『例え、夜に灼かれても』サンプル - 6/6

「丞一、おそろいじゃん」
 マナトは冗談めいて自分の腫れた頬を指さすが、丞一は顔をピクリとも動かさないまま彼の手入れを黙々と続ける。可愛げの欠片もない態度に文句でも言ってやりたいところだが、当のマナトも頭痛と吐き気でそれどころではない。
 気絶から目を覚まし、中に出された精液の処理をしてから部屋に戻ると、案の定丞一は部屋にいた。しかしマナトは、丞一が自分以上に頬を腫らしているのに気がついてぎょっと目をむいた。
 しかし何があったか聞いても丞一は口を割ろうとしない。部屋に入ってきたカタギではない男を思い出し、飛鳥関連であることはなんとなく察しがついた。しかし言いたくない、やりたくないことはテコでも動かない男であるから、マナトは諦めていつも通りケアを受けることにした。
 どう見ても様子がおかしい男に何をされたのかおおよそ分かっているのか、丞一はまず黙ってアフターピルを差し出した。それを素直に受け取り、丞一が用意してくれた冷たいペットボトルの水で飲み下す。
 ――副作用は思っていたよりもすぐにやってきた。いつも飲んでいるヒート抑制剤以上の頭痛に、胃からせりあがる吐き気。しかし避妊のためにも仕方のないことだった。副作用と引き換えにほぼ確実に避妊はできるらしい。マナトはじっとしながら吐き気をやり過ごす。
「あいつなんなの?」
「分からない……飛鳥さんの店でやらかした奴っぽい」
「はぁ、オレにも充分迷惑かけてるっつの」
 吐き気を堪えながら尋ねれば丞一はようやく口を開いた。マナトは舌打ちして、既に消毒してガーゼを貼られたうなじをさする。
 首回りに付いた噛み跡の数は尋常ではなく、どんなに悪趣味な客であろうとひと目見れば興醒めするに違いなかった。今日受けた傷の数々が落ち着くまで出勤など叶いそうもない。
 ただでさえ稼げていないのに。マナトはそれだけが気がかりだ。――自分の身体を遠くに差し置いて。
 狂った熱が引けば目の前にはありありと現実が見える。とにかく今を生きなければならないせいで、丞一とおいしいものを食べるという目標さえも頭から消えかけていた。
「……マナト」
「ん?」
 手首にくっきりと指の跡のついたマナトの細い手首を、壊れ物を扱うように握る。丞一の指先は細かく震えていた。
 今日のことが無念でならなかった。マナトが客に逆らわず酷い扱いを受けているのは今に始まったことではないが、飛鳥を前にして何もできずに突っ立ったまま、部屋に男が連れられていくのをただ見送った自分の無力さを噛みしめ、丞一は静かに息を吐いた。
 飛鳥に殴られたところは確かに痛かった。しかしそれ以上に、こんなにボロボロになって帰ってきて、それでも不思議そうに首を傾げて自分を覗き込むマナトを見るだけで、丞一はたまらず泣き出したくなる。
「丞一、どした」
「……」
 お前のオキニのゆるマン野郎。飛鳥の屈辱的な呼び方を思い出してはらわたが煮えくり返りそうになる一方で、店の一介のキャストに感情移入をしすぎているのも自覚していた。それは駒井からも何度も警告を受けてきたことだ。
 それでも――今まで散々傷つきすぎたせいで、自分を守ることへひどく鈍くなってしまったマナトが自覚のないまま新しい傷を受けるのはとてもつらかった。
「ごめん」
「え?」
「守れなくて」
 自分で口にしておいて、丞一は自嘲する。守る、だなんて。自分は果たして飛鳥に、いや、この世のアルファに逆らえる身分ではないはずだ。
 ただ、何もできないのを分かっていても、丞一は悔恨を口にせずにはいられなかった。
「いや、しょうがねぇよ。だってアイツマジでヤバかったし、フツーじゃないというか」
「あぁ」
「それにこうして手当てしてくれんじゃん、何謝ってんの? らしくねーぞぉ」
「あぁ……」
 手をほどき、逆に握り返される。その手は温かい。無数の小言をぶつけられる覚悟をしていたマナトは今の丞一を見ていて不安に駆られてしまい、なんとか励まそうとした。トラブル対応できなかったことがそんなに落ち込むことなのか、若干疑問を抱きつつ。
 そんなからかうような、マナトの心からの笑顔が丞一の悲しみをますます深くさせる。彼は本当に、自分が数時間前まで何をされたのかを既に過去にして気にしていないのだ。この先の人生まで危うくなりそうな目に遭っておいて。
「じゃあ、また」
 怒りとも憐憫とも似つかない感情をこの場にあふれさせたくなくて、丞一はさっさと立ち上がった。しかし部屋を去る前に、一度だけ振り返る。
「何かあったらすぐ呼べよ」
「あんがとな。疲れたけどさ、もうヘーキだって」
 快活なマナトの声を背に受けて、丞一は部屋を出て行った。階段を下りていく足音を聞き届けて、マナトは床に寝転がる。
 今日は確かに散々な日だった。この店に来てから今までで一番体力を使った気がする。大きく伸びをすれば節々がぎちぎちと痛み、マナトは顔をしかめた。
 そのまま横になってしまおうかと思ったが、どうにもムカムカと気分が悪く、なかなか寝る気にならない。マナトは重くだるい身体をなんとか動かして、部屋に唯一ある窓へよろよろと向かう。せめて夜風に当たれば少しはマシになるかと思ったのだ。
「ちょっとマナトー!」
「うわっ!」
