思い出にできそうもない - 3/4

Ⅲ-秋冷のゆううつ

「公延、すごいのね」
 教室を出て開口一番、木暮の母が感心したように呟いた。
「何が?」
「さっき先生も褒めてらしたじゃない。夏休み明けからさらに成績が良くなったって」
「あぁ……」
 母の弾んだ声音に、木暮は気恥ずかしさを覚えてこめかみを掻く。三者面談は教室の前に次の親子が座って待つことになっているが、木暮親子はかなり早めに終わったからか廊下には誰もいなかった。
 ――担任は、普段から上位にいる木暮の成績がますます右肩上がりになっていること、そしてバスケ部が初めてIHに行ったことに触れて、「このまま身体に気をつけて勉強に集中し続けるように」という抽象的なアドバイスで面談を閉じた。「ペースを崩さず無理をしなければ、進路に関して問題ないはずだ」とも。
 息子から学校のことをよく聞くため普段の様子は大方把握していたが、こうも担任に褒めてもらえると木暮の母は鼻が高く、とても機嫌良く学校を後にできそうだった。
「それでも赤木にはかなわないんだ」
 バスケがしたいあまり成績に少し影響が出ているようだが、そんな野暮な事実は伏せて母にそう伝えると、「赤木くんに、またうちにいらっしゃいと伝えてね」と微笑んでくれた。
「お母さんは買い物してから帰るけど、公延は?」
「俺はバスケ部をちょっと覗いてから帰るよ」
「あら、久しぶりね。せっかくだし身体を動かしていけば?」
 何気ない母の言葉に、木暮は曖昧に笑って頷く。確かに最後にバスケ部へ寄ったのは十月の頭、もう一カ月近く前になる。
 受験勉強が最優先であるのが大きな理由だが、自分の身体がどんどんバスケ用の肉体ではなくなってきているのを痛感して以降、なんだか足が遠のいてしまっていた。十月に寄った際に後輩の1on1に付き合い、たくさん抜かれた上に後日ひどい筋肉痛に見舞われたのをよく覚えている。
 しかし、今日は三者面談で担任から太鼓判をもらったのだ。今日くらい大好きなバスケの側にいたい、と木暮は自分の中に許しをつける。
「夜ご飯前には帰るよ」
「そう?三井くんや後輩のみんなとご飯に行ってもいいのよ?」
「いや、あいつらきっとウィンターカップの練習でそれどころじゃないから」
 昇降口で母と別れ、木暮はそのまま体育館に向かう。行く道の途中、校舎脇に生えている木々の葉がすっかり色づいて散らばり、地面を染めているのを見た。
 夕陽が景色全体を橙色に包んでいて、その中に浸ると、自分はまだ在校生だというのに不思議な郷愁を覚える。もうすっかり秋も熟して、あとは枯れていくだけだろう。三年生になってから時間の流れがとても早く感じていた。
 体育館の入口に近づくと、バッシュと床が擦れる小気味良い音が耳を打つ。とうに部活は始まっている時間だから、金属製の引き戸は閉じられていた。そこを開けるのにほんの少しの緊張を覚えつつ、木暮は気を取り直す。何を緊張している、と自分を叱咤しながら。
 ――扉を開けると、各自練習に励んでいた部員たちの動きがピタッと止まる。視線が一斉にこちらへ刺さって木暮は思わず身構えたが、練習中にもかかわらず後輩たちが一気に木暮のもとへ押し寄せた。
「木暮さん! 久しぶりッス」
「メガネくん!!」
 ひときわ大きな声をあげた桜木が部員の群れを掻き分けて木暮に思い切り抱き着いた。骨が軋むくらいの力に「いてて」と呻きつつ、木暮は笑みを浮かべて桜木の背中を優しく、とてもやわらかいものに触れるほどの力でさする。
「桜木、調子はどうだ?」
「ふふふ、大天才はいつでも絶好調だ」
 がばっと身体を起こした桜木を、木暮は目を細めて眩しいものを見る顔で見上げる。夏に思い切って坊主にしたところから少し髪が伸びた桜木は、最近バスケ部へ帰ってきたばかりだ。
 勘もテクニックも抜けてしまい、また依然として用心が必要な背中だから、とても試合に出られる状態ではない。しかし本人は入部当初あれだけ嫌がっていた基礎練習にとても真剣に取り組んでいるようだった。
