『例え、夜に灼かれても』サンプル - 4/6

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 八月も下旬に差し掛かるが、夏の気配はまだまだ去りそうもない。
 この時期の夜のふけのS区は一年を通して見ても混沌さが増していると丞一は感じる。夏の暑さが人々の脳みそを一層浮足だたせるのと、夏休みに入って暇を持て余した学生たちが無茶な遊びをして大小問わず揉め事を起こすのもあった。
 酒が入っているのか、大声を出しながら集団が時折通りすぎていくのを『ヘドニズム』のフロントから聞いていた丞一は溜め息をついた。いつもより人は多いのだ、何人か店に貢献してくれてもいいものだが。
 あらかじめ今日に指定を入れている客のリストを手元のタブレットで確認する。フラッと面白半分で気まぐれに来る客の方が多いが、ミントを始めとした人気のキャストたちには事前に時間指定で予約が入る。マナトの名前が無いのをまず確認しつつ目で追うと、ミントは今日も一人の客――揚羽(あげは)というらしい人物と終日外出だった。
 本来店舗型のサービスであるはずなのに、金さえ取れれば柔軟に対応するらしい。この店の営業体制が適当なのは今に始まったことではないが、丞一はやはり嘆息してしまった。
「おい、ジョー」
 スタッフルームの扉から同僚のボーイである駒井(こまい)が顔を出した。先ほどまで煙草を吸っていたのだろうか、鼻をつく香りを漂わせながら丞一の持っていたタブレットを覗き込む。
「コマ。こんなにフロントに人いると入店客が萎えるぞ」
「いいじゃん、予約の客来るまでまだ時間あるしどうせ当日来店なんていないよ」
「それは……」
 駒井があまりにあっけなく言い放つものだから丞一は二の句が継げなくなる。『ヘドニズム』はこの地域で見ても価格帯が安い風俗店であるが、それを「良心的」と捉える者は少ない。「オメガを良いようにしたい人間が来るところ」というのがもっぱらの評判だった。体裁を気にする客は、例え金額が高くても設備や匿名性が担保された店へ足を運ぶ。
 無精ひげが点々と生えた顎を掻いて大あくびをかましたかと思えば、タブレットを見ていた駒井は急に顔をしかめた。
「げっミント今日も出払いかよ」
「この揚羽って客、相当金払いいみたいだな」
「店はいいかもしれねぇけどさぁ、困るんだよ。人気ナンバーワンだぞアイツ。不在のときが多かったら他の客に示しつかねぇだろ」
「それミント本人にも伝えたのか?」
「言ったよ! でもアイツが俺の言うこと聞かねぇのは今に始まったことじゃねーっ」
 日頃の鬱憤が溜まっているのか頭を掻きむしって天を仰いだ駒井に、丞一は頬を引きつらせて苦笑を浮かべた。
 丞一がマナトの面倒を見ているのと同様、ミントがこの店に来たときは駒井が世話係を言い渡された。しかし当初からミントのワガママ具合はマナトの比ではなく、今もこうして店を置いて固定客とばかり出かけている。
 人に言えない背景を負う者みんなが、だからといってすっかり弱気になって従順になるわけでもないらしい。最初は怯えていても、環境に慣れればボーイたちに不遜な態度を取るキャストばかりだ。
 性も仕事も、立場的にはこちらの方が遥かに上のはずだ。しかしボーイたちも彼女たちを無理やり従わせるのは不本意とする者が多かった――丞一がその筆頭である。駒井は自分に苦笑を向けている丞一をキッと睨むと人差し指を突きつける。
「ジョーは俺のこと笑える立場かよ」
「どういうことだ?」
「マナトだよ。ミントはまだ売り上げ叩きだしてるからいいけど、アイツまた最近ヤバいんじゃないのか?」
 経営者はもちろん、精算業務もボーイの仕事の一つだから各キャストたちの売り上げは共有されてしまう。マナトは数日前までは客が入っていたが、ここ最近になってまた茶を挽く機会が増えていた。
