思い出にできそうもない - 4/4

Ⅳ-春光はまぶしく

 赤木と木暮が抜けてから初めて迎えた公式戦で、湘北高校バスケ部はベスト8という大健闘で幕を閉じた。
 代替わりしてすぐに打ち出したこの功績が学校にも称えられ、一月の始業式は代表として主将の宮城と副首相の安田が表彰状を受け取った。
 壇上から自分の場所まではかなり距離が開いていて、二人がどんな表情をしているか木暮は分からなかったが、引退した身でありながらもバスケ部がとても誇らしかった。彼らなら、来年の夏も絶対に大丈夫だと確信する。
 ベスト8について、木暮は本当のところ部室に寄ってみんなの健闘を直接労いたかった。しかし、来週にはセンター試験を控えている三年生は緊張でピリピリしていて、自分も例外ではなかった。
 他の者に比べたら木暮はまだ余裕を持って構えている方ではあったが、繊細なところのある赤木はそれどころではなさそうで、木暮は無二の親友を励ます方を選んだ。成績優秀と教師から褒められる自分よりも勉強ができる赤木を、木暮は学力面で心配したことなど一度もなかったが、人生を左右する受験では誰だって追い詰められる。
「図書室で勉強しようぜ」
 始業式のみで午前中に放課後を迎えた木暮は赤木をそう誘った。この時期になれば過去問の復習が中心となる。通い慣れた校舎でペンを進めていると、集中力が高まったからか木暮は不思議とリラックスしていく。
 赤木もそれは同じだったようで、数時間後に小休憩のため図書室を出ると、眉間に刻まれていた深い皴もやや和らいでいた。
「そういえば、三井とは会っとらんのか」
 自販機で飲み物を買いひと息つくと、赤木の方から彼の名前を出されて木暮はドキリとした。察していませんように。そう祈りながら木暮は笑みを取り繕う。
「いや、あまり会えてない。秋ごろからなかなか部室に寄れなくて……赤木は?」
「俺もだ。もし今日会えたらベスト8について一応祝ってやろうと思ってな」
 致し方なく、なんて顔で赤木は溜め息をつくが、本人がこの世で一番彼らを祝福したいに決まっている。愛するバスケも我慢しっぱなしで、元キャプテンは相変わらず変なところで頑固だ。
 大学に入ったら、それまで我慢していた分思い切りバスケをしてほしい。しかし、中学の頃から六年間、ずっと一緒にいた赤木とも進路が分かれると思うと不思議な気持ちだった。
 寂しいものの、赤木が大学バスケでも活躍している姿がありありと想像できるから、足元の揺らぐほどの不安や切なさはなかった。
「……ベスト8なら推薦も現実的な範囲内だろうな」
 赤木が話を続ける。口調こそそっけないが、彼もまた三井のことを心配しているのだ。部を引退した今でも心の繋がりがしっかりあることに、木暮は不意に胸を打たれた。
「大丈夫だよ、三井なら」
 秋に見せてくれた成績を思い出す。あの日以降、三井と顔を合わすことはあってもデートと呼べるような交流はとうとうできずじまいで今日に至ってしまった。
 これからも自分を見てほしい、期待してほしいと笑ってくれたのに、彼に返したものといえば自分の中で一向に解決しない不安だけだ。謝りたいのに、彼と距離を詰めて話をするには受験で余裕がなさすぎる。痛む心をそっと堪えながら、木暮はそっと微笑む。
「あいつ、勉強頑張ってたからさ。推薦もきっといけるさ」
「む、木暮がそう言うなら……」
 赤木は渋々納得する。木暮は赤木に対するのと同様に、三井もまたうまくいくことを確信していた。
 彼はそういう男だった。人々の目を奪いたやすくハートを掴んでさらっていく。そしてもうダメかもしれないという窮地でこそ、不屈の心身でよみがえってみせるのだ。
 心が吸い寄せられるまま、三井をずっと見ていたい。こうやって会話の中で名前が出てくるだけで、ざわざわと木暮の胸はざわめいて落ち着かず、三井のことしか考えられなくなる。赤木のことを心配している場合ではない。自分で自分に失笑する。
「俺も頑張らないとな」
 独り言のように呟く。ホットの飲み物を飲んでいるはずなのに、手が意外なほど冷えているのに木暮はようやく気がついた。

 センター試験を乗り越えると、そこから怒涛の日々が始まった。二月に入れば順次私立大学や国立大学の前期試験が始まり、大会よりもずっと長い戦いが幕を開ける。
 いくらバスケで鍛えていたとはいえ、受験のそれはスポーツとは違った心身の疲弊が積み重なっていく。
 ここにはバスケのように共に戦う仲間が側にいない。一つずつ、着実に。何度も頭で唱えながら木暮は受験本番を迎えた。今までの自分を、仲間たちのように信じてあげながら。