 赤木と同じように、木暮も彼のことを湘北のバスケ部になくてはならない天才だと信じていた。その復帰に、改めて胸が打たれて熱くなる。彼がここへ戻ってこられた理由は、病院の手厚いサポートもそうだが、彼自身の生命力に裏打ちされている気がしていた。
「ほら、さっさと練習に戻る!」
「悪いな、宮城。急に来て」
「全然。それより一年の練習でも見てくださいよ。やることが多すぎて身体がいくらあっても足りねー」
 キャプテンがすっかり板についた宮城が汗を拭いつつ、「休まない!」と叱責しながらコートへ戻っていく。ウィンターカップに向けてますます気合いが入っているようで、体格こそ違えどもその質実剛健ぶりは赤木を彷彿とさせた。
 先ほどまで満面の笑みで迎えてくれた後輩たちも、あっという間に試合然とした表情で3on3や基礎トレーニングに戻っていった。そんな中、桜木は木暮の肩を組みながら、シュート練に打ち込んでいる人物を指さす。
「それによぉ、ミッチーが意外と面倒見いいんだ」
「三井が?」
 桜木の指した方を辿ると、三井がスリーポイントラインからまさにシュートを打った瞬間だった。
 きれいな弧を描き、予定調和のようにゴールへ入っていく。離れた場所にいるのに、シュートが決まったときのあの音がここまで届いている錯覚に陥って、木暮は目が離せなくなる。
「背中に効くストレッチとかわざわざ教えてくれんだぜ! ミッチーのくせにケナゲだよな」
 本人不在の中でからかうように笑うが、桜木が馬鹿にしているわけでは決してないのは、その横顔を見上げればよく分かった。
 ――勝手に速くなっていくこの心臓が、桜木に伝わらないといい。どくん、どくん。周りの音なんて聞こえなくなりそうだ。平静を取り繕いたいのに、目は全く三井から離せない。
 左膝には見慣れたサポーターが彼の脚を守っている。以前は壊れたそこがすっかり癒えると、MVPと呼ばれた過去をさらに打ち破るくらいの精度と美しさでシュートを打つ支えとして機能した。
 彼もまた、怪我という絶望から帰ってきた男として桜木に道を示している。そんなシーンを目の当たりにして、三井にかつて抱いていた、奇跡を信じるみたいな無垢な気持ちがよみがえってくるようだった。木暮はこみあげる気持ちを堪えるために下唇をぎゅう、と強く噛む。
「む、メガネくん。腹でも痛いのか?」
「い、いや何でもない、大丈夫だ……」
「それなら俺と一緒にバスケ――」
「桜木! お前はアヤちゃんとドリブル練!」
 いつまで経っても戻ってこない桜木に宮城がとうとう怒鳴り声をあげた。その迫力に全く臆することなく唇を尖らせただけの桜木は渋々彩子のもとへ駆けて行った。
「木暮さん、アイツのこと特に見ててくれねぇ? 集中するのはいいんだけど試合やりたがってたまにソワソワしてんだよな」
「ハハ、桜木らしいな」
「あとヤスに『アメのあげ方』ってやつを教えてやってください」
 好戦的に片眉を吊り上げて宮城は笑った。副主将の安田に対して、どうやら自分が「ムチ」の自覚は大いにあるらしい。赤木に引けを取らぬこの宮城の厳しさでは、安田もさぞかし苦労していることだろう。木暮は苦笑しつつ、体育館の端に寄ってみんなの様子を見守ることにした。

 時折パスを出したりするのにアシストを頼まれたものの、それ以外は木暮の出る幕がほとんどないくらい、湘北バスケ部の新世代はウィンターカップに向けて切磋琢磨していた。宮城に特に目をかけるように言われた桜木も、そんなこと杞憂にすぎないほど彩子のもとでドリブルに打ち込んでいる。
 みんなを見ているはずだったが、木暮の視線はどうしても三井のいる方へ吸い寄せられる。先ほど宮城に聞いたところ、シュート練習は筋トレと有酸素運動である程度体力を削ったあとに取り組んでいるらしい。今は流川をディフェンスに実戦を想定したシチュエーションでシュート練をしていた。
