思い出にできそうもない - 2/4

Ⅱ-晩夏のあこがれ

 湘北高校の最寄り駅から上り方面へ三駅。改札を出たすぐ目の前の店舗ではなく、そこから五分ほどまっすぐ歩いたところにあるファミレスに入る。
 店員が案内しようと口を開く前に「待ち合わせなんで」と断りを入れて奥へ進みつつ、三井は目的の人物を探す。
 九月も下旬に差し掛かったとある平日の店内。学生は思っていたより入っているが、みんな湘北高校とは違う制服を着ている。この駅近くにある私立高校のもので、チェック地でネイビーの生地が特徴だ。
 だから自分と同じ高校の生徒がいると、そこだけ浮き出て見える。無地の黒いパンツを履いた足が視界に入ったので、三井はそのまま視線を上へ移動させる。予想通りの人物が真剣な表情で教材を読みつつペンをノートに走らせていた。
「木暮」
 名前を呼びつつ三井が対面に座ったが、木暮は彼の方を見ずに視線を落としたままだ。ノートの傍らに外した腕時計が置いてある。見たところ、時間内に問題が解けるかどうか試しているのだろう。
 集中した木暮が三井への反応を後手に回すのはこれが初めてではない。相手は一般入試予定の受験生だ、勉強を優先する気持ちは三井も分かっているつもりだった。
 しかし、それでも自分を蔑ろにされたような面白くなさを今でも覚えてしまう。ややふてくされた面持ちで肘をついた三井は注文もせず、木暮がこちらを向くまで彼を見ていることにした。
 伏せた目のふちにまつ毛が綺麗に並んで生えている。やわらかな線で描いたような鼻筋を辿ると、自分のものよりは薄い唇は閉じられていた。三井は、まだそこには触れたことがない。それが今の状況よりずっと面白くなくて歯噛みする。
 自分と木暮のパーツをこっそり比べるようになったのは少し前からだった。木暮のことは同期という間柄だったときによく知っていたつもりだったが、こうして彼を見ながら内心で整理していくと、改めて認識するところは多い。
 こうやって優先したいことがあれば三井を相手にしないところだってそうだ。後輩にあげる飴のひとかけらくらい、こちらに増やしてくれてもいいのに。口にはしないだけで、こうやって駄々をこねてみっともなく拗ねるのはなぜか、三井は考えずとも自分でよく理解していた。
 数分後――三井にとっては何時間にも思えたあと、木暮は小さく溜め息をつくとペンを置き、大きく伸びをしながら彼に笑顔を向けた。
「すまん、待たせたか?」
「おう」
「悪かったって。来てくれてありがとな」
 些末極まりない問いかけにムスッと小さく答えるものだから、その分かりやすさに木暮は笑いを堪えつつ謝罪とお礼を伝えた。
 一旦教材の類いを横にどかしてからテーブル脇に立てかけられたメニューを取り、彼に見えるように広げる。
「ほら、何か食べるか?」
「何って……いつも夕飯前に帰るだろ」
「今日は夜ご飯も外で食べてくるって親に言ってあるんだ。三井もよかったら一緒に食べよう」
 そう伝えると、さっきまでいじけた表情だった三井の顔が瞬く間に和らぎ、木暮をしばしじっと見つめる。この我の強い素直さが三井の美徳でもあり、抜けている印象も同時に与える。
 見つめられるのは照れるが、彼が喜んでいるのが手に取るように分かるから木暮は笑みが絶えない。三井は身を乗り出してメニューを覗こうとしたものの、姿勢を戻して渋々といった調子で鞄を漁る。
「やっぱ飯はあとででいーや、眠くなる。一応ベンキョー会なんだろ、これ」
「まぁ、な」
 歯切れの悪い木暮の返事を聞き、三井は唇を尖らせてフンと鼻を鳴らした。そうやって少し顔を赤くして、なにが勉強会だ。ペンケースや教科書を乱雑に出しつつ、三井はわざとらしく言ってみせる。
