『Near the Thunder Ⅰ』 - 1/2

『ひすい色の朝』

 目の前が若葉みたいに優しい緑色に染まった。その光に導かれるようにオレは瞼を開ける。
 夜勤がなくて常識的な時間に眠りに就けた日は、こうやって一発で目が覚めることが増えた。春が近づくにつれて暖かくなって、起きるのがあまり苦痛じゃないからかも。ばっちり七時間睡眠を取った身体を起こしてカーテンを開ける。
 窓から差し込む陽が一気に入り込んだ。でも、夏ほど強い印象は受けない。今日は朝からいい天気だ。昨日は午前中だけ雨が降ったから、晴れ間を見るとやっぱり気分がいい。
「今日は春キャベツのスープだよぉ」
 鳴る前だったスマホのアラームを解除して、裸足のまま部屋を出る。献立を口にしながらペタペタと歩くけど、恭ちゃんはまだまだ起きそうにない。
 優秀すぎる彼の、数少ない弱点が朝。すやすやと健やかに寝ているところを想像するだけで頬が勝手にゆるむ。オレの一番の弱点は恭ちゃんだ。
 洗顔とヘアセット(という名の傷みまくった髪をほどく作業)を済ませてキッチンに立つ。冷蔵庫を開けると丸々としていて、でも抱えると空気みたいに軽い春キャベツがその場を支配していた。
 一玉百円で売られていたのにテンションが上がりきってしまい、謎の達成感でいっぱいになったのはいいけど、そんな気分が続いたのも帰って冷蔵庫を開けるまでだった。二人で食べきるからいいけど、やっぱり開けるたびにキャベツとご対面するのはじわじわくる。一玉というのは意外なほど大きく、他の食材は所狭しと詰められていた。
 キャベツとウィンナー、卵を取り出して調理スペースに置く。ザルを用意してキャベツをべりべり剥がしていく。これくらいの作業なら、左手の調子がどんなに悪くてもできるから、千切る作業が中心の料理は好きだった。
 ジャキジャキ、ザクザクとキャベツを剥いては千切っていく音が流れるだけの時間。テレビも点いていないと、新しい部屋のリビングは不思議なほど静かだった。前の家は駅にも近くて、たまに路面工事もしていたから、人の多いところ特有の生活音があったのかもしれない。

 同じ県内だけど、海からもっと離れた駅から徒歩十分ちょいのアパート。陽当たりのいい三階で、前住んでいた高層マンションからずいぶん地面が近くなった。前と同じ2LDKだけど、お風呂と洗面所、そしてオレの部屋は前よりけっこう狭くなった。そして、ベランダから受ける風が前よりも好き。
 狭い方の部屋でいいのか、自分がそっちに行こうか、って恭ちゃんは何度も確認してくれて、「恭ちゃんと一緒にいられるならオレは犬小屋でもいい」とふざけて返したら(半分本気だけど)「そんなこと言うな」なんて怒られた。
「はあぁ」
 間抜けな溜め息が知らずうちに出た。この部屋に引っ越してきてからの出来事は、あまりにも鮮やかな色を帯びていて、思い出すたびに記憶に見とれる。
 うっかり手の中のキャベツを蟻みたいな大きさになるまで細かくしても、心が浮足立って罪悪感すら湧かないからマジでヤバい。
 料理中によく恭ちゃんのことを思い出してニヤニヤしてしまう、と本人に伝えたらちょっと不気味がられたけど、こればかりは当分直せそうにない。この部屋に来たばかりのこととか、昨日冷蔵庫を開けてキャベツにビックリしていた恭ちゃんとか、今も勝手に頭が思い出してしまうんだ。
 さまざまな大きさの欠片になったキャベツをザルで洗って、ウィンナー用にまな板と包丁を用意する。さすがに包丁を扱うときはそっちに集中するけど、用が済んだらあっという間に思考は好きな人の元へ飛んでいく。
 水を張った鍋に火をかけて沸騰を待つ。何かしていないと落ち着かないところがオレにはあって、左手が思うように動かなくなってからそれが顕著になった。