 来たる三月初旬の合格発表。
 木暮は関西にある国立大学への進学が決まった。
 教師や両親が期待した通り、第一志望の大学へ無事に進路を定めた。

 教師に報告を終え散々労われたあと、木暮は校舎を後にする。なんだかまっすぐ帰る気になれず、帰る方とは逆の上り方面の電車に勢いで乗る。
 三井と付き合うまでは、夕陽が差し込む前の時間にこの電車の窓から景色を見ることなんてなかった。勉強会と称していたが、三井がデートだと思っていたように、木暮もまた彼と過ごす時間をひっそり楽しんでいた。バスケ部に復帰して以降も根も葉もないことを言われることが多かった三井がこれ以上何か言われるのがとても嫌で、こんな回りくどい真似をしてしまった。
 窓からちらちらと見える街路樹は少し芽吹いていて、卒業式の日は蕾がふくらんでいるか、運が良ければ咲いているものもあるだろう。
 部屋決めや引っ越し準備など新生活に向けてやらなければならないことは多いのに、木暮はふわふわした心地で何かに集中できる気がしなかった。
 ――三井にも連絡しなければいけない。しかしそれは、自分たちの関係に答えを出さなければならないことを示している。どんな結末を迎えてもいいような心づもりはまだできていない。三井のことを案じているのに、ぐずぐずして足踏みしている自分が歯がゆい。
 いつの間にか穏やかではない表情をしている自分が窓ガラスに写っていて、木暮は慌てて自分の眉間を指でぐりぐりと押さえてほぐした。
 第一志望の大学に合格して、木暮は来年受験を控える二年生のために講演してくれないかと教師から依頼されたくらいだ。荷が重くて断ったが、周りにもこんなに祝われて、描いていた未来はとてもいい現実として形づくられているのは違いない。
 それなのにたった一人、三井だけが木暮を曇らせる。自分の心をさらっていった彼は今頃、どうしているだろうか。こんな風に誰かを想い続けたことがないから、どうしていいのか全く分からなかった。

 電車はいつも勉強会をしていたファミレスのある駅に着く。そこで降りた木暮は改札を出て、どこを目指すわけでも歩き出す。
 空は少し陰っていて、もうすぐ夕方になりそうだ。このままフラフラしていたら、あっという間に夕飯の時間になってしまう。親に連絡を入れようか。それも後回しにしたい――。
 こんなに全てに対して気が重くなるなんて、木暮自身が一番自分に驚いていた。何も考えたくない。中学から高校にあがるのとは全然違う、新しいものだらけの世界を前にして足が竦んでいた。
 前に進むことも、後に下がることもできない。こんなとき、三井はどう自分を叱るだろう。それともかえって優しくしてくれるかもしれない。自分では手に負えなくなってしまった不安をぶつけたときだって、三井は木暮に怒鳴るような真似は一切しなかった。
 会いたい。あのしなやかな腕に抱き締められたい。三井を想うだけでどんどん弱くなっていく自分を支えきれなくなっていって、木暮の視界はぼんやり滲んでいく。
 ――現れてはくれないだろうか。スーパースターはいつだって、その眩しさで目を奪っていくから。
「――木暮」
 後ろから名を呼ばれた。心臓を握られ、頭の先からつま先まで凍りつく。
 どくん、どくん。胸がすさまじい速さで早鐘を打ち、木暮の身体を震わせる。振り返る勇気が出なくて途方に暮れていると、声の主の方から彼の肩を掴んだ。
「おい、無視すんな!」
「三井……」
 数カ月ぶりの再会に、名前を呼んだが最後、木暮の喉から言葉が出てこなくなる。少し見上げると、あんなに焦がれていた三井の顔がそこにあった。髪を切ったのだろうか、記憶の中と比べると少し短くなっている。
 三井は少し気まずそうに目を逸らして頭を掻く。学校からの帰り途中、なんとなく木暮とよく過ごした場所を歩きたくなってこの場所に降りたら、まさかの本人がいるではないか。
 できすぎた偶然に面食らったものの、すぐに気を持ち直す。
「ずいぶん久しぶりだな」
「あ、あぁ、本当に……」
「なんでここにいるんだ?」
 同じ疑問を木暮は三井に対して抱いていた。なんでそうやって、自分にとってあまりに都合のいいタイミングで会うのか。三井にとっては偶然の再会と分かっていても、木暮には彼がわざわざ来てくれたとしか思えなくて、木暮は俯き顔を覆う。
「お、おい! どうしたんだよ」
「三井……」
 人が行き交っていると分かっていても、木暮はふらふらと三井に近づき、肩口に額を乗せて背中を震わせた。コート越しでも三井は変わらずに温かいのが分かって、木暮の瞳に水分がどんどん満ちていき、あふれた分がこぼれていく。
 木暮は一体どうしてしまったのか。三井は固まりながらも、泣いているのはかろうじて分かった。放っておく真似など絶対にできないから、三井はそうしたいまま木暮を抱き寄せた。
「三井、」
「誰も見てねーからいいだろ」
 そんなわけがない。ここに来るまででも何人とすれ違ったと思っている。しかし三井の分かりやすすぎる嘘でも、その不器用な気遣いが嬉しくて、木暮の涙腺はゆるんで、ぬるい水で頬をしとどに濡らしていく。
「あ……」
 喉が引き攣れるように震えて、うまく息ができない。目の前の三井を確かめるようにそっと背に腕を回す。
「あいたかった」
 心から、お前に。
 それきり黙りこくった木暮が、自分の肩をどんどん濡らしていくのを三井は黙って感じていた。慣れてないなりに頭を撫でてやったが、木暮が泣いていると自分もなんだか泣きたくなるのを三井は唇を噛んで耐える。鼻の奥がつんと痛んだが、木暮を真似るように彼の首元に鼻先を埋める。
「俺も」
 同じ気持ちなのが奇跡のようで嬉しかった。木暮も、相手のせいで感情が振り回されるのが自分と同じだと、三井は身を以て思い知った。