「俺はデートのつもりで来てっけどな!」
「ばっ馬鹿! 声がでか……三井だって今は内申上げなきゃいけないだろ!」
 ますます顔を赤くしながらも正論で返してくる木暮にやや辟易しつつ、言っている内容には完全に言い返せないから、三井は眉間に皴を寄せつつ反射で言い返したい衝動をグッと堪えてペンを取り出した。

 中学生の頃からの悲願だった全国制覇の夢は破れたものの、木暮の気分は不思議なくらい清々しかった。後輩たちには全幅の信頼を寄せている上に、一切の妥協などなくこの夏を駆け抜けて、身体の中から積年の想いが良いも悪いも含めて全て抜け出ていった。
 もう湘北の選手としてバスケ部に携われないことに、やはり一抹の寂しさは抱いた。当たり前のように過ごした部活の時間が自分の日常からなくなっていくのは、慣れていくのも物悲しさはある。
 しかし、今の自分は決して抜け殻ではないと木暮は確信している。受験生という身分になったが、バスケがつかず離れずの距離で自分の側にいつも存在する事実が、木暮に安らぎを与えていた。

 ――ここまでさっぱり未練がないと、ある種のパワーが木暮の中に芽吹いた。勇気のような、自棄のような。
 どうせなら何もかも全部やり切ってしまえ。当たって砕ける勢いで木暮が三井に告白したのが八月三十一日。夏休み最後の日だった。
 ほとんど片付いた荷物を引き取りにOBとして木暮が部室に寄ると、ちょうど三井が着替えを終えたところだった。
「あれ、三井。他のみんなは?」
「もう帰った。俺は残ってちょっといろいろやってたとこ」
 そう答える三井の顔色はほんの少しだけ悪い。軽い疲労だろうか。バスケ部へ復帰して以降、三井が安西監督の指示を仰ぎつつ個人的に筋トレや基礎練をしているのは木暮も知っていた。
 彼にはウィンターカップで優勝するという大きな目標がある。IHを終えて赤木や木暮が抜けて、たった一人の三年生になった状況も、罪悪感と隣り合わせで育っていた責任感に重さを与えているようだった。
 彼一人で背負わずとも、頼もしい後輩たちに寄りかかればいいのに。身体も心も力を抜いて、自分を許してほしいのに。
 木暮の胸が軋むように締めつけられる。引退は自分で選択したことだが、バスケコートから退いた以上、もう面と向かって何かを伝えてあげられる機会なんてほぼないかもしれない。その事実が、三井に対する堪らない気持ちを加速させる。

 傍にいたい、支えたい、その活躍をもっと見たい、いつも憧れている、かっこいい、――一緒に、いたい。

 中学生の頃に見つけたスーパースターが自分と同じ場所にやってきたときから、ずっと思い続けていたことだった。三井がそこから離れていたときに、どう声をかけるべきか、死ぬような思いで苦悶したことだって。
 少し陰の濃い彼の横顔を見ると、もともと木暮の胸に積もっていた感情が一気に熱を持って吹き出す。
「あのさ、三井」
 考える前に、口をついて抑えきれない熱がこぼれる。
「俺、三井のこと好きなんだ」
 ――その場がしんと静まり返る。あまりに突然の告白を受けた張本人はもちろん、言った側もぴしりと硬直して、二人は瞬きもせずにしばし見つめ合う。
 今、なんて言った? それぞれがその疑問に対して答えを見つけ出そうと頭をフル回転させるが、真っ白になった脳内では言葉一つとして見つからない。
「……あのよぉ」
 くっついてしまったような唇を無理やり剥がしてなんとか言葉を発したのは三井の方だった。
「えっ」
「好きって、お前――」
 どういう意味なんだよ、と尋ねる前に目の前の景色が三井の理解を否応なしに促した。
