『例え、夜に灼かれても』サンプル - 2/6

 日本の中でも頭抜きの治安の悪さを誇り、たびたびニュースで取り上げられる某S区。裏社会、薬物売買、殺人――あらゆる凶悪なフィクションの舞台にもされているこの場所でマナトは生きている。
 S区に足を踏み入れしばらく歩くと、外観からでは何のテナントが入っているのか分からないビルが立ち並ぶようになる。やがて夜には目を焼くほどの数多のネオンを煌めかせ、朝と昼には無音と不気味さを漂わせる一帯に辿り着く。マナトはそこにある買春宿の一つ、『ヘドニズム』の男娼だ。
 「旬のオメガが一時間二万円!」が売り文句の『ヘドニズム』では、さまざまな背景を抱えて居場所をなくしたオメガの人間を「商品」として提供している。
 何度も自治体の指導を受けているが、そのたびに屁理屈に等しい理由でくぐりぬけてきた。この先も『ヘドニズム』が反省や改善をすることはないだろうとマナトは踏んでいる。一番の古株であるマナトが来てから一向に変わらないからだ。
 そんな有り様だから店自体の雰囲気もいいはずもない。高級風俗店に比べれば部屋の造りもかなりチープで、所属する者たちへの待遇などもっての他だ。オメガと性交渉をしたい、なるべく格安で。そんな欲望を持った客のニーズを満たした店だった。
 よそと比較すれば酷い店だろう。しかしマナトはそれ以上を求めない。それこそ人が生きる最低限ギリギリのものだが、店の上に娼婦・男娼のために寝泊まりする部屋が用意されているうえ、店側がトラブルを避けるため、アルファの客と同意のない番(つがい)にならないための首輪まで付けてくれる。もっとも、サイズが合っていないためマナトの首には常にこすれてできた傷があるが。
 誰かと自分を比較することは、マナトにとって意味を成さない。どんなに最悪な状況だろうが、とりあえず今を生きていける。諦念とも違う割り切りがマナトを自暴自棄にさせなかった。
 彼に「愛人」という名前をつけたベータの客を見送ったあと、マナトは愛想笑いから一転、顔をしかめて店の裏に回る。
 嗜虐的な趣味を持つ客は意外とベータに多いのだ。業界最安値に等しい金額を支払ったベータたちは、アルファの真似事で店の者の身体に噛みついてくる。今日の客もそうだった。身体にしばらく残る傷を作るとボーイがうるさいからマナトは面倒だった。
 夜風が浅い傷に沁みる。夏の真ん中のS区は、どこからともなく饐えた匂いを運んでくるようで気分が良くない。重い湿気を受けながら自室に戻るための階段を上がる。
 薄暗い階段の途中でマナトは少しよろけた。片目しか見えないから何度上ってもたまに踏み外しそうになる。体勢を整えてなんとか上り切ると、廊下で『ヘドニズム』の娼婦であるミントとばったり遭遇した。
「あは、マナトお疲れ」
「ミーちゃんお出かけ?」
 店もラストオーダーが終わり、キャストたちはもう用済みの時間だ。その辺へ出るにしても、彼女は随分めかし込んでいる。
 ミントはファッションを見せびらかすようにその場でくるりと回ってみせると、外に跳ねた肩の長さの赤髪がふわりと揺れる。それから灯りに照らされた瞳――異国情緒を感じさせる、彼女の源氏名の由来にもなった淡いグリーンを細めて口角をあげた。
「これから同伴なの!」
「え? 同伴って。ていうか店閉まってるけど」
「んー、なんかね、同伴ってコトになってるけど、まぁデートだよね! 最近ついてくれたお客さんね、すっごい太客なの」
 高いヒールでぴょんぴょん器用に跳ねてみせるミントにマナトは思わず大きな声を出した。
「ミーちゃん! そいつマジで大丈夫なの? 外だとボーイ来てくれねぇよ!?」
「だいじょーぶ! お店に何度も来てくれたことあるし、女の人だから痛いことしないし」
 彼の心配をよそに、ミントは「じゃーね」とひらひら手を振り、カツカツと軽快な音を立てながら階段を下りていった。
 健康的な浅黒い肌にメリハリのあるボディ、猫のようなじゃれた態度を見せるミントは店の中でもトップの人気だ。マナトと同じく戸籍がなく、よその店でも間違いなく高い売り上げを叩きだせるだろう彼女が『ヘドニズム』に留まらざるを得ないのも皮肉な話だ。
 店に来たての頃は、彼女が悲鳴を上げるたびに、ボーイより先に個室へ行って客をこらしめたこともあるマナトは、楽しそうに出て行ったミントが気がかりだった。本名も知らないが、部屋も隣でそれなりの日数を過ごせば友情に近いものは抱く。