 痛いところを突かれて丞一は一瞬硬直するが、思い直して反論する。
「俺に言ったって仕方ないだろ、人の問題は店の問題だ」
「でも今でもまともに相手してやってんのジョーくらいだぜ」
「それは……俺が入店したときに世話係を頼まれたのが続いてるだけで」
「まぁ何でもいいけど、ボーイならオメガたちを売り出すのも仕事だろ。お前フロントのときくらいはマナトゴリ押しすれば? 大抵のことは何でもやってくれますよって」
「な、お前そんな言い方……」
 普段はキャストたちにも穏健な態度の駒井がそのような物言いをするのが信じられず、丞一は言葉を失う。そしてマナトに対する酷い言い様に怒りが頭を支配しかけたが、駒井はそれも汲み取ったうえで矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「それが最終的には奴のためにもなるんだって。ジョーも分かるだろ? アイツ、ここ追い出たらマジで居場所ないよ」
「でも知ってるだろ、マナトは男だからって客から暴力受けることも多いんだ。サービス以上のことをされたら金を取るようには伝えてるよ」
「でもそれもしょっちゅうすっぽかしてるだろ! 一回あたりの料金増やすより回数増やした方がまだ体裁もいいって」
「でも――」
 でもでもの言い合いを繰り広げていると、ふいに店のドアが開いた。
 二人して身体をギクリと強張らせて姿勢を正し、入ってきた人物の姿を見せさらに青ざめる。
「飛鳥(あすか)さん……」
「はっ、ここはボーイが元気なお店ですってか」
 『ヘドニズム』の元締め――飛鳥が煙草をふかし、フロントのカウンターを覆うように煙を吐き出した。顔をしかめることも許されない二人は、目に煙が沁みるのも気にせず飛鳥から目を離せない。
 どこで買ったのか二人には想像もつかないゴージャスなワインレッドのスーツに柄シャツ、極めつけはサングラスから覗く血走った眼。見た目からして分かりやすく一般人(カタギ)ではないことを主張している飛鳥は、風俗店の営業を生業としている――アルファだ。
 世間一般の良識になぞらえると店内での喫煙は禁止だが、そんなもの頂点である飛鳥に注意できるはずもない。行き場のないオメガたちがこの店に雇われているように、ベータのボーイたちも飛鳥の言いなりだった。
「じゃ、じゃあ俺は掃除あるんでこれで……」
 駒井が声を上ずらせながら半ば逃げるようにバックヤードへ戻っていった。丞一には責める気持ちも湧かない。飛鳥の傍若無人で乱暴な振る舞いは分かり切っている。
「ジョー、相変わらず辛気臭い顔してんな。客には笑顔だろ、えーがーお」
 去った駒井に舌打ちしつつも、飛鳥の矛先はすぐに丞一へ向かう。煙草の着火点を丞一の顔へ近づけて彼を見下ろした。丞一も普段から鍛えているが、飛鳥の威圧感とは比べ物にならない。脅しと実力行使で生きているだけの説得力を、この男は備えていた。
 火が近いことよりも飛鳥にどうしても頭を下げなければならないことにたまらない嫌気を覚えつつ、丞一は無理やり口角を上げてみせた。
「飛鳥さん。まさかいらっしゃるとは思わず……驚きました」
「俺だってこんなビンボー店来たかねぇよ。集められる金は集めるだけだ」
 自分が開いた店にもかかわらずそう吐き捨てると、飛鳥は丞一の手に持っていたフロントのタブレットを勝手に奪い、ギョロギョロと視線を動かして顧客リストを確認する。
 丞一を含めたボーイたちにとって飛鳥の来店は地獄に等しい時間だ。事前に来る時間を言うことはなく、売り上げが芳しくなければ怒鳴られるのはもちろん、ボーイが殴られることもしょっちゅうだ。良かったら良いで、雇われているオメガたちに辛辣な言葉を残して去っていく。どちらにせよボーイが当てつけにされるのには違わなかった。