 二人きりの部室に、首筋まで真っ赤にして、こめかみから冷や汗を一筋垂らしている木暮。このセットが何よりの答えに決まっている。
 木暮の顔色が三井にそっくりそのまま伝染する。「はぁ?」と意図せず威圧的な声が出て、木暮の肩が縮こまった。
「あ、あの、ごめん、なんでもないっ」
「ごめんっておめぇ……なんでもないわけねーだろ!」
 さっと身を引いて逃げ出しそうな木暮の腕を掴み、三井が険しい目つきで怒鳴る。大事なことを言ったはずなのに誤魔化そうとするなんて木暮らしくもなく、三井の癪に障った。
 こちらも反射で手を伸ばしたものだから力が加減できず、三井にがっちり握られた部分は白かった。耳はまだ照れの残滓で赤いのに木暮の顔は真っ青で、どこかの国旗みたいだと三井は場に似つかわしくない感想を抱く。
 復帰直後ならともかく、今の三井を振り払える力が木暮にはない。それでも暴れるなり何なりして抵抗できるはずなのに、三井に射貫かれるように見つめられて身動き一つできる気がしなかった。
「お前、俺のこと好きなのか」
 円陣で三井と隣になったこともあるし、合宿のときは身体がくっつくくらいの距離で浜辺に並んだのを木暮はよく覚えていた。それなのに、今のこの距離がかつてないくらいの接近だと怯えて震えそうになる。掴まれた腕も微塵も緩めてくれない。
 口がカラカラに渇いていって、心臓が耳の中に移動したのかというほどうるさい。言葉などとても返せそうになく、木暮は頷くだけだった。
「……なんで」
 怒っているとも取れる三井の表情がわずかにゆるみ、木暮からふいに目を逸らす。声が明らかに戸惑っていて、告白の張本人である木暮はやや同情しつつ後悔の念にどんどん肩が重くなる心地を覚えていた。誰が言ってきても驚くに決まっている。
「なんでと言われると、説明が難しいんだけど……」
 暑さと緊張で口の中の粘膜が張りついて、ひどく掠れた声が出た。三井がまだこの場から逃げ出していないのが奇跡だと痛感しつつ、木暮は今まで自分が見つめてきた三井の姿を、目の前にいる彼と重ねながら思い返す。
「最初はただ憧れてて、バスケ部で一緒になってからはずっと大切な同期だと思っていたけど……」
 何も言わずに去っていった三井に何と声をかければ良かったのか二年間ずっと考えていたこと、何も言ってくれなかったことにショックを受けた自分がいたこと、本心ではなかったとしても、三井がバスケを蔑ろにして本気で怒りを覚えたこと。どんな感情をひっくるめても、一緒にまたバスケをやりたい気持ちの大きさには勝てなかった。
 そんな三井が合宿の夜に、まるで内緒話をするみたいに自分を褒めてくれたのが忘れられなかった。本当に嬉しくて、それなのに彼の賞賛を反芻すると涙が目から押し出されそうで彼の方を直視できず、しばらく海の方を眺めていた。
 三井に対してだけ抱いてきた感情が降り積もって、いつしか掻きむしりたいのか押さえつけて整えたいのかもどかしい強さとなって胸の内に存在するようになった。
 このまま宝物を持ち出すように隠しておくこともできたのに、三井の横顔を見ただけであふれて飛び出てしまうくらい育った気持ちに近い名前を持つのは、恋だった。
「ずっと三井を見ていて、気づいたら好きになっていたんだ。そうとしか言えない」
 木暮の持つ言葉ではとても全てを説明しきれず、アバウトで不誠実な理由となってしまった。呆れたり怒ったり、いよいよ嫌悪するかもしれない。しかし、それでも一つの結果だ。木暮は世界の終わりを待つ覚悟で三井の反応を待った。
 三井の手が腕から離れていく。握られたところが軽く痺れて、余計に喪失感を帯びた。とてつもない不安が鎌首をもたげていく。どうして大切な人との関係を壊すようなことをしてしまったのだろう。恐怖が足元から湧いて震える。