 途中、ボールをスティールした流川がぼそりと何かを呟いたらしく、ムキになった三井がギャーギャー言い返した。聞く耳持たずにそっぽを向く流川も、木暮が引退する前と何一つ変わらない。
 やれやれと思いながら木暮が見守っていると、気を取り直したのか1on1を再開した。一年にしてエースの名をものにした流川のしなやかで隙のないプレイは三井を翻弄するが、決して一方的ではない。三井は常にシュートチャンスを窺っており、流川も一瞬の油断もできない状態だ。
 ――バチバチと火花が散りそうな一触即発の二人を、木暮は観客席にいるような気分で眺めていた。
 現役のときですらあの二人には敵わないばかりだったのだ、今の自分ではあの二人の練習に付き合えるかどうかも怪しい。だからこそ、木暮は外野から心置きなく見ていられた。
 すごいな、三井は。あの流川相手に一歩も引けを取らない。基礎練習で自分を追い込んだ上で、あのプレイができているんだ。
 中学三年生のときに三井を観客席から見たときの、あの計り知れない憧れ。土壇場から勝利を掴むスーパースター。他校に広く名を馳せるだけの実力を持った、祝福された選手。
 三井と一緒にバスケをして、同じ夢を目指したことはとても貴重だったのだ。木暮は改めて思い知る。
 バスケに関して新たな目標に向かっている三井を見ていると、現在進行形で彼が思い出になってしまいそうだった。「あのときはすごく楽しかった」と語るばかりで、あとは自分の手でどうにか大切にするだけの。
 この場所は、彼の立つバスケコートからやたら遠く感じるから、木暮は目を細めて三井を追う。自分にとってとても特別な存在は、どうしてこうも光り輝いて自分の瞳に映るのだろう。

 分かっていたことだったが、いざこうして振り返ると、一緒に過ごすようになってから別々の進路を歩むまでの道のりがあまりにも短すぎる。
「三井」
 木暮は吐息に近いくらいの大きさでそう呟くが、向こうの彼にもちろん届くはずもなかった。

 秋が終わりを迎えて冬の冷たさへと移りゆく前、何かを残すみたいに冷たい雨が仄暗く分厚い雲から降り注ぐ。
 それを三井の部屋の窓越しに覗いていると、部屋から飲み物を持ってきた三井が木暮の隣に並んだ。
「ほら」
「ありがとう。雨、やっぱ一日中降るのかな」
「どこの天気予報見てもそう言ってっけど」
「しばらくずっと晴れか曇りだったのに」
 三井からマグカップを受け取る。紅茶の温かさが手にじんわり伝わって、木暮はなんだかほっとして身体の力を抜いた。彼の家にある茶葉やティーバッグはどうやらとてもいいものらしく、三井が「テキトーに淹れた」と言ってもいつもおいしかった。
 そのまま窓から目を離し、木暮はいつも彼と一緒に教科書やノートを広げているローテーブルにマグカップを置いた。今日も一応、勉強道具はひと通り持ってきていた。じつは朝起きたときからそんな気分になれなかったのだが、崩れそうでも体裁は守らなければならない。
 三井が対面に座り、そのままいつものように鞄から教材を出すかと思いきや、一枚のくしゃくしゃの紙を取り出して木暮の前に差し出した。
「ほら、見てみろい」
「これ……」
 得意げににんまり笑ってみせるから、木暮は何かと思い顔を近づける。
 それは二週間ほど前に行われた中間試験の結果が記された紙だった。全ての回答用紙を返し終えたあと担任から渡されるそれは、ご丁寧に前回の成績も併せて掲載されている。
 各教科の前回の数字と見比べると赤点がないどころか、三井の成績は全体的にかなり伸びているようだ。優等生の赤木や木暮の足元にはまだまだ及ばないものの、二年間のブランクを踏まえると驚異的な飛躍だろう。
「すごいな! 三井、頑張ったんだな」
「俺だってやりゃあこんぐらいヨユーだっての」
 頬をかすかに紅潮させて、三井は満面の笑みを浮かべた。全く調子がいいものだ。木暮は眉尻を下げて苦笑する。