 多分、何かをしていないと居心地の悪さを勝手に感じ取っていたからだと思う。手の器用さだけを売りにしていたのに、それすら失くして、じゃあ今のオレは何ならできるわけ、ってずっと思っていた。だからシフトもちょっと無理して詰め込んで、家事もできるものは全部やってあげたかった。
 忙しい恭ちゃんのために何でもしてあげたい気持ちは今でも変わっていない。だけど、こうして恭ちゃんのことや今日のこと、昨日のことなんかをあてもなく考えながらぼんやり過ごす時間が、今ではとても心地いい。
 自分の居場所を見つけるためにフル稼働していた頭が、こういう隙間時間で少しずつ落ち着いてくる。こういうとき、オレはいつも同じ結論に行きつくんだ。
 ――あぁ、オレ今世界一幸せ者だって。
「……はよう」
「おはよう、恭ちゃん。今日は早起きだね」
 ずるずる引きずるような足音、そして掠れた声と共に恭ちゃんが起きてきた。とても眠そうで、眉間に皴がくっきりと刻まれているし、頭はボサボサだ。
 ここ数日、恭ちゃんは寝起きがいつにも増してしんどそうだ。その割には予定より早く起きることが多くて、それだけ新しいお仕事に気を張っているのだと思う。
「寝ぐせすごいことになってんぜ。顔洗ってきな」
「ん……」
 律儀にキッチンへ顔を出して挨拶してくれた恭ちゃんに、いつものことなのに毎度胸をときめかせつつ洗面台へ向かわせた。
 ぐつぐつと煮えてきた鍋にキャベツとウィンナーを入れて、もう一度煮立ったタイミングでコンソメキューブを入れて弱火で蓋。想像していたよりカサが減らなかった具材を見て「しまった」と思ったけど、オレが食べれば問題ないだろう。
 食パンを取り出してトースターに突っ込む。スープと食パンが準備中の間はコーヒーを用意。恭ちゃんが起きて、いつも通りの朝がやってきた。
 ヨーグルトもカップ皿によそって、あとはメインができるのを待つだけといったところで、洗面台から恭ちゃんの溜め息が聞こえたのを耳ざとく拾う。
「どした?」
「寝ぐせが……いつもより頑固で……」
 恭ちゃんはものすごく真面目な顔で鏡と向き合いながら、ブラシで跳ねたところを一生懸命梳いていた。眼鏡は洗面台の傍らに置いたままで、視力の悪さも相まって恭ちゃんらしからぬ凶悪な顔つきで寝ぐせと格闘している。
 なんでこんな可愛いんだ!? とビックリしつつも吹いてしまい、彼の手に握られていたブラシを取り上げた。
「オレの寝ぐせ直し使っていいって言ってるじゃん」
「うーん、この前つけすぎちゃってペッタリしたんだよな」
「ワンプッシュくらいでいいんだよ」
 髪の根元に寝ぐせ直しのミストを吹きかけて、ドライヤーのスイッチをオンにする。左手のみだとその動作ができなくていちいち持ち替えなきゃいけないけど、恭ちゃんは辛抱強く待ってくれる。
 温風を当ててブラシでゆっくり梳く。恭ちゃんの黒々とした髪はオレのより硬くて短い。でも傷んでないから途中でブツブツ切れたりしないし、こうやって手入れしたらツヤツヤになるのもすごくいい。
「ほら、直った」
「ありがとう、渚。しかしいい大人にもなって髪をセットしてもらうとは……」
 居心地悪そうに振り向いた恭ちゃんにもう我慢できなくなって、少し赤くなったほっぺに軽くキスをした。
「うわっ渚! 馬鹿、からかうなよっ」
「からかってない、大好きなだけ」
 さらに真っ赤になった恭ちゃんにもっと愛を囁いてみせたかったけど、鍋に火を点けっぱなしなのをしっかり覚えていたので、これ以上恭ちゃんに怒られちゃう前にオレはキッチンに戻った。
 弱火でとろとろ煮られている鍋から湯気が立って、キッチンはコンソメのいい匂いでいっぱいだ。蓋を持ち上げれば透き通ったキャベツがくたくたに重なっていた。
 あとは溶き卵を入れるだけ。卵を割るのにもさすがにちょっとは慣れてきた。とろっとした黄色い糸が鍋に垂れて渦を巻く。
「うまそう」
 何てことのない料理だけど、目の前で見ていれば勝手にお腹が空く。できたてのスープをよそっていると、ヘアセットを終えた恭ちゃんがまだちょっと顔を赤くしながらおずおずと出てきた。