「ミントちゃんは相変わらず絶好調じゃん」
「はい、そうみたいです」
「俺が名前覚えただけあるな。他の肉便器どもはそーでもなさそうだけど、なっ!」
 飛鳥はタブレットで丞一の横面を思い切り張り倒した。視界が小刻みに揺れ、膝から下ががくがくと震える。
 丞一はこめかみを押さえるが、燃えるような痛みを逃す暇もなく、飛鳥は彼のシャツの襟をぐいと引っ張り顔を寄せた。喉を変な方向へ締めつけられてむせ返りそうになるが、それをしたらますます暴力を振るわれるのが目に見えて分かるため、丞一は頬の内を噛んで耐える。
「あのなぁ、てめーらがモノを売り出さなきゃ話になんないって俺何回話した? そろそろ舌が疲れてきたんだけど? お前らの耳も疲れてるだろーから千切ってやってもいいぞ」
「すみません、すみません」
 襟から耳へ動いた手にそのまま潰しかねないほどの力が籠められ、恐ろしさに丞一はひたすら謝罪の言葉を繰り返す。
 ここまでされて、じつのところ本心までは飛鳥に屈していないのだが、とにかく下手に出るのが飛鳥との時間をやり過ごす最善の方法だった。耳の肉に爪が食い込むのが分かるが、丞一が悲鳴をあげることはない。
 その態度が皮肉にも飛鳥の神経を逆撫でし、彼はますます声を張り上げた。
「ほんっと使えねー奴ばっかだなここは! 俺が商品に手を出さないだけどれだけありがたいと思ってやがる!」
「それは……分かっています」
 飛鳥に怒りをぶつけられたボーイたちが無理やりオメガたちを従わせて、オメガたちが馬車馬のように働かされて金を稼ぐ。
 その図で営業したいようだが、売り上げが少なく人が全然配置されない『ヘドニズム』では妙に結束が強まったせいで、飛鳥がすっかりボーイとキャストたちの共通敵となってしまい、彼の思うように働かないのがますます苛立ちに拍車をかけるのだ。
「首輪」
「は」
「てめーらじゃ解除できねぇ首輪を外して、お前のオキニのゆるマン野郎にガブガブしながら種付けしたっていいんだぜ」
 飛鳥は犬歯を見せつけるように口を開けて舌なめずりをした。オメガの意思に関係なく、番として人生を奪うことだってできる凶器。
 マナトのことを指しているのだろうか。怒りと恐怖で丞一の目の前が一瞬真っ暗になった。その顔を見て少しは満足したのか、飛鳥は彼の耳から手を離す。
 傷口からかすかに血が滲み、速くなった丞一の心拍に合わせてじくじくと痛む。しかし彼はそれよりもマナトの方が気がかりで仕方がない。駒井の言う通り、売り上げが出せないと店を追い出されるどころか、飛鳥に何をされるか分かったものではない。
 唇をわなわなと震わせる丞一を見て、飛鳥は嫌悪感を丸出しに眉間に深い皺を刻み、店の床へ唾を吐いた。
「気色わりぃ。使い古しの肉便器の何がいいんだか」
「……」
「でも、まぁ俺も鬼じゃねーから売り上げ最下位のゆるマンくんにお仕事持ってきてやったぜ」
「え?」
「おい! 入って来い!」
 ほとんど怒鳴る調子で飛鳥が店の外へ声を張り上げると、彼の部下らしいチンピラ風情の男が何者かを連れて入ってきた。
 その男は猿轡として布を噛まされており、呼吸がしにくいのか胸が大きく上下に動いていた。顔中に汗をかいているが、暑さが原因でないことは見てとれる。そして何より、病的に充血した目と視線が合い、本能的な恐怖が丞一の背を走る。
「その人は……」
「俺の店でちと悪さしたもんでさ、お仕置きしてやった。ただの性欲猿になっちまったけど、あのマンコにはちょうどいいだろ」
 お仕置き? 性欲猿? 飛鳥の言葉を理解しきれないうちに、部下は丞一の許可なく男を連れて店の中へ入っていった。