「……あぁ、そーかよ」
 三井は――口元を手で覆っていた。しかし、木暮が部室に入ったときは軽く青ざめていた顔色が、今は夏の太陽のように真っ赤になっている。耳も首筋も染まっていて、木暮は意表を突かれた。
「み、三井?」
「うるせー! おめーのせいだかんな!」
 まだ何も言っていないにもかかわらず三井は怒鳴り返すが、顔色のせいで怒りの感情があまり真摯に伝わってこない。今この瞬間まできっと一生引きずるような終わり方をするはずだと悲壮にまみれていたのに、三井の態度は木暮のどの予想にも反していた。
 一方で三井は、きょとんと拍子抜けした木暮を見下ろしながら怒りを覚えていた。どうして告白した本人がそんなに驚いているのか。こちらは心臓の鼓動がけたたましくてならないのに。
「木暮が、そーやって言うから……」
 ずっと、見られていた。こちらが勝手に見放された気になってやさぐれていたときですら。
 思い返せば、声をかけてきたのはいつも木暮の方だった。入部したときも、入院する羽目になったときも、バスケ部を潰すつもりで体育館に行ったときも。木暮は自分を見続け、そして今は自分を好きだとすら伝えているのだ。
 これが恥ずかしくない人間などいない。木暮が危惧していた不快感や嫌悪といった暗い感情は三井の中にはなく、むしろとても手に負えない照れでのぼせそうだった。
「一週間っ」
「は?」
「今から一週間以内には返事すっから! 絶対無視すんなよっ!!」
 勝手に言いつけると、三井は荷物をエナメルバッグへ乱雑に突っ込んで力任せにドアを開く。夏休み最終日、誰もいない廊下に大きな足音がやたら響いた。
 生徒がいないからか、クーラーなんてまともに効いていない校舎は蒸し風呂のようだ。暑さのせいだけではない汗が噴き出てくるが、それを拭いもせずに三井はただ、木暮のことばかり考えていた。彼の伴侶とも呼べるバスケのことなんか、隙間に入ることもできないくらいに。

 衝動的な告白のせいで嫌われないどころか、見たことのない三井の百面相を引き出せただけでも木暮は満足していた。もし彼から返事がなかったとしても、苦い思い出として昇華できそうなくらいには。
 そう心づもりしているつもりでも、三井の返事を待つ一週間はとても気が気ではなかった。そして部活動のない日に彼から体育館の裏に呼び出されて、まさかの肯定の返事を受け取ったのだ。
 「木暮が俺を好きって言うなら」とだけ伝えて歩み寄った三井が手を差し出したから、木暮は信じきれずにおずおずと手を伸ばす。そこから硬い手で握り返されると、身体を引っ張られて肩と肩がぶつかった。
 抱き寄せられたのだと理解するのに数秒を要した。え、と声にならない声が喉から漏れたけれど、三井は背に回す腕の力を強めるばかりだ。
「木暮って細いのな」
 耳元で三井が、感心しているのか呆れているのかいまいち判断がつかない声で呟く。お前とそう変わらないだろ。そう言い返すつもりで抱き締め返すと、自分よりも温かい身体を一番近くで感じられた。
 美しい弧を描き、空中を切り裂く音を鳴らす、木暮がずっと惚れている3Pシュート。それを生み出すのがしなやかな腕であり、いつもより明らかに速いであろう拍動を刻む心臓であり、自分より少し高い位置にある腰からまっすぐ伸びた脚なのだろう。
 それらに直に触れられたとき、木暮は三井もどうか自分と似たような気持ちであればいいのに、と祈らずにいられなかった。お互いの身体が、バスケのために存在してつくりあげられてきたのだ。木暮の胸は息もできないほどいっぱいになる。