 自慢したい割に紙はぞんざいに扱われてしわくちゃだし、その成績には明らかに自分も一役買っているはずだ。突っ込みたいところはいくつかあるものの、大きく笑うときに浮かぶ三井の鼻皴を見ると、木暮はやはり「よかった」という感想に帰結させてしまう。
「ウィンターカップ次第で推薦も現実的になってきたな」
「おうよ、というか推薦もぜってー取る。取らなきゃまずい。だから勝つ」
「なんだそりゃ」
 受験生としてスタンダードな道を歩んでいる木暮からしたら三井の言っている内容はめちゃくちゃだが、きっと彼なら実現させるのだろう。取り組んだことはすぐ投げ出しがちでも、一つ決めたら必ず成し遂げる無闇な力があるのが、木暮の知っている三井だった。
 それに。三井が結果用紙を自分でも見返しながらぽつりとこぼす。
「これで赤点取ったりしたらおめーに会わせる顔なんてねぇわ」
「なんだ、俺のことも気にしてたのか?」
「たりめーだろ!」
 テーブルに結果用紙を叩きつけると、三井は対面からわざわざ木暮の隣に移動して座ると、その肩に遠慮なく頭を乗せた。
 突然お互いの体温が近寄ったものだから、木暮はもちろん三井自身も不意を突かれたようでドキッとする。木暮から柔軟剤のふんわりした香りに乗って彼自身の匂いがかすかにすると、キスするときと同じだと気づいて三井は小さな眩暈を覚えた。
「あったけぇ」
 自然とそんな感想がこぼれた。木暮の着ているカーディガンが頬に擦れて心地よい。緊張感のない関係であれば、きっとここで眠るのもいいだろう。しかし相手が他の誰でもない木暮だから、三井の中で燻る熱は少しずつ温度を上げていく。
 視界にはローテーブルの上に所在なさそうに乗せられた木暮の手がある。そこに自身の手を重ねれば、彼の肩がぴくりと動いたものの拒む素振りは見せない。
 肩から顔を離して隣を見れば、耳まで赤くした木暮が困ったように眉をハの字にして三井を見つめ返していた。陽の光がほとんど遮られて薄暗い部屋にいる木暮をこうしてまじまじと見るのは初めてで、なんだか不思議な温度を帯びているように見える。
 それが照れなのか情欲なのか、あともう少し触れれば分かることだ。
「木暮」
 彼の名を呼びながら耳の後ろへ指をかければ、それを合図にするように木暮はぎゅうと強く目を閉じた。
 初めてキスをした夏の終わりから、何度か人目を盗み見て唇を重ねたというのに、木暮は一向に慣れないのか全身に力を籠める。
 三井にとってとても可愛くて胸を締めつける仕草だが、口に出して言わない。彼は今以上に顔を赤くして怒るだろうし、自分も同じくらいドキドキしているから。
 ――眼鏡のブリッジが邪魔にならない角度を、三井はもう心得ている。ほんの小さな吐息が唇を掠めて、それも一緒に重ねた。
 窓を叩く雨音がよく聞こえる、秘密の静寂。もっと深いところまで踏み込みたい。きっと木暮の舌や口の中はもっと熱いのだろう。
 しかし、その火が強まって押さえがきかなくなる前に三井は唇を離した。理性をフル動員させた自分を褒めてやりたい。名残惜しくて額同士をくっつけて木暮との距離を保ったままにしていると、熱を帯びた瞳で三井を見つめ返す。
「三井……?」
「あーぁ、今なら何だってやれるのによ!」
 半分茶化すように声を荒げて、三井は木暮をぎゅうと強く抱き締めた。
 今は三井の両親が不在の時間だ。両親は息子に木暮のような「友人」がいるのをとてもよく思っているから、二人が家で素直に勉強することを疑いもしない。
 そんな中で木暮の視線をまともに受け取ったらいよいよブレーキが壊れて、今日何のために彼を家へ呼んだのか目的を見失ってしまう。
 木暮が戸惑いながらもおずおずと三井を抱き締め返した。もっと力を籠めろ。その意味でますます三井は腕をきつくする。
「おい、苦しいよ」
「……前の三者面談、担任にも親にも怒られなかった」
