ」
撒かれる水や花びら、水滴の染みこんでいく土さえ煌めいた瞳で見つめていた姿が、この三日間ですっかり馴染んでしまっていた。まるですっかり園芸部の一員である。
英良の返事は決まっていた。
「うん! 僕にできるなら」
「何言ってんだ、ホースで水撒くだけだよ」
二人は花壇の前まで移動し、広斗はノズルを英良へ手渡す。そっと、壊れ物を扱うような慎重さで受け取り、両手で構えてみせる英良がおかしくて、広斗は唇をこすり合わせて笑いをこらえた。
「え、僕なんか間違えてる?」
「いや、全然。別に片手でバーッてするだけだよ」
「片手で、ばー…」
いい加減極まる広斗の説明を口の中で何回か唱えながら、英良は花壇へ身体を向けてみせた。
何を緊張しているのか、英良は呼吸なんて整えて見せている。あぁ、もしかして。広斗は思い当たるところがあった。
だから、何となしに先ほどの説明と同じような口調で言ったのだ。
「濡れるの心配なら袖まくった方がいいぜ」
なぜか、英良はそれには答えなかった。奇妙な沈黙が、二人の間に溝をつける。
そんなに変なことを言っただろうか――首を傾げ、広斗はあぁ、と声に出して思い出す。
「お前、そういえば肌弱いんだったよな」
「……」
「かーちゃんから日焼け止め渡されてんだよ、使ってもいーけど」
土埃も気にせずその辺へ置いていたリュックから、広斗は郁恵に無理やり押しつけられた日焼け止めを取り出す。
海のイラストが描かれたウォータープルーフの日焼け止めを差し出されても、英良は受け取ろうとしない。
「…間宮?」
今度こそ訝しんで広斗は英良に近寄る。手伝いを頼まれたときの満面の笑みは消え失せ、どこか遠くをぼんやり見ている。花壇を通り越した、どのへんかよくわらない先に視線がいってしまっている。
どうした――声をかけようとして、気づく。英良のこめかみに、ひと筋だけうっすらと流れる汗。
「おま、」
「うわっ!?」
力加減をどうしていいかわからずためらい、虫をも殺せぬ弱さでトリガーを引いた英良が大きな声をあげる。
ノズルから力なく滴る水はシャワー状にならず、流水ほどの勢いもなくビチャビチャと英良の足元へ垂れていった。
「ありゃりゃ、濡れちゃった…」
水滴が垂れて濡れたローファーを見ながら恥ずかしそうにはにかむ英良に、広斗は強烈な違和感を覚えずにはいられなかった。
今しがたの虚ろな表情。こんなに言葉を重ね合っているにもかかわらず、初めて目にした彼の汗。そして、広斗の一連の彼への提言などなかったかのようにしている態度。
「お前…」
「思ったよりもトリガーが固いんだね、次は気をつけるね」
能天気に答えて、ようやく水撒きシャワーの使い方を把握した英良が、両手でぐいと力を入れて、テラコッタの土へ水を与えてやる。
このままでは、何かを見逃してしまう。朗らかな彼の、明らかに異常を表しているサイン。ただ、かける言葉が見当たらない。
このまま「平常」へ軌道修正されそうな空気を、ひと筋の矢のように広斗の記憶が引き裂く。
『いつもトイレで着替える被害者の男児をからかおうと無理やり入った同級生が、男児の腹や背中に無数の痣を見つけ…』
肌が弱いからと言って、少しの肌も露出しない英良。
この真夏日に日焼け止めの提案すら無視をされた。本当に肌が弱いなら一言、「肌が弱くて塗れない」とでも答えればいいのだ。
違和感はすさまじい不安へ瞬く間に姿を変える。ドクン、ドクン。心臓の音が蝉の泣き声よりもうるさい。嫌な予感に広斗が汗を垂らす番だった。