「誰かに見られたら、とか考えないのか?」
 自分だって離す気がないのに、木暮が小さく笑ってからかう。てっきり三井は恥ずかしがって何かを言い返すと思ったのに、返事の声音は意外なほどやわらかいうえに、腕の力は一向にゆるまない。
「付き合うってそういうことだろ」
 こうして恋人をハグしたり、手を繋いだり、キスしたり。不良の中に混じって過ごしていたときに下世話なことをたくさん見聞きしたのに、それ以上のことは子どもすぎて三井には想像できなかった。
 よく知った木暮だからこそ、自分なりに彼を大切にしたい。それが三井の中でまとまった結論であり、彼と未来を歩むための指針だった。
「……なぁ、三井、もうあついよ」
 夏休みが明けたからといって、季節がそこで終わったわけではない。蝉もうるさい中、一体どれだけそうしていたのだろう。
 慌てて木暮の身体を離すと、胸から上が見事にのぼせあがっていた。眼鏡越しでも瞳に薄い水の膜が張っているのが分かる。あの、遠い地の海辺で見たきらめきと同じものがそこにあって、三井は一瞬息を呑む。
 からかいというのは困っている相手には全然うまく出てこないもので、三井は真っ赤な木暮を茶化すことなどとてもできなかった。自分が彼と全く同じ色を同じ部分に宿していることにも、最後まで気づかなかった。

「あんときはもっとイチャイチャできると思ってたのによぉ」
「まだ言ってるのか、お前」
 そもそもの単位がギリギリの三井は教師から個別に補修課題を出されている。彼らの「デート」のルーチンの一つが、木暮によるそれらの採点だった。
 三井は最初ひどく嫌がったものの、「俺自身の復習にもなるから」と説けば木暮にも渋々見せるようになった。三井が課題の提出を怠ったことは一度もないはずだが、推薦枠を狙う生徒の態度がこれでよいのか、木暮の溜め息はやまない。
 しかし、三井はこれが不満らしい。勉強に一区切りついたからメニューを開いたものの、肘をついてそっぽを向いてばかりで注文しそうにない。木暮もその気持ちが分かるから、再度彼に伝えてみせる。
「俺だって三井とそういうことしたいって思ってるよ」
「『そういうこと』って何だよ、言ってみろい」
「話の腰を折るな」
 指摘されたのを少し恥じ入りつつ、こほんと咳払いをして続ける。
「三井だって少しは内申あげないと。……少しずつ良くなってるぜ、お前の成績」
 あらかた採点を終えた木暮は、改めて彼の回答を見直す。自分が誤っていなければ、正答率は六割少しだ。一緒に勉強をやり始めた当初より着実に伸びている。最初は空欄ばかりで途中式すらなかったのが遠い昔に感じられた。
 三井の努力がこうして確かに実を結んでいるのを目の当たりにすると、木暮は彼がそこから離れてしまわないようについ必死になってしまう。本当は三井の言うところのデートがしたいのはやまやまだが、恋人としての振る舞いよりももっと大事なものがある気がしてならなかった。
「三井がバスケも勉強も頑張ってると、俺もやる気になるんだ。本当だよ」
 心からの本音なのに、この場で三井の機嫌を取るための白々しい言い訳に聞こえていないか木暮は心配になり、対面の彼へちらりと視線をやる。
 木暮の心配に反して三井は顔に笑みをたたえていた。テーブルに行儀悪く乗せていた肘もおろしている。しかし、どちらかといえばニヤニヤという擬音が似合う笑顔に、木暮は怪訝そうに眉をひそめた。
「な、なんだよ」
「そーだな、『そういうこと』は別に高校卒業後でもできるもんな」
「なっ……!」
「俺、ハンバーグセットのライス大盛り。木暮もさっさと選べって」