 三者面談、という言葉を聞いて木暮の身体がぴくりと一瞬こわばった気がした。それを自身の内申への不信感だと受け取った三井は苦笑しつつ、木暮のやわらかい黒髪をガシガシ撫でつける。
「お前も俺に期待してくれていいんじゃねぇの」
 勉強なんてこの世で一番嫌いと言っても過言ではないが、投げ出さずに頑張れたのは見てくれる人がいるから。
 何度叱られたか覚えていないほどだが、木暮は毎週の勉強会に必ず付き合ってくれた。彼は告白のときも、三井をずっと見ていたと話した。こうして傍にいてくれる木暮を、三井は心からありがたく思っていた。
 自分は本音を素直に伝えられる木暮のような性分ではないが、せめて好きな人の前ではかっこよくありたい。そうするために、恋人として彼を性急に求めるよりも先にやるべきことがある。
 理性のストッパーは何度も外れそうになるが、そのたびに三井は奥歯を噛み締めて耐えていた。ウィンターカップのことや推薦入試のこと、そして自分たちにはまだまだ未来があることを繰り返し頭で唱えてはギリギリのところで気をもたせていた。

 ――三井は少し腕をゆるめて木暮の返事を待つ。彼の中では、木暮が照れて一言二言何かを返して、二人の愛を確かめたあとは気を取り直していつもみたいに勉強する、という出来すぎたストーリーが描かれている。
 しかし、そのあとの木暮の反応は三井の想像を遥かに凌駕するものだった。
「……三井」
「なんだよ」
「いけないこと、しようぜ」
「は?」
 動きも思考も完全にフリーズして、木暮が何を言ったのか全く理解ができない。三井が固まっている間に、木暮は立ち上がって三井の腕を引っ張った。
 引きずられるままにのろのろと自分も立ち上がると、そのままベッドへ押し倒された。見上げると天井の代わりに、真っ赤だが強気に吊り上がった眉毛が妙に可愛らしい木暮の顔がある。この角度で彼を見るのは初めてで、三井はうまく反応できない。
「こぐれ――」
 なんとか名前を呼んだが、言い切る前に唇を塞がれた。先ほどのようなやわらかくて優しいものではなく、ほとんど押し当てるようなものだった。
 眼鏡のフレームやブリッジが顔に当たって痛い。三井は眉をしかめて木暮を一旦引き剝がそうと、似合うと密かに思っていた彼のカーディガンを引っ張るが、濡れた感触が唇のラインをなぞってまたしても固まる。
「ん」
「……っ!」
 それが舌だと気づいて、三井の頭に血がのぼった。反射で唇を開きそうになるのをあらゆる力を駆使して堪えると、反応しない三井がもどかしいのか木暮は首を少し傾げつつ小さなキスを繰り返す。
 ――夜な夜な、木暮の姿形を思い返しながら、彼にとても言えない秘匿された欲望を吐き出している。木暮が積極的に自分を求めるシチュエーションだって、三井は何回も自分に都合のいいように空想してきた。
 体勢こそは妄想ほぼそのままだ。顔を紅潮させて息を荒げた木暮が三井にまたがり、潤んだ瞳で耐えきれないと訴えるように自分を見つめる。男なら誰もが夢見るような、自分を求めてくれる恋人の姿。
 このまま考えなしに行為になだれ込んでもいい。しかし、木暮に流されるにはあまりにこの突拍子のなさと違和感が拭えない。下半身は正直に熱を孕みかけているが、こんな風に自分を置いてけぼりにしたまま木暮と触れ合いたくなかった。
「木暮っ!!」
 今までで一番速い心臓に反して、胸の内が冷えていく。三井は木暮の肩を突き飛ばすくらいの強さで押し返した。
 二人ともぜえぜえ息をついて睨み合うが、木暮は今にも泣きだしそうに目を赤くしている。三井は額に青筋を浮かべながら木暮の胸ぐらを掴む。
「てめぇ、どういうつもりなんだよ」
「どういうつもり、って……三井とそういうことがしたくなっただけだ」
 表情こそ三井と張り合うように眉を吊り上げているが、木暮の声音は震えている。三井との関係を先に進めるほどの勇気などなく、衝動的な行動だったことは目に見えて明らかだった。
