名前のない空

 彼が創りあげたと言っても過言ではないプロメポリスからバイクを走らせて、しばらく続く林道を抜けると、飾りっけがなくて、その無機質さが不気味な雰囲気を漂わせている建物に行き着く。
 事前に来ると連絡していたから、駐車場の場所は取っておいてもらっていた。と言っても、こんなところまで来る奴なんかそうそういない。今日もここの職員以外ろくに使われていなさそうなところへバイクを停める。
 エントランスに入るまでの短い距離ですら多くの監視カメラに見守られながら進まなければならない。それも仕方がないのだろう。プロメポリスの技術を結晶にさせたようなこの施設で「不祥事が」なんてことになれば大騒ぎになってしまう。
 自動ドアの前で生体認証を受けてようやく中へ入ると、もうすっかり顔なじみとなってしまった受付係がカウンターできちんと背を伸ばして待ちかまえていた。
「お待ちしておりました、ガロさま。クレイ氏との面会ですね」
 糊のきいたスーツをビシッと音が鳴りそうなほどカッチリ着こなしている受付係は、俺が用件を言う前にすべて述べてしまった。
 俺は俺で、相手が何かを言う前に指紋認証用のスキャナーに指を乗せた。オールグリーン、オーケー。機械が定型句を告げる。
「地下二十階で間違いないんだよな?」
「えぇ」
「時間は十分。十七時までだな」
「……」
 とうに習慣づいていることなので、俺は当たり前のことを口にしたまでだと思っていたけれど、スキャナー同然の機械のような受付係がそこで初めて人間らしくスッと目を細めた。
 少しだけ威圧的なその表情に、若干反発心を覚える。
「なんだよ、何か変か?」
「…ガロさま、おわかりでしょうが」
 背後にある施設名――『S級特別拘置所』の文字へチラリと視線をやりながら、ほんの短い溜め息をついた。
「クレイ氏の処遇については現在も政府が検討を進めております。面談の猶予はあるとはいえ、軽はずみな行動は――」
「わかってるよ、そんなことしねぇって」
 言葉を遮られても、受付係はそれ以上何か感情を露わにすることはなかった。
 それまでの発言などなかったかのように切り替えて、「それでは、時間厳守でお願いいたします」とだけ告げて、それぞれエレベーター用と面会室用のカードキーを渡してきた。
 エレベーターに乗るのにも鍵が必要だなんて面倒だけど、この施設の説明を受けた際に、どちらもかなりの暗号で設計されているだとか何とか言っていた。どうしても必要なのだろう、S級の犯罪者をガッチリ閉じこめておくには。