 木暮が大きな声で反論を返す前に、三井はささっとメニューをひっくり返して彼の方へ見せた。
 言い返してやりたいことは山ほど浮かんだものの、この場で争ったところで不毛なのは目に見えている。ぐっと腹の底へおさめて木暮はテキスト類を鞄にしまった。
 今そういうことができないのであれば、受験なんてしがらみのない卒業後にすればいい。全くもって三井の言うとおりだ。
 しかしそんな理屈通りに未来は順調に進んでくれるのか。昔の三井だってあんな紆余曲折を経て今に至るなんて思いもしなかっただろう。いろいろな経験を重ねて高校三年生になった木暮ですら、大学はおろか受験というビジョンすら曖昧な輪郭のままなのに。
「カルボナーラの大盛りにする」
 夕食にするメニューを決めて、木暮は呼び出しボタンを押した。言ってから、この先運動の機会なんて減るのだから、食事も控えなければならないと自分を戒めた。

 店を出たあとも、どうやら恋人はまだご機嫌斜めだ。黙りっぱなしの木暮を横目に見つつ、三井は顎を掻く。
 先ほどの応酬が原因なのはさすがに分かっている。木暮にしたいことを、彼もまた自分に対してそういう欲求を覚えていることも。
 この関係を湘北の生徒に見られたくない木暮の気持ちだって、三井は受け入れているつもりだ。この関係が噂となったときに他人にどう言われるのか分かったものではないし、バスケ部の面々に知られたら、三井はいいとしても木暮が居づらくなるかもしれない。
 何より傍から見た自分の評価と木暮がいかに優等生かは知っていたから、この付き合い方に納得はしていた。しかし、そのうえでモヤモヤが募っていく。こうして顔見知りがいないような場所を選んでいるわけだから、手を繋ぐくらいはしても罰は当たらないはずだ。
 隣を歩く彼の手の甲にわざと触れてみる。分かりやすく肩がびくりと跳ねたのが目に入って、次の瞬間には三井はしっかりと木暮の左手を握っていた。
「み、三井!」
「誰もいねぇだろ」
 陽がすっかり沈んだ時間だからか、学生と思しき者どころかサラリーマンすら一人すれ違ったかくらいだ。駅から少し離れているせいで寂しい印象の漂うこの場所は、街灯すら二人の手の結び目を照らしきれていない。
 自分たちを見ている人間、特に学生がいないか今一度きょろきょろと辺りを見渡した木暮はようやくおずおずと手を握り返した。
「手汗すごいな」
「うるさい」
 空いている手で肩を強めに叩かれて、三井は顔をしかめた。
 三井の方から手を繋ぐのはこれが初めてではない。人目を盗んでは、木暮と少しでも恋人同士として過ごしたくて触れ合いを求めた。そのたびに木暮は、こうして夜でも目に見えて分かるくらい顔を真っ赤にさせて握り返してくる。
 思い通りに振る舞えていれば、この仕草だって初心なものだと可愛く思えただろうか。確かに照れる木暮はいじらしいけれど、こうして手のひらを重ねるたびに三井の中でどんどん欲はふくらんでいく。
 ――先ほど、卒業後にたくさん恋人同士の行いをすればいいと伝えたところ、木暮から結局返事をもらえなかったのが不服だった。
 たった一度、木暮が「ああ」と頷きさえすればこの話はファミレスで終わったはずなのに、木暮はそうしなかった。
 だから、三井の中に木暮とやりたいことがどんどん増えて大きくなっていくのだ。卒業後でなければ、自分はいつ相手に触れていいのだ、と。
 この間柄で、本当はいちいち許可取りなんてしたくない。でも、木暮が傷ついて自分に塞ぎこんでしまうのはもっと嫌だ。
「木暮」
「っ!?」
 ふと道の脇、ビルとビル同士のやや広めの隙間を見つけた。三井は木暮の手をそのまま引っ張り、深い闇が広がるそこへ突き進んでいく。