 期末試験の時期だからだろうか、学生の姿は見えないものの、通行人が二人へ視線をやりつつ通り過ぎていく。
 少し冷静になると、木暮はそれに気づいて一瞬顔を青ざめさせる。しかし三井は気にせず、木暮の手を取って「少し歩こうぜ」と誘った。
 高校生という身分が当たり前に意識づいていたときなら、「人がいるだろう」と断っていた。しかし木暮は自分の欲求を優先して、素直に三井と手を繋いだ。
「いつぶりだ? 会うの」
「最後は十一月かな」
「そんな前だったのか。なんか今日まであっという間だったわ」
 少しずつ傾き始めた陽が二人の影を伸ばしていく。通ったことのない道だったが二人は気にせず、結んだ手を揺らしながらあてもなく歩いていく。
 ちらりと木暮は三井の横顔を見上げる。その表情に暗いものは宿っていない。それだけで彼が四月からどんな道を歩むか分かる気がした。
 少し大きく息を吸う。三井は初めに木暮に言わなければならないことを決めていた。
「――推薦取れた。春から千葉」
「そうか。本当におめでとう!」
 信じていた通りの結果を三井は打ち出した。木暮の胸に真っ先に湧いた感情は素直な祝福だった。
 先ほどとはうってかわった満面の笑みを浮かべる木暮に、三井は小さく溜め息をつく。推薦合格が決まる日まで、本当に気が気でない毎日を送ったものだ。
「ベスト8が今の俺たちの結果だ。でもマジで優勝を狙ってたし、MVPも獲りたかった」
「うん」
「っは、中学の頃みたいには全然いかねぇな。宮城や桜木が余計な心配しやがってよ、あいつら泣くフリしながら『来年もバスケ部にいていいよ』とか言うんだぜ!」
 縁起でもねぇ! そのときの怒りを思い出して三井はつい大きな声を出す。力んで木暮の手をぎゅうと強めに握ったのを、木暮は笑って握り返す。
「でも推薦にはちゃんと合格したんだから良かったじゃないか」
「おう。内申は良くても担任との面接練習は最悪だったぜ。……」
 内申と口にしたときに三井は木暮を見た。彼がつきっきりで自分の面倒を見たから合格できたようなものである。
 余計な重荷を既に下ろした今なら、思っていることを素直に発露できる。三井は微笑んで、ずっと伝えたかった感謝を木暮に口にした。
「本当にありがとよ。木暮がいたから、ここまで来れたんだ」
 ――こうして木暮に真に言わなければならないことを伝えるとき、三井の脳裏に夏合宿の夜が呼び起こされた。
 あのときは言葉を選ぶのも難しく、自分の気持ちを伝えきれていないようでもどかしかったが、本音というものはこうした簡潔な言葉でまとめられるほどシンプルなのかもしれなかった。あとは、相手が受け取ってくれるのを待つだけだ。
「三井ならできるって俺は本気で思っていたよ」
 自分のよりもほんの少しだけ小さい木暮の手がめいっぱいの力で握り返してくると痛いほどだ。
「言われなくても、ずっと三井に期待しっぱなしなんだ」
 二人を照らす太陽が徐々に橙を帯びて夕陽へと姿を変えていく。その瞬間の光に照らされた木暮を、三井はひどく美しいと感じ入って息を呑む。
 彼の瞳はいろいろな光にまたたいていた。それも、あの夏の夜に覗いたときと同じだった。
 一つ違うのは、どんどん闇が広がって消えてしまいそうなところ。
「俺は四月から京都。無事に第一志望の大学に合格したんだ」
「そうか。良かったじゃねぇか」
「あ、あと俺から言ったっていうのは内緒だけど、赤木も春から東京だぜ。お前たち、次はきっと敵同士だな」
「げぇっマジか……」
 赤木のリバウンドやダンクの迫力を三井は充分すぎるほど知っている。二人とも関東、しかも隣県だから公式戦どころか練習試合でも顔を合わしかねない。非常に頼もしかった同期が次は敵になると思うと気が滅入って三井は顔をしかめるが、決して負けるつもりがない。
 分かりやすく顔をしかめる彼に木暮は笑いつつ、やはり寂しさが無視できなくて眉尻を下げた。
「三井の活躍がなかなか見られなくなるの、本当に寂しいよ」
 その言葉は、木暮が大学では部活動のようにバスケには携わらないことを示唆していた。
 理系の学部は実習が多いくらいの知識は三井も持っていた。きっと彼は以前語ってくれたように、怪我をした人々が負った怪我ときちんと向き合えるようにすべく勉強に励んでいくのだろう。
 大学でもバスケ部に入る三井と、多くの人を支えるために学ぶ木暮。二人は進路も、これから暮らしていく場所も全く異なる結果となった。
「三井、俺……」
 離れたくない。そう言ったところで願いは叶わない。自分たちの選んだ道がここで分かれることになった。それが現実だ。
 木暮はきっと自分は、ずっと分からないままなのだろうと思った。まっさらで、自分が切り拓いていかなければならない世界が目の前にある。その中でどうやって三井との関係を続けられるのか、永遠に答えを見つけられずに生きていくのだと。
 下手に恋慕を拗らせるくらいなら、美しい思い出にしたかった。例えそれが、深い火傷のような痛みを伴うとしても。
「……木暮は」
 これまで木暮がかけてくれた言葉と、側にいてくれたときの行動やその表情の全てを三井は思い返していた。大切な人が自分にしてくれたことは、いつでもすぐに手に取れる場所に置いてある。
「俺に期待しているって言ったな。俺はお前がどうなっていくか見たい、って言ったらどうする?」
 三井の目には、これから輝かしい未来を背負って歩いていく木暮がとても眩しく映った。
 ずっと見ていたい。その光を眺めて、いっそのこと手に入れてしまいたいくらいの、たった一つの宝石に対する渇望。