 こんな軽率な行動を木暮が考えなしに取るとは思えなかったが、自分の気持ちを蔑ろにされた三井の怒りは収まらない。上体を起こして木暮の腰へ腕を回して抱き寄せ、わざと擦りつけるように腰同士をくっつけてみせる。
「……っ」
「『そういうこと』をお前はしたいのか?」
 耳に唇をぴったりとくっつけて囁くと、木暮の身体がどんどん強張っていくのが分かった。ここからでは見えないが、興奮しきってのぼせた頬もいくらか青ざめているに違いない。
 そのままやり返したりすることなく木暮は黙りこくってしまったため、三井の溜飲がようやく下がった。据え膳を目の前でみすみす逃している自覚はあるが、目のくらむほどの快楽は二人の楽しみとして取っておきたい。
「……どうしたんだよ、らしくねーぞ」
 腰を抱きとめていた腕をゆるめて背中へ回す。力加減に悩みながらもぎこちなくさすると、全身を縛っていた木暮の緊張が少しずつ解けていく。
 硬い手のひらへ収めるように木暮の頬を包むと、熱が出ているのではないかと焦りそうなほどだ。木暮はさっきよりも眉間の皴を深くして、涙が充血した目からこぼれるまであと一歩だった。
「わ……」
「わ?」
「悪いことがしたい」
「なんだそれ」
 漠然としすぎて真意の掴めない答えに三井は呆れる。いきなり自分に告白してきたあの夏の日といい、もしかしたら木暮を勢い任せにするのは危険なのではないか。
 袖で目元を強く擦り、木暮は一度大きく深呼吸をした。燃えた心臓が徐々に鎮まっていくのを感じると、衝動に乗っ取られて真っ白になっていた頭がようやく平常に近くなっていった。
 三井はムッと唇を突き出して不機嫌さを隠そうともしていないが、自分があんな行動に出たのだから当たり前だ。申し訳なさに涙腺が危うくまた緩みそうになる。
「ごめんな、三井」
「謝る前に理由を聞かせろ。『悪いこと』ってなんだよ?」
 こうなってしまう数分前のやり取りを木暮は思い返す。内申が伸びて、推薦がいよいよ現実的になってきた三井。このままウィンターカップで好成績を残せれば合格の可能性は跳ね上がり、ベスト5にでも選ばれれば未来は確実なものとなる。
 ウィンターカップは年末に行われるため、翌月にはセンター試験本番を迎える木暮は恐らく応援に行けない。ひょっとしたら、そもそも十二月は一度も顔を合わせられないかもしれない。
「高校生のうちに、三井とそういう……恋人っぽいことをひと通りしたいんだ」
「あれだけ内申だの受験だの言ってたくせに、どういう心変わりだよ」
 俺は嬉しいけど。からかう口調でそう付け足した三井を、いつものようにたしなめることなんてできない。
 それどころか、いっそのこと三井から求めてくれれば、自分はそのまま身を委ねられるのに。自分の不器用さをやすやすと見抜いてしまう三井が少しだけ憎くて、それよりずっと愛しくて木暮は悔しくなる。
「多分、今しかできないかもしれないから」
「なんで」
「俺、地方の大学に進学するつもりなんだ」
 窓ガラスを叩く雨粒の勢いはどんどん増していき、ばたばたと何かが破れるみたいな音を立てていく。
 目を見開いて、三井は木暮を見つめた。この話を聞いたのは初めてどころか、こうして顔を合わせて未来の話をするのは初めてだったことに今さら気づかされた。
 こうして付き合っているのだから、根拠などなくたって卒業後もずっと一緒にいるものだと信じていた。どんな未来図になるか具体的な輪郭がそこになくたって、三井はずっと木暮と共にいるのを当たり前としていた。
「そうなのか」
 ぼんやりとした返事が三井の口からこぼれた。抱き締め合える距離なのに、急に互いの体温が遠ざかっていく。
「看護師や理学療法士に興味があるんだ。怪我をした人が元の生活に戻れるようにリハビリを手伝ったり、怪我との付き合い方を考えていけるように」