「ほら、メシできた。恭ちゃんも手伝って」
「……うん」
「あはは、さっきはごめんって」
「俺も怒ってはない」
 そう小さな早口で答えて、恭ちゃんはこんがり焼けたトーストをお皿に乗せて運んでいった。後ろから覗く耳のふちがほんのりピンクだから、申し訳ない気持ちとやっぱり可愛いと思わずにいられない罪悪感を胸の内で噛み締めた。
 テーブルに二人分のトーストとスープにヨーグルト。恭ちゃんはホットコーヒーでオレは冷たい麦茶。燦々と気持ちいい陽射しが差し込むリビングで、二人同時に手を合わす。
「いただきます」
 スープをスプーンで掬うと大量のキャベツが乗っかる。口に入れれば熱くてやわらかな甘みがいっぱいに広がった。
「今日の朝ご飯、豪華だな。具だくさん」
「キャベツ入れすぎただけだから、そう言われるとハズくなってくる……」
「おいしいよ」
 恭ちゃんはいつもそう伝えてくれるし、オレは恭ちゃんにお礼を言われるのも、そういう律儀な性格も大好きだ。唇が吊り上がるままにオレはニヤニヤした。もう嬉しいのを隠さなくたっていいからとても気が楽だった。
「あ、そうだ。テレビ」
 春の陽射しを浴びながら手作りの朝食を口にする時間が心地よすぎて、いつもは流しっぱなしにしているテレビの存在をしばらく忘れていた。
 リモコンで画面を点けると、女性アナウンサーが今流行っているらしい化粧品のレポートをしている。左上に浮かぶ天気マークはピカピカの太陽だ。折りたたみ傘は置いてっていいんじゃない? そう言おうととすると、恭ちゃんが画面を食い入るように見つめていた。
「恭ちゃん?」
「ん、何?」
「あぁそっか。お化粧が恭ちゃんの仕事だもんね」
「正確に言えば、化粧品になる材料を売るのが仕事だな」
 一週間前から恭ちゃんは新しい職場で働きだした。前みたいな機材ではなく、今度は化学メーカーだ。
 前の仕事はオレ自身の経験上ちょっとは知識があったけど、化学と来れば話を聞いてもさっぱり分からない。それは恭ちゃんも同じはずなのだが、今までの営業経験と頭の良さを買われて見事に内定をもらい、新しい世界に勇気を持って飛び込んだ。
「穂乃果の持っているメイクの成分が分かるようになってきたよ」
「ホノカちゃんは何て?」
「『じゃあ兄ちゃんのいいと思うやつ買って』って毎日メッセージ来るよ」
「さすがの強気」
 恭ちゃんと性格が似ても似つかない妹さんは、この春から大学生だ。お化粧やオシャレが楽しくてしょうがないだろう。さらに理系とのことで、化学自体はホノカちゃんの方が数倍できるらしい。
 「いつか穂乃果に質問する日が来るかも」と恭ちゃんは軽く項垂れていたが、新しい知識を勉強することに対してはとても積極的で、オレは知り合ってから彼がずっと優等生である事実を現在も噛み締めている。
「……やっぱり疲れてる? 今日も目覚まし鳴る前に起きたよね」
「うーん。再来週には新入社員も来るから比較されそうで……」
「あ、そっか」
 壁にかけているカレンダーを見れば四月はもう目前だ。
 ただでさえ転職活動や引っ越しで疲れているからか、恭ちゃんは以前ほど弱音を隠さなくなった。それが嬉しいし、できることはめいっぱいしてあげたい。とりあえず今できることとして、オレはスープに浮かんでいたウィンナーを何個かスプーンで掬って恭ちゃんのお皿に移した。
「あはは、ありがとう。渚は優しいな」
「オレの優しさは恭ちゃん限定。なぁ、オレにできることがあったら何でも言ってね? 外食したいって言うなら付き合うし、勉強したり爆睡したいならその辺でいくらでも時間潰してくるよ」
「いや、うん……ありがとう」
 なぜかまた顔を赤くさせた恭ちゃんはウィンナーがたくさん浮いたスープに視線を落としつつ、ちょっとだけ唇を噛む。そこからボソッと小さな声をこぼした。
「でも渚が側にいるだけで安心するんだ、俺」
「死ぬまで一緒だから!!」
「デカい声出すな!」