「夢見させてくれよ。俺、木暮を思い出になんかできねぇよ」

 自分の声とは思えないほどの落ち着きだった。木暮に対する心の叫びが言葉という形を持ってなめらかにこぼれ出る。自分がこんな風に静かに気持ちを伝えられることに、三井自身が驚いていた。
 ――いつだって誰かのために出てきた言葉が、行いが、何一つ出てこない。三井に対して抱いていた想いを、三井からそのまま自分に送られる。
 「俺も同じだ」と。
 誰よりも大好きな人から同じ気持ちを渡されるのを、奇跡以外にどう表すべきなのか木暮は知らない。
 立っているのも精いっぱいで、木暮は思わず三井の腕にしがみついた。三井はそれを当然のように受け止める。身体があふれ出る喜びに溺れそうで、木暮の喉はまたグッと詰まる。
 三井は愛しさのあまりつい笑って、木暮の目尻をそっと親指の腹で撫でる。彼の丸くてきれいな形の瞳にきらめきが満ちて、それが自分を捉えるのを、あの夏以来ずっと待ち望んでいた。
「俺、三井の3Pシュートも、すごくすごく、好きなんだ。中学生のときから、ずっと」
 ようやく絞り出した一言に、三井が大きく笑って「知っとるわ」と大きな声で答える。その自信に満ちた反応に木暮もつられて、いよいよ声をあげて笑った。
 力強く握られた手をぶんぶんと揺らしながら、二人は知らない道を歩いていく。この先に何があるかなんて知る由もない。
 しかし、お互いどんな気持ちか分かりさえすれば、幸せはそこにおのずと生まれるのを、三井と木暮は二人でようやく見つけ出した。春の澄んだ空気が透き通る夕陽を通す、三月のよく晴れた日だった。

《了》