 セキュリティキーでエレベーターへ乗り込み、五の段で区切られている地下へ向かうボタンの、一番下を押す。
 重たそうな扉が閉まり、すぐに地下へと向かい出す。下へ行くほどに音はどんどん静かになっていくように感じられる。
 幼いある時、クレイに地球の最深部は灼熱でできているなんて教わったのがまるで嘘だったかのように、沈むごとにひと気も温度もなくなっていく。
 拘置所の最深部、地下二十階へ到着し、ドアが開くと一歩先は既に面会室だ。ゲストと職員は別のエレベーターや階段を使うように徹底されているこの施設が、他にどうなっているのか、クレイは知っているはずだけれど聞いたことはないから、俺は全然知らないままだ。
 太陽の光なんてとても届かない地下、もう少し電気を明るくしたっていいはずなのに。これじゃ辛気くさいクレイの顔色がますます悪く見える一方だ。
 アクリル板越しに、相変わらず湿っぽい雰囲気のクレイが座っていた。手足はバーニッシュを拘束していた枷よりもさらに頑丈なもので拘束されている。
「お待たせ、クレイ」
「来い、などと私は一言も言っていないが」
「二週間後にまた来るって約束したからな!」
 不義理な真似などしない。そう誓っているからそうしているまでだ。でもそんなことじゃクレイの態度はちっとも晴れない。それどころかまずいものでも食べたみたいに顔をしかめている。
 だけど、それもいつものことだから気にするだけムダだった。何より、クレイに「来い」とも言われていないけれど、「来るな」とも言われていないんだ。
 この場に俺たちを観察する係がいないのは、この様子も会話もすべて丸見え・丸聞こえだからだろう。でも、そっちのほうが俺はありがたかった。他人が近くにいないというだけでも俺はリラックスして会話に臨める。クレイのほうは知らないが。
「今日のプロメポリスはカラッとした晴れだぜ」
「…そうか」
「でもそろそろ冬が来る。タイヤも交換しねぇとなぁ」
「消防士が事故を起こしたらただ事じゃ済まされないぞ」
「あたりめぇよ。そこは気ぃつけるって」
 隙のない、ピシャリとしたクレイの苦言を受けつつ、俺はエントランスでとうに中身を見透かされている鞄から写真を取り出した。職員に何かガミガミ言われるのもイヤで、今日はこの写真以外は財布くらいしか持ち歩いていないから、あっという間に鞄はスッカラカンになる。
 クレイによく見えるようにアクリル板のギリギリまで近づけて、俺はクレイに会うまでの二週間で撮った写真を並べる。
 この前みんなで西へキャンプに出たときの川の、透明な光を反射した流れや、そのキャンプ地でなんとか早起きして眺めた、薄紫と橙の混ざった朝日。帰路の夜に煌々とネオンの輝くプロメポリスや、この林道で撮った満天の星空とか、とにかくそんな風景の写真ばかりだ。
 何もかもと言っていいほど外部から遮断されてしまったクレイが、少しでも世界の様子を推し量れるんじゃないかと思って、少し前から撮り始めた。と言っても俺の視界越しみたいなものばかりだし、たかがこの程度の風景写真でもいつ施設からNGを喰らうかわからない。
 だけどクレイはこのとき、確かに――ほんのわずかに身をこちらへ傾けて写真を見ようとする。それが嬉しくて、撮ったときの様子をなんとか伝えたくて、自然と身振り手振りが混じるんだ。
「これ、みんなとキャンプに行ったときに撮ってきた。川の…せせらぎ? がキラキラしてた。朝日なんてもう格別で、キラキラ…違うな、趣があった!」
「……」
 俺を一瞥したクレイがすぐに写真へ視線を戻し、選ぶようにゆっくりと言葉をつむぐ。
「前はすごかったとか、そんなことしか言っていなかったが…少しはまともに言葉を身につけたか」
「日々成長! ニッシンゲッポだ!」
 つい昨日覚えたばかりの熟語を使うと、クレイは大げさに溜め息をついてみせた。
 ――本当はもっと喋りたい。仲間のこと、リオたちのこと、プロメポリスのこと…。でも、初めて写真を出したとき、それまで死んだように重かったクレイの様子がハッとわかりやすく変わったんだ。
 あそこまでの都市を統治していたんだ、外の様子も気になるに違いない。事の顛末が広がるにつれて、クレイへの批判を耳にしない日なんてなくなったが、みんなまだその彼が頂点に立っていた街に住んでいる。そしてその場所のことは今、目の前にいるこの男が一番詳しいんだ。
 だって、俺にもじつにたくさんのことを教えてくれたから。
「この星座…オリオン座。そう、クレイが教えてくれたんだ。真ん中三つ、光る星」
 光沢紙に閉じこめた星空に、いっとう目立つ星々。あのころを振り返ると、なつかしさに妙にくすぐったい気持ちになって、それを指さしながらつい、独り言が漏れる。
 俺の指している箇所を、クレイは確かにじっと見つめて、そして視線を逸らした。
「覚えていないな、そんなこと」
「俺は覚えてるよ」
 両親を亡くしてから、勉強も基本的な教養も――生きるために不便しないように、クレイが教えてくれた。
「学校で教わったことはすぐに忘れちまったけど、…旦那から聞いたことはずっと覚えてる」
「まさかなっ」
 つい発してしまった「旦那」という単語に反射で俺を睨みつけ、ギリリと音が鳴りそうなくらい奥歯を噛みしめてみせる。
「お前はずいぶん物覚えが悪かった…こんな希代の馬鹿もいたもんだと何度呆れたか」
 『面会時間終了』と告げるアナウンスが割って入る。
 目の前のアクリル板に強制的にシャッターが降りて、クレイが逮捕されてから何度見たかわからない顔で、今日の面談は終わってしまった。
 受付係が言うとおり、クレイが今後どんな罰を受けてどんなふうに過ごすかなんてわからない。
 口約束はたまにするけれど、もしかしたら一生ここで過ごすことになるかもしれない可能性だってありえる。
 だから、できれば写真を見ているときのような穏やかな表情を迎えたい。
 その前に、次の面談――もし次があれば、伝えなければならない。
 「やっぱり忘れてねぇじゃん」と。
「やっぱ、忘れてねぇじゃん」
 試しに口にすれば、クレイと過ごした日々はより一層鮮やかに思い出せるんだ。

 受付係にカードキーを返却し、外へ出る。
 たった十分だ。だけど季節の境のせいか、そんな短い時間ですら空の色は来たときよりも暗く染まっており、そこにはクレイの教えてくれた星が姿を表していた。
『オリオン座で一番明るい星がベテルギウス、次に明るいのはリゲルと言うんだ。見つけるときはベテルギウスか、真ん中三つに並ぶ星を見つけるといい』
『赤いからといって一番熱いとは限らない。青く輝く星のほうが、表面温度が高いと言われることもあるんだ』
 まだ孤児になって間もないころ、真夜中なのに目を閉じても、家も家族も燃えつくほどの眩しく灼けつく炎が目の前にちらついて、びっしょりと汗をかいてうなされていた俺を、クレイが天体観測に連れて行ってくれたことがあった。
 ただの点々に見えていた星がじつはとても熱いのを知ると、遠く離れた空が何だかとても間近に感じられてすっかり怯えた俺は、クレイの裾を掴んで震えていた。
 そんな俺を見下ろして笑い、大きな手で頭を撫でてくれながら、クレイは続けた。
『怖がることはない。もしかしたら遠くの星の中に、この街みたいにうんと住みやすい場所があるかもしれないんだ』
 一緒に見上げた夜空に広がる、数え切れない光たち。
『そう…宇宙は広いんだ、とても』

 あれから俺も身体が大きくなって、空には少しだけ近づいた。
 宇宙では無限の星が生まれては死んでいる。しかし変わらない輝きを持つもの、そのエネルギーを増しているもの…人と同じでいろいろあって――クレイと二人で見たあのとき、あの瞬間の星々の輝きは、果たして言葉で何と表すべきか、俺はまだわからないでいる。
 薄く霜の降る道にバイクを走らせる。クレイが見届けることのできない空にひとつ、ふたつ、星が灯り、その命を燃やしていた。

《了》