 マナトが窓を開けたのに気がついたのか、隣室のミントが隣から勢いよく顔を出した。彼女の部屋着姿を見るのは久々だ。マナトは面食らいつつ挨拶する。
「ミーちゃんこんばんは。どったの?」
「『どったの?』じゃないよー! アンタ今日ヤバかったんでしょ!? コマから聞いたよ!」
 窓のへりに身を乗り出してミントは眉を吊り上げた。相性が合わない同士、普段は駒井の言うことなんてろくに聞かないくせに、こういう情報はなぜすぐに聞き出せるのか。マナトは感心しつつも素直にミントの問いかけを認めた。
「なんか今日の客マジで変だった。ベータなのにアルファみたいな感じでさ」
「はぁ? どゆこと?」
「オレも分かんないけど、ラットのアルファみたいだった」
「それホントにベータ?」
「うーん、自分ではそう言ってたけど」
 改めて男のおかしさを振り返る。自分のオメガ性が確かにアルファの発情だと感じ取ったが、それまで受けてきた感覚とは明らかに異なる部分があるのだ。勘による違和感としか言いようがないが、マナトは首を傾げる。
 自分が思っていたよりも本人が平気そうな素振りを見せるから、ミントはなんだか脱力して姿勢を正すと、部屋着のコットンパンツから煙草を取り出して火を点けた。
 煙が夜風に乗ってマナトの方へ流れていく。手で払いながらマナトは苦々しい顔をした。
「ちょっとやめてよ、吸いたくなるじゃん。オレ薬のせいで今ダメなんだから」
「あたしは吸いたいんだもーん」
 気にせずプカプカと煙を吐き出すミントにマナトは苦笑した。店に来てから何度か彼女を厄介な客から助けたことがあるのが嘘だと思えるくらい、彼女もたくましくなったものだ。
 そういえばミントは売れっ子かつ一人の客がほぼ独占状態であるせいで、こうしてプライベートで顔を合わせるのは久しぶりだった。マナトは少し気になっていたことを尋ねる。
「ねぇ、前にミーちゃんが上客って言ってたのってどんな人?」
「ん? んーと、アゲハさんっていう人でね、とにかくめちゃくちゃお金持ち。なんかケーサツ? の社長なんだって」
「警察に社長なんていんの? てかそれってヤバいんじゃ……」
 ただでさえグレーという名のアウトな行為を繰り広げている店なのだ。そんな組織のお偉いさんを相手に大丈夫なのかマナトは不安を覚えるが、「相手もあたしを買ってるんだから同罪よ!」とミントは強気に言ってのけた。
 ぬるい夜風がマナトの金髪とミントの赤毛を揺らす。ビル影に隠れて光っているネオンに照らされたミントの淡いグリーンの瞳は神秘的に揺らめいた。
「アルファなんだけどね、あたしにエッチなことしないんだよぉ」
「え、すげくね? それ」
「でしょお! しかもあたしのこと『運命の人』とか呼んじゃってめっちゃお金出してくれんだよ! 超都合がいいー!」
 馬鹿にするようにミントはケラケラと笑い声をあげたが、マナトは室内の蛍光灯のおかげで見逃さない。
「ミーちゃん」
「なに?」
「耳赤いけど?」
「うっさい!」
 図星だったらしく腕をペシペシと叩かれた。その「アゲハ」という上客に大枚をはたかれ、甘い言葉の数々で口説かれてまんざらでもなさそうなミントがマナトにはうらやましい。対して自分は謎のベータに犯される始末だ。
 この差は何なのかと天を仰げば、星が全く見えない暗闇が広がっている。未来など自分にはなからあったものではないが、深い溜め息はやはり肺の底から出てきた。
「はーあぁ。オレにもいねーかなぁ、『運命の人』」
「あら、いるじゃん!」
「へ?」
 先ほどからかわれた仕返しだろうか、口を押さえてニヒヒといたずらっぽく白い歯をこぼしながら、ミントは煙草でマナトを指してみせる。
「世界一優しいジョーイチがさ!」
「はぁ?」
「コマだってあそこまであたしに尽くしてくれりゃあいいのに、すぐ仕事の話するからヤ!」
 唇を尖らせてブツブツと駒井への不満を垂れるミントをぽかんと眺めて、それからマナトはおかしげに笑い声をあげた。
「何言ってんだよ、丞一は駒井と同じ世話係だよ?」
「でもコマはあんなに優しくない!」
「それにさ」
 見下ろせば、空と同じくらいの深淵を宿す狭い路地がそこにあった。ゴミや虫まみれのそこの居心地がどんなに悪いかをマナトは知っている。なにせ息も絶え絶えで行き倒れになっていたところを、この店に拾われたのだから。
 つい先ほどまで、いつになく辛気臭い顔をしていた丞一を思い出す。あまり過去を思い出す頭ではないが、世話係としてずっと傍にいるのが丞一だからか、路地裏の暗さとリンクしていろいろな出来事が思い起こされる。といってもほとんどが叱られた記憶ばかりだが。
「丞一はベータだよ。オレとはくっつかない」
 当たり前のことだ。オメガはアルファとしか番になれない。――ベータとはどんなにセックスしようが仮に子どもを宿そうが、絶対的な関係になることはないのだ。
 だからマナトは未来に期待もしなければ、過去も気にしない。考えたら最後、終わりだ。身元不明の自分に現れる「運命の人」に対してどんな風に期待していいのか、きっとミントに聞いても分からないだろう。
 丞一が「運命の人」とは、面白いことを言う。マナトは真っ暗な路地裏を見下ろしたまま、今を生きるだけの身体で、ミントの言ったことがまだおかしくてただ笑っていた。

《了》