『例え、夜に灼かれても』サンプル - 3/6

「そういえば貰ってきたよ」
「お、何かいいもん?」
「違う、また自分で言ったこと忘れて……ほら」
「おぉ」
 渡された紙袋を開けると頭痛薬が入っていた。市販ではない、医者から処方を受けたものだ。紙袋に印刷された文字を見れば、マナトでも読める漢字――「楠木(くすき) 丞一 様」と書かれていた。
「あんがとな」
「本当は医者に処方された薬を人に渡すのはダメだけど……」
「でもオレ、これじゃないともうダメっぽいんだよなぁ」
 アルファもベータも引きつけてしまうオメガのヒートを防ぐべく、マナトは抑制剤を服用しているが、どこで用意したか分からない代物なのか、副作用である頭痛がときどき強く出る。市販薬では収まらないことを以前丞一へ伝えたところ、病院から処方箋を貰って初めて受け取れる鎮痛剤を用意してくれるようになった。
 本来ならばマナト自身が医者にかかるべきだが、それも叶わない。彼は保険証すら持っていない身だった。分かっているのは下の名前と自身の性だけだ。
「丞一、これってバレたらしょっぴかれたりする?」
「いや、バレなきゃいい気はする……その薬もドラッグストアで買えるやつではあるけど、病院で貰った方が安いし」
 「頭痛がする」という体(てい)で病院にかかっているが、良心の呵責はあった。店で買ってもいいのだが、経済的にはこちらの方が安く済むのだ。
 若干の気まずい思いを残したまま薬を渡したが、そんな丞一の言葉を耳ざとく拾い、マナトはニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
「『バレなきゃいい』って言ったな? じゃあオレとヤったっていーじゃん!」
「何言ってんだよ、全然話ちげぇだろ!」
「ちぇ、ほんとお堅いヤローだな丞一は」
 上げていた口角を一気に曲げてブツブツと文句を垂れるが、マナトは小声で「ありがと」とお礼を言い、丞一も確かに聞き届け、「ああ」とだけ返した。
「あと、最近マナトまたちょっと客入ってきてるだろ?」
「まぁミーちゃんに比べたらザコ中のザコ、ってかずっと最下位だろ」
「それでも売上伸びてるからさ。一応、ねぎらい」
 マナトの部屋に訪れる前に寄った弁当屋の袋を広げる。
 安い蛍光灯の下でも、その店一番に価格の高い弁当は光を放って輝きすら帯びているように見える。牛のステーキがご飯の上に並べられたそれを見たマナトは目を見開き、視線を丞一の顔と弁当に何度も行き来させた。
「マジでいいの!? 丞一サマサマ、太っ腹すぎんだろ!」
「この程度で……というかマナト、また痩せたろ」
「うわぁマジで嬉しい! 客にチップ積まれたときより嬉しい!」
「聞けよ! ったく、本当にしょうがねぇな。あまりがっつくなよ、胃に悪いから」
 それまで部屋に来るついでに丞一が菓子やおにぎりを持ってきてくれることはたびたびあったが、ここまでのご馳走は初めてである。マナトの目には蛍光灯が後光に見えた。
 破顔しながら慌てて弁当の蓋を開けようとしてなかなかうまくいかないマナトを見ながら、ついつられて丞一も苦笑する。
 たかだか弁当ごときでここまではしゃぐのもどうかと思いながらも、彼が喜ぶところを想像しながら選んだものに対して、マナトが実際にこうして笑っているのを見るのは嬉しかった。
 もっと、笑ってほしい。できればつらい思いなんてせずに。
 丞一の、マナトに対する新しい祈りは泉のように湧いていく。
「丞一は何買ったの?」
「俺の分はない。ここに来る前に適当に済ませてきた」
「えーそうなんかよ! こんないいもん、丞一と一緒に食いたかったぁ」
 先ほどまでの恩はどこへやら、全く均等に割れなかった割り箸で丞一を指しつつマナトは不服そうに眉尻を垂れて頬をふくらませた。
 失礼な態度に怒ってもいい場面だが、丞一は思わぬ言葉にグッと喉を詰まらせる。
「分かった分かった、次からは自分の分も買うよ」
 平静を装いつつ、耳に血が集まって痺れるのを自覚する丞一の背に冷や汗が浮かぶ。
 丞一と一緒に。自分にとって都合のいい部分ばかりが頭の中でリフレインする。この耳の温度と心臓の音に気づかれないといいのだが。
 ――これ以上丞一の不意を突くようなロマンティックな出来事は起きなかった。マナトはあっという間に食事モードに切り替わると、肉に箸を突きさして頬張る。
「うんまぃ!」
「喋りながら食うな」
 安堵と落胆の混ざった複雑な気持ちで丞一は呆れて額を押さえた。少しでもはしゃいでしまった自分が恥ずかしい。
 一方でマナトは千円少しの弁当のおいしさに夢中になる。会社や何やらで貰った菓子を客がくれることもあるが、怪しいものが入っている可能性もあるため、受け取ったらボーイに渡して捨てる決まりになっている。もっともマナトはそのルールも何度か破りつつ、なんとか無事に今を迎えている。
 この世にはこんなにおいしいものがある事実に打ち震えつつ、食事に対して前向きになった思い出を振り返ると、そこにいつも丞一がいることに気づいた。
 同伴の注文も付かないマナトは、トップの嬢であるミントや他のキャストと違い客と食事へ行く機会も、煌びやかな服やアクセサリーを渡されることもほとんどない。売上のつかない自身を、店側が雑に扱っているのも、半分お情けで置かせてくれているのもとうに気づいている。
 だからそのときの気まぐれだろうが、丞一が買ってきてくれるコンビニのお菓子ですらマナトにとってはとても嬉しいのだ。例えそこに、自身に対する哀れみがあったとしても。
「オレ、もっとサービスがんばろっかな」
「急になんだよ」
 マナトの口の端に付いた米粒を指でぬぐいつつ、丞一は怪訝そうな顔を向ける。
 丞一に何度も叱られてきたが、ここで恩に報いるべきだとマナトはようやく自覚できた。延長料金は必ず取るようにするし、下手なサービスを付けられそうになったら迷わず価格交渉しよう。そうすれば。
「丞一とステーキたくさん食いたい」
「……」
「ヒートのときも店に入りまくるわ」
「それはやめておけ」
 サイズの合わない首輪、店が用意する副作用のきついヒート抑制剤――ただでさえここのキャストが強いられる負担は大きいのに、これ以上何をしようと言うのか。マナトは「オメガの男が風俗店にいる」というだけで珍しがられ、客に良いように弄ばれ、本人もそれを拒絶しないことがほとんどだというのに。
 そのくせ、他のキャストがヘルプを出したら自分も部屋に突っ込むこともあるのだ。丞一はマナトがときどき分からなくなる。確かなのは、こんなに気分屋で丞一に対してはワガママなマナトが、自分を全然大事にしていないことだけ。
 マナトが自分の見えないところで客に弄ばれるよりも、その事実が丞一の胸をしくしくと痛ませる。嫌なら嫌だと言えばいい。自分が助けに行くのに。
「なんだよ、イライラした顔すんなよ」
「お前がまた無断で変なことしないか気がかりなだけだ」
「しねぇって! 金欲しー、って今思ったもん」
 その日暮らしで、客が入れば少ないながらも金が手に入る。そのことだけを考えながら生きているマナトにとって、目標ができたのは大きな出来事だった。
 マナトが張り切ろうとしているのだ。経営者にとやかく言われる機会も減るかもしれない。これは店にとってはいいことなのだと理解しているつもりでも、丞一の胸には暗い影が落ちていった。