 思わず身を乗り出せば、顔も耳もついに真っ赤になった恭ちゃんにまたしても叱られた。オレはマジで返事してるし、そう誓っているんだけどなぁ。

「いってらっしゃい」
「いってきます。渚も今日は夜勤だろ? 気をつけて」
「ありがと。恭ちゃん大好き」
「またそうやって……、知ってる」
 照れてぷい、と向けられた背をドアが閉じるまで見送った。このまま浮かれて宙を歩きそうな足をなんとか地につけるべく一度しっかり呼吸をする。
 さて。一人になるとめちゃくちゃ静かに感じるリビングに戻って、一度大きく伸びをした。今日は洗濯物を干して、昼飯をつくってちょっとのんびりしたら夜勤バイトの交通整備に出る。
 恭ちゃんと結ばれてから毎日が優しくて穏やかそのものだ。――そう、オレは。
 転職に引っ越しに勉強と、恭ちゃんは下手すると今は前の仕事より忙しそうだ。悲しいかな、フリーターのオレは転職活動なんてのもないから、変化は新生活と銘打つレベルに達していない気がする。
「何しようかなぁ」
 今現在ではなく、仕事について考えながらついそんな独り言がこぼれた。キッチンに戻り、洗うつもりの皿を試しに左手だけで掴むけど、指先は細かく震えるし力の入れ加減もうまく調節できない。
 この手でもできることを探したい。パソコンのキーボードは今でも死ぬほど遅いけど、練習すれば多少はマシになるだろうか。部品加工は無理でも、パーツとパーツを組み合わせるだけなら? いろいろ考える中で湧く感情は焦りではなく、恭ちゃんへの心配と「もっとできることを増やしたい」という欲だった。
 左手がもう元通りにならないと分かったとき、働いていた工場は「事務もやらないか」と提案したのがずっと頭の中に残っていた。当時はみんなが物造りに励んでいる横でパソコン作業なんて死んでも嫌で、「手に職」というものを失った絶望に打ちひしがれていた。
 でも今は、身につけた技術を扱えなくなった悲しさや悔しさよりも、恭ちゃんのためにできることを増やしたい。
 パソコンが今より扱えるようになれば、別に工場の近くにいかなくたって済むから、まずはITスキルとやらを最低限身につければいいのかな、なんて考えたりする。
 事故が起こる前の日々から完全に吹っ切れたわけじゃない。あんなことがなければ、左手が今でも自由に動かせていたら、ってきっと一生考えてしまうし、いつまで経ってもつらいものはつらい。
 しかし、愛の力は強いのだ。恭ちゃんを思えばそれまで避けていたことを克服したい勇気も湧いてくる。それに、恋人が横で大変な思いをしているのに、自分がいつまでもそのままでじっとしていられるはずがない。
 できることが増えれば今より稼げるし、割のいい仕事に就けば家にいる時間も増やせるだろう。そうなれば恭ちゃんのためにできる選択肢だって多くなる。
 絶対にそんなトントン拍子に事が運ぶわけがないが、人生の半分くらい恭ちゃんに片思いしてきたオレの辛抱強さを信じたい。
「あー、幸せ」
 ――家事を粛々とこなして、洗濯機の蓋を閉じたときに、そんな独り言がついこぼれた。
 好きな人と一緒に暮らしながら、自分の未来を考える。こんな現実がオレに来るなんて今でも夢見心地だけれど、これを一時の夢で終わらせないために、オレも行動すべきなのだ。
「職安行くかなぁ」
 派遣や単発の仕事はいつもスマホで探しているけど、もっと実用的な話は人に頼らざるをえない。かつて職安へ相談しに行った工場の先輩が職員の対応にブチギレた話を昔聞いたことがあったけど、うん、オレの辛抱強さを信じよう。
 新しい会社で、全く新しいことを勉強しながら頑張る恭ちゃんを見習って、オレも何か挑戦しよう。彼に見合う男になりたいってのもあるし、何よりよりよい二人の未来のために。

 過去に囚われて苦しんでいるオレを近くで見てきた恭ちゃんも、オレのすさまじい心変わりっぷりに喜んでくれるに違いない。
 オレ、マジでいろいろ頑張ろう。頑張りたいし!