 しかし先ほどのミントの姿を思い出し、彼女を信じてマナトは自室へ向かった。店に取り急ぎで与えられるサイズの合わない首輪が、彼女の細い首にフィットする、洗練されたデザインのものに変わっていたのにようやく気づいたのだ。
 恐らくオーダーメイドのそれは、彼女の言う「太客」が用意したのだろう。彼女を独占するためか。
 自分にもそれだけ金払いのいい客がついてくれればいいのに。マナトは嘆息しながら部屋のドアを開けた。
「ただいまぁ」
 すぐにベッドが目に入る狭いワンルーム。そこには既に男がいた。
「遅かったじゃないか」
「ミーちゃんと絡んでた。あとちょっと延長した」
「お前……そういうときちゃんと延長料金取れって言ってるだろ!」
「あーもう、丞一(じょういち)すぐ怒る」
 『ヘドニズム』のボーイ――丞一が眉間に険しい皺を寄せて叱責するのをマナトはほとんど聞き流してベッドに横たわった。
 マナトが自分の説教を真面目に聞くことはほとんどない。あからさまに疲れた態度を取られるのにもとうに慣れた丞一は、マナトの身体を起こすと羽織っていたワイシャツに手を掛ける。
「お前、ボタンくらい閉めろって言ってるだろ」
「いいじゃん、誰も見てねーよ」
 もっと言いたいことはあるが、丞一はぐっと口の端を噛んで耐えた。マナトが接客で疲れているのは分かっているため不毛な言い争いはしたくなかった。
 するりと衣擦れの音と共に、マナトの身体が蛍光灯の下に晒される。できたばかりの鬱血痕は先ほどまでの情事の匂いを帯びているようで、丞一はつい眉間に皺を寄せてしまう。
 それだけではない。一体どんなプレイをしたらそうなるのか――左目を始めとして身体の所々に付いた切り傷、広く浅い火傷、殴られたときの痣など、丞一が出会ったときにはマナトの身体は既に傷だらけだった。
「……もっとさ」
 少し前にドラッグストアで購入したピーチの香りのボディクリームを手に取り、丞一はなおも口を開いてしまう。いつ見ても、見ていられない思いにさせられるから。
「客に強く言えよ、跡になるような真似するなって」
「んぁ? まー丞一の心配も分かるよ」
 疲労のあまり舟を漕ぎつつあったマナトは姿勢を立て直してヘラヘラと笑う。
 オメガの男で、しかも店の中で比較すれば歳は一番上。いつ捨てられてもおかしくないから、マナトは客の要望に逆らわない。SMプレイの範疇を超えた傷害行為を受けて、丞一に大声で叱られても懲りない。それが彼なりの処世術だった。
 そんなマナトを見かねたのか、いつしか丞一は仕事後のマナトのケアまで引き受けるようになった。ボーイがキャストたちの精神的な面倒を見ることはたまにあるが、ここまで手厚いのは丞一のマナトに対するそれのみである。そのおかげでマナトの身体にひどい跡が残る頻度は減っているが、反面、どうしてここまでしてくれるのか腑に落ちないところもあった。
(お人好しすぎだな、丞一は)
 クリームを乗せた硬い手のひらが背中を滑るのが心地良く、マナトはまた眠りに落ちそうになりながらも内心でつくづくそう思った。
 店に雇われるボーイは全員ベータであるから、丞一に襲われる心配をしたことがなかったが、それすらマナトは奇妙に感じていた。
 ボーイとキャストが関係を結ぶのはご法度だが、いつ代償で身体を求められても自分の立場からすればおかしくはない。しかしこの、いつも小言を口にする丞一がそうするところも想像できないのも事実だ。
 仕事に対して真面目すぎるだけだろうか。マナトは一応そう結論づける。
「丞一のマッサージ、きもちいい」
「……そうかよ」
「他の子にもしてあげたら喜ぶんじゃね?」
「俺はそこまで暇じゃない」
 白くやわらかな二の腕にまで丞一の手のひらが及ぶと、マナトはつい身震いをする。
 淫乱。ビッチ。売春野郎。オメガに向けるさまざまな罵倒も受けてきたが、言われれば身体はその言葉通りに快楽を拾おうとして、いつしかすっかり造り替えられた。
 目の前に視線をやればマナトの身体の労わる丞一がすぐそこにいる。太く凛々しい末広がりの眉、真っ直ぐ通ったキレイな鼻筋、垂れ目は伏せるだけで色っぽさが大いに増す。