『花は繊細なんだ。ちょっと変だと思ったところはすぐ聞きに来なさい。少しのシグナルも見落としちゃいけないよ』
――幼少期に父である康雄から散々聞かされた教訓が、広斗の身体をほとんど反射で動かした。
水が出ているにもかかわらず、広斗は英良の腕をぐいと引き寄せる。
「うわっ!?」
ばしゃりと広斗のシャツに水がかかったが、もともと汗で濡れそぼっているのだ、気にするものか。
英良の手から離れていったシャワーヘッドが地面へ転げ落ちてゆく。広斗は何もかもに構わず、英良の腕を引っ張って校舎裏、日陰になっている部分めがけて走る。
「ど、どうしたのっ間宮くん!」
肉体的な力ではとても敵う相手ではない。ほとんど引きずられている英良は呼び止めようとするが、広斗は耳に入れない。
手入れがまだ回っておらず雑草が生えた校舎裏は、建物が日陰になっており、不思議なほど静かだ。夏休みで、こんな暑い中部活をやっている生徒もいない。誰かが来ることはまずないだろう。
ぜぇ、と息を整えた広斗が英良と向き合う。いきなり走ったせいで咳き込んでいる英良の腕を離さずに、広斗は英良の目を真っ直ぐと見た。
「お前、肌が弱いんだよな?」
「……」
「なにビビった顔してんだよ、俺が怖いか?」
愛想が悪いと何度も親から指摘されてきた表情で笑ってみせるが、そこに原因があるわけではないのはわかりきっている、
仮に英良が親から虐待されていたとして、広斗はそれ以上のことは考えていなかった。警察に言えばいいのか、親に相談すればいいのかもわからない。ただ、衝動に従ってここまで来てしまった。
それだけ、英良から放たれていた空虚に脅かされて、心配だった。
「…悪いな。見んぞ」
「だ、だめ!」
左長袖のボタンを外そうとすると、英良はこの三日間で一番大きな声を張り上げた。
「だめっ! いやだ! 三木くん、だめだ!」
「肌がよえーだけの何がだめなんだよ!」
それに負けないくらいの怒声で広斗は言い返す。一体英良は何を隠しているというのか。虐待の痕であるのなら、親を庇う理由などあるはずもないのに。
ぐい、と無理やり袖を引き上げてめくる。瞬間、英良は全てを諦め、脱力した。
蝉のけたたましい鳴き声が聞こえなくなる、刹那の恐ろしい静寂。
広斗の顎から汗が滴り落ち、英良の左腕でぴちゃんと跳ねて、まだらに広がる。
英良の左腕には、無数の切り傷が刻まれていた。
動脈の浮き出た手首から、肘の近くまでびっしりと。
傷と傷同士は治る行き場を失って重なり合い、周辺の肌よりもさらに白く隆起していた。
最近つけた傷には、汗を吸って少しよれた大きな絆創膏が貼られており、コットン部分に赤褐色が滲んでいる。
想定外の様子に広斗は絶句する。英良もまた、言葉を失い白い唇を噛んでいた。
「…間宮、これ」
「僕、そろそろ行くね」
まくられた袖を戻し、ボタンを留めると喉を震わせて英良はそう告げる。涼し気な顔はどこへやら、汗をだらだらと滴らせているが、顔はすっかり青ざめている。
スクールバッグを肩にかけ直し、その場を足音もなく英良は静かに去っていく。
日陰にいるはずなのに、広斗の全身からは汗が噴き出して止まらない。英良の腕を掴んでいたときの、肌の底知れぬ冷たさだけが掌に残っていて、呆然とその場に立ち尽くしていた。
誰が見たってわかる。あれは虐待ではない。
英良本人が、自分で腕に傷を刻んでいる。
遠くの方で聞こえる夏の音が、何も耳に入ってこない。
ドクン、ドクン。嫌な感覚ばかりが広斗の身体の中でどんどんふくらんでいって、ひと突き、何かのきっかけで破れて飛び出してしまいそうだ。