 ――戸惑いを隠せないマナトの声が奥からかすかにしたかと思えば、あっという間に消える。丞一は思わず振り返るが、汚れたものを振り払うように手をパンパンと叩いた部下が戻ってきただけだった。
「金はもう回収してっから、事が終わったらアイツの扱いは任せるわ」
「え、あの、マナトは」
「アルファ様に飼われてるってことをその足りねぇ脳みそに刻み込んどけ」
 言うだけ言って、飛鳥と部下は踵を返して出て行った。車のエンジン音がすぐ側で聞こえ、遠ざかっていく。店の外では相変わらず人々が夜遊びを大いに楽しんで騒いでいるようだが、丞一の耳には入ってこない。
 しばらく放心しきってしまい、丞一は呆然とその場に立ち尽くしていた。少し時間が経ち、飛鳥に殴られた左頬と思い切りつねられた左耳に今さら痛みを自覚して、苦痛に顔を歪める。
 何が起きたか未だに理解しきれていなかった。駒井と小競り合いをしていたのが遥か遠い昔に感じられる。
 しかし、飛鳥はそういう人間なのだ。暴力を始めとしてやれることは何でもやり、自分に従順な者たちを増やしていく。そこに犯罪との境界線など欠片も存在しない。何より、それをやれるだけの権力も気迫も行動力も、必要なものは全て手にしているのが、アルファとしての飛鳥を象徴づけていた。
 耳を少し擦って指を見ると血が付いていた。ズキズキと未だに収まらぬ脈拍に合わせて痛む傷に、丞一は呼吸の整え方を忘れる。
 『ヘドニズム』に丞一がやってきてから飛鳥とは何度も顔を合わせたが、それでも慣れることもなければ、上手なかわし方もまともに身につけられない。足元を揺さぶる恐怖が背すじを這いあがってきた。飛鳥と対峙すると、「殺されるかもしれない」という本能的な警鐘が心臓の鼓動と共にガンガン鳴り響く。
 しかし丞一は、それでもすぐに正気を取り戻した。先ほど、弟子が勝手に送り込んでいった客。あれは一体何なのだろう。人として当然に備えている理性も失ったかのような、ひどく血走った目。
 フロントが空になるのも構わず丞一はキャストが待機している部屋に駆け足で向かった。薄暗い通路を走り、マナトがいる部屋の前まで来る。
 ――マナトの名を呼びかけようとして、その声は息ごと喉でつっかえた。
 防音機能が完全には整っていない扉を突き抜ける、浅ましい嬌声。獣が唸ったときに近い声は先ほどの男のものだろうか。
 マナトはよがり、泣き声に近い響きで断続的に声をあげる。このまま耳をすましたら、二人の息が絡み合い、肉がぶつかり合う音まで克明に聞こえてきそうだ。
 丞一は魂を抜かれた虚ろな顔で、しばらく扉の前で立ち尽くしていた。このドアを開けるのは簡単だ。しかし、客はこの店の収入源だ。ここで邪魔をしたら、いよいよ飛鳥に何をされるか分かったものではない。金属製の扉に触れた指はずるずると力なく下がり、丞一は項垂れた。
 ボーイが介入するのはトラブルが起きたときくらいで、「接客中」のところを盗み聞きする機会などない。わざとらしい喘ぎ声の数々に慣れている者もたくさんいるが、丞一は――少なくともマナトに対しては、そうではない。
 この店は、よそには言えない理由を抱えたオメガの集まる買春宿で、保険証も名字もないオメガのマナトは、弄ぶには格好の商品だ。
 彼らが店を追い出されたら行き先に困窮するのもとうに理解しているつもりだった。しかしこうしてアルファのヤクザに脅され、店に逆らえないオメガを売り出す自分の身分を思うと、丞一は不甲斐なさに頭を掻きむしって大声で叫び出したくなる。
 先ほど飛鳥に傷つけられたとこの痛みはなくなっていた。しかしこの部屋の中で、もっと痛い思いをしている人間がいる事実が丞一を苦しめる。
「マナト……」
 空調に紛れるほどの小さく掠れた声で彼の名を呼ぶが、それが扉を通ってマナトの耳に届くことはなかった。