 以前聞いたときに「お前みたいな奴が問題起こしたときのためだよ」などと返されたが、鍛えている身体はカッチリと締まっており、制服である黒いワイシャツと揃いのベストがよく似合う。手首には飴玉のような骨が浮かんで、そこからは節の目立つ大きな手が伸びていた。
 同性のマナトから見ても丞一は魅力的な男だ。果たしてなんでこんな店にいるのか詳しくは聞いたことはないが、『ヘドニズム』に来る者に表沙汰にできる理由のない人間はいなかった。
 そんな上等な男が、細心の注意を払いながら自分の身体を入念に手入れしてくれている。ただでさえ性を売りにしているのだ、マナトの欲を奮わせるには充分すぎるほどだった。
「なーなー、丞一ぃ」
「なんだ」
「一発――」
「だからやらないって言ってるだろ」
「んだよ、オレも誰にも言わねーしバレやしねぇよ」
「そういう問題じゃない」
 色気の欠片もないマナトの誘い文句はあっけなく一蹴された。しかもこれが初めてのことではない、あの手この手でベッドに連れ込もうとするが、丞一はいつまでもつれない態度を変えようとしない。
 店の規則もあるとはいえ、つくづく彼がアルファでないことが惜しまれる。ベータは発情(ヒート)を起こしたオメガを目の前にしても、アルファに比べたら反応が鈍いことこの上ないのだ。
 ただ。マナトは視線をゆるゆると落として彼の手が往復する自分の腕を見る。点々と付いた傷痕は茶色いし、日頃からいい生活を送っているとは決して言えないので身体も頼りないほど細く生白い。
 こんな自分を抱かなくても、丞一なら女にも男にも困らないのだ。マナトは理解しているつもりだったが、相手を連れ込む丞一を想像しようとするのを頭が自然と割けた。
「ほら、次は傷の消毒」
「うへぇ」
「背中向けて」
 ティッシュに消毒液を吹きつけながら、ボディクリームを避けた箇所を丞一は改めて確認する。
 マナトが「この匂いが好き」と言うからピーチのものにしているが、先ほどまで自分の知らない他人とセックスをしていた相手が瑞々しく甘い桃の香りを纏うのは、どこか背徳的な雰囲気を生ませる。再び眉間に皺を寄せた丞一は小さく首を横に振り、改めてマナトの傷を見た。
 本当ならば消毒液を傷に直接当てるのは良くないらしいのだが、シャワーで洗い流しているとはいえ他人の体液が付いた箇所であるうえに、「ここをこれ以上傷つけるな」という抑止力にもなることを願い、丞一はいつも少し大きめのガーゼや絆創膏を貼っていた。
「いてて、丞一もっと優しくしてくれよぉ」
「してるっての」
「その態度が冷てーの!」
「わけ分からん」
 ブーブーと文句を垂れてみせるマナトだが、そんな彼の顔を直で見ながら聞きたくないことを、丞一は絆創膏の剝離紙を剥がしながら小声で尋ねる。
「あの、さ」
「ん?」
「今日はされてないな? ……中出し」
 この業界に身を置いて数年は経つくせに、その言葉を出すのに未だに抵抗を覚える自分を丞一は恥じる。しかし相手の身体のこと――殊にマナトのことだ、あまり耳にしたくないのが一番の本音だった。
 そんな丞一の葛藤もつゆ知らず、マナトは「あぁ」と軽く返事をする。
「全然無事。てか大丈夫だって、されたらちゃんと言うし」
「……あぁ」
「丞一サマのおかげでヒート抑制剤もサボってないし助かってまーす」
 合意のない性行為はどのような性であれ法律で禁止されている。店側も客に避妊の協力を求めているが、この店のモラルだ、守らない人間も時としているのが現状だった。
 特にマナトは――今までの人生がそうさせているのだろうか、そもそも自分の安全に対して希薄なところがあり、初めて「だりぃ、中に出されちった」と面倒くさそうに丞一に報告してきたときには青ざめたものだ。
 初めはマナトに対して散々叱った丞一だったが、そのうち店の管理体制にも怒りを覚えていった。いくら訳ありの人間を雇っているとはいえ、この扱いの悪さは何とかならないのか。
 しかしその怒りは結局何もできない自分に返ってくる。マナトと同じ雇われの身であるのは変わらない丞一は、ただ彼の安全をひたすら祈るのだ。
「大丈夫だよ、面倒事は避けるようにオレもちったぁ考えるからさ」
「……あぁ」
 真意はそこではないのだが、マナトには伝わらないし、伝える気もない。
 丞一は自分の祈りを込めながらマナトの背に絆創膏を貼った。