 木暮は三井の、元通りに動く左膝に左手をそっと乗せる。血がちゃんと通って温かい当たり前のことが、木暮にとっては何に代えがたいほど嬉しかった。
 三井がコートに復帰したときからなんとなく描いていた将来像が、桜木の怪我を目の当たりにして自分事として捉えるようになった。思いもよらない怪我のせいで大好きなスポーツが今までのようにできなくなった人たちがこの世にたくさんいるのだと想像するだけで、木暮の心臓は痛むほど苦しみを訴える。
 怪我との向き合い方が見つけられるサポートがしたい。看護学部はまだまだ数は少ないが、講義はもちろん研修に特に力を入れている。そんな木暮の理想に適う大学があるのだ。神奈川よりうんと遠い場所に。
「ずっと三井に期待しているよ」
 側にいたい。間違いなくこれからもバスケコートで人々の目を奪う活躍を見せる三井をずっと見ていたい。それでは、心の望むままにそうすればいいではないか。そう願うほど、先日体育館の端っこで三井を見ていたときの気持ちが胸を冷やしていく。
 大学でもバスケを続けるか、木暮は三井ほど明確なビジョンを持っているわけではない。もしかしたら実習続きでそれどころではないかもしれない。そもそも、同じ中学だったかつての友人たちでさえ、今でも連絡を取り合っているのは片手で足りるほどしかいない。
「ずっと一緒にいられたらなぁ」
 ――二人を繋ぐバスケが過去のものになると、あまりにお互いが別々の存在であるのを思い知って愕然とする。
 受験すらどうなるか分からない。考えたくもないが、木暮が受験に落ちる可能性だってゼロではないし、全力で臨んだところで勝敗が残酷に決まるのがスポーツだ。
 高校生の二人にとって将来はあまりにも不確定要素が多かった。どういう未来を歩めば今みたいに手を繋いだり抱き締め合ったり、経済力や周りの目なんて気にしないで恋人同士の時間に心置きなく浸れるのかを考えるには、三井も木暮も子どもすぎた。
「三井がこんなに好きなのに寂しいんだ。変だろ?」
 好きな人と一緒にいることが、こんな欲深さを生むだなんて木暮は全く知らなかった。鼻がスン、と小さく鳴って、自分がまた泣きそうになっているのに驚いて木暮は目を擦ろうとしたが、三井がその手を掴んで止める。
「やめろ、赤くなんぞ」
「三井」
「泣きたいなら泣け。俺しかいねぇんだから」
 まさか三井にこうして励まされる日が来るなんて。木暮はおかしくて笑いそうになる。笑いたいはずなのに、目から抑えきれない一粒がこぼれると、奥から熱い塊が押し寄せて音もなく頬を滑っていく。
 三井は木暮の後頭部をぐいと掴んで自分の肩口に押さえつける。涙や鼻水やらで彼の服が濡れるのが嫌で木暮は離れようとするが、三井は木暮を離そうとするつもりはない。
「ごめんな」
「そうやってとりあえず謝られんのすげー嫌」
「うん」
「……あと、木暮も受験頑張れよ。お互い悔いのないようにしようぜ」
「うん」
 震える背中をさすると、木暮は弱々しく三井の胸元を掴んだ。小さな子どもが縋るような頼りなさで、三井の胸が軋んで締めつけられる。
 雨はまだやみそうにない。木暮が次々涙をこぼすから、この部屋の中にまで雨が降り注いでいるようだった。
 大事にしたいものを選び続けるのは難しい。かつてコートへ背を向けた三井はそれを知っているから木暮に強く言い返す気になれない。会う時間が減って寂しいのも、自分だって同じ気持ちだから分かっている。このまま時間がゼロになったら、と悪い方へ想像がふくらむのだって。
 それでも、木暮を手放すつもりなんて毛頭ない心が悲痛に叫んでいる。この先も一緒にいる、なんて考えなしに言ったところで木暮の心を滑ってどこかへいくだろう。でも。それでも。
 痛む胸の分だけ、三井は木暮をきつく抱き締めた。息苦しいけれど解かれるのはもっと嫌で、木暮はされるがまま彼の腕の中に閉じ込められる。
 三井もこれだけ寂しがっているのだろう。同じ気持ちを共有できた事実だけが、今の木暮を喜ばせた。