 急に方向を変えた三井に驚いた木暮はつんのめりそうになりながらもなんとか姿勢を正す。奥に進んでいくと、ほとんど真っ暗で足元とお互いの姿くらいしか見えない。夏の終わりを一層冷やしたような空気が漂っていて、半袖では肌寒さを覚えた。
「急に何だ――」
 問う前に木暮の身体はぐい、と強い力で引っ張られて三井と重なった。彼の片腕が腰近くに回って、慣れない感触にびくりと身体が大げさに跳ねる。木暮の反応を押さえるように、三井が腕に力を籠めた。
「三井」
「誰もいねぇって」
 ここなら誰かが来ることだってないだろ。言外にそう含んで、三井は木暮の肩に顔をうずめる。
 制汗剤と石鹸と、木暮自身の匂いが鼻をくすぐった。初めて間近で感じる恋人の香りに、三井はたまらず目をきつく閉じた。こんなにいいものなら、もっと早く味わっておけばよかった。理想を言えば、こんな暗い路地ではない場所が良かったけれど。
 急に自分を強く抱き締めるものだから、木暮は今にものぼせそうだった。確かに「そういうこと」をしたいと伝えたが、こんなに早く実行に移されると思考がまるでついていかない。「思い立ったが吉日」を具現化したような三井へ呆気に取られつつ、告白の返事を受けた人はまた意味合いの違う抱擁に酔いしれそうになった。
 木暮が慎重に、壊れ物に触るみたいに三井の背に腕を回す。自分よりも少し広い背中を手のひらでさすれば、きれいな稜線を描く肩甲骨に触れることができた。路地に入ったときに感じた肌寒さなんてたちまち溶けてなくなっていく。
「……なんか」
 言いかけて、間抜けな感想だと思いやはり口を噤む。しかし、耳ざとく拾った三井が「何だよ」と尋ねた。普段と違って小さく掠れそうな三井の声に色気を感じて、木暮は下唇をぐっと噛んで堪える。
 一度深呼吸をしたあと、木暮は三井の首筋に熱い頬をすり寄せた。
「こういうふうに好きな人とくっつくのっていいな」
 恋い慕う人間と二人でしかできない触れ合いが、苦しいほど胸を打って、勉強を優先しなければならないという固い誓いがたやすく瓦解しそうになる。
 それでも、今だけはいいか――心を縛っていたものがどんどんほどけていく。彼に対して甘すぎると罰したい自我と、いつも三井を許してあげたいという優しさがぶつかり合って葛藤が生まれるけれど、それすらこの甘いひとときに押さえつけられる。
 感じ入るように呟いた木暮に、三井は小さく溜め息をついた。今、自分がどんな声音で何を言っているのか、彼は本当に分かっているのか。
 ほんの少しだけ身体を離して木暮の頬に手を添えると、彼の温度が手のひらに燃え移る。そこから心臓に熱が運ばれて、ますます心拍が激しくなった。
 これから三井が何をしたいのか、こういった経験がほとんどない木暮にも分かる。見開いた目で彼を見上げ、誰かがいないかつい振り返りそうになるのを、三井が両手で頬を挟んで制した。
「こっち見ろ」
 目を閉じた次の瞬間には、二人の身体の中で一番やわらかな部分が重なる。
 眼鏡のブリッジがカチ、と硬い音を立てたけれど、二人ともそれどころではなかった。息すらきちんとできない。全身の細胞が一つ残さず、お互いを感じるために集中していた。
 ――このまま、何秒経っただろう。肺が限界を迎えた木暮は三井の背中をバシバシと叩いた。遠慮ない痛みに眉間に皴を寄せつつ、後ろ髪を引かれる思いで顔を離すと、息を荒げて涙を目に浮かべた木暮が自分の唇に触れている。
「し、死ぬかと思った……」
 表に出せないような邪な気持ちで今の木暮を目に焼きつけつつ、もう一度したいままに三井は口づけようとするが「わー!」と大声を出した彼に手で阻まれてしまった。
 思わず舌打ちするが、木暮は額に汗を浮かべて縋るように三井のシャツの胸元を掴む。
「ちょ、ちょっと、俺もう限界で……」
 部活動でも見たことのないほどのしおれた態度に、もっと突っついて泣かせたらどうなるのか、黒くて悪い気持ちが顔を覗かせる。
「……しょうがねーな」
 しかし、木暮と付き合うときに決めた「できる限り優しくする」思いを寸でのところで思い出し、三井は仕方なく彼を開放した。いつ続きができるかをさっそく脳裏に描きながら。
 もうすぐ制服を冬服へ切り替える時期にもなるというのに、火が噴き出そうなほど身体が熱い。木暮は襟元をぱたぱたと仰ぎつつ、空いた手でまた唇を触った。少しかさついた三井の唇の感触がいつまでも残っているようで落ち着かない。
「も、もう出ようか。早く帰らないと」
「へいへい」
 促されるままに三井は木暮と共に元の道に帰ってきた。幸いにも歩行者はいなかったものの、木暮は日焼けしたように赤い。誰にも見られなくてよかったと、三井は彼を思って安堵した。
 熱くなった頬を涼しい夜風が撫でていくのがちょうどいい。本当はもう一度手を繋ぎたかったものの、今の木暮は傍目に見ても余裕がなさすぎて、触ったら音を立てて破れてしまいそうである。
 しかし、手が繋げなくても三井の胸中は意外なほど穏やかだった。したいと思っていたことの一つが今日できたのと、こうして自分に対して照れて慌てる木暮はとても可愛く、気分がいい。今なら木暮のお説教でも何でも甘んじて受け入れられる気がした。
「デート」
「え」
「デートしようぜ。制服じゃない服着て、ファミレスじゃねえ場所で」
 一度唇を合わせただけではとても満足しきれない。それどころか、あれもしたいしこれもしたいと飢餓感のような欲はますますふくらむ。
 「卒業後」なんて自分で口にしたけれど、そこまでとても我慢できそうもない。せめてデートくらいは付き合ってもらわないと三井としては困るのだ。
「どうせ学校もそのうちあんま来なくなっちまうしさ」
 大学受験を控えた三年生は、年明けから自由登校期間となる。そうなれば学校で会うことも難しくなる。
 年内にある学校行事もそうだ。運動会は別々のクラスだし、三年生は文化祭には自由参加となっているが、その頃には三井もウィンターカップに向けて本腰を入れて練習に打ち込み、学校どころではないかもしれない。
 だったら、学校の外で木暮と思う存分会いたい。「湘北の生徒」「部活の同期」なんて肩書きよりも前に「恋人」が来てほしい。
 二年間もすれ違ったままだったのだ。その空白を学生のうちに埋めてしまいたいのは、木暮からそんなに叱られなければならない心情だろうか。
「……来週、小テストあるだろ。その成績が良かったらな」
「げっ、嫌なこと思い出させんなよ」
「お前、忘れてたのか!」
 学校の話題で軽口を叩き合う学生二人は、誰がどう見ても青春を謳歌するただの生徒たちだった。二人の関係を知っているのはお互いと、空に浮かぶ雲隠れの月くらいだった。
 夏がもう少しで終わる。夜風が熱を冷ますと、カーディガンが欲しくなる。木暮は腕をさすりつつ、隣を歩く恋人へ声をかける。
「もう夜は肌寒いくらいだよな」
「そうか? まだ半袖でも余裕だろ」
 そう返した瞬間、三井が豪快なくしゃみをしたものだから、あまりのタイミングの良さに木暮はつい声を出して笑った。
 「たまたまだろ!」とムキになって怒鳴る三井の耳のふちが赤いのが可愛くて、つい気がゆるんで笑い続ける。

 今の時間は確かに幸せな恋人同士の時間だった。だから、今の時間が続けばいいのになんて、甘くて悲しい願いがふっと浮かんですぐに消えた。