『ねずみ色の渚』サンプル - 3/3

「おかえり」
「ただいま。はぁ、疲れた」
 鍵の開く音が聞こえて、オレは恭ちゃんが「ただいま」を言う前に迎え入れた。
 玄関まで迎えに行くと、恭ちゃんはぜえ、と溜め息をつきながらも靴をちゃんと揃えていた。普段そんな汗のかかない恭ちゃんでも、一日経てばシャツは汗を吸って彼の首や胸元に張りついている。
「オレ先に入ったしシャワー行ってきな」
「あぁ、ありがと……って自分で脱げるから!」
 無意識にシャツを脱がそうとしたら顔を真っ赤にして腕を振り払われた。この手はなんつー正直な。汚れた子どもを出迎える親の気持ちをうっかり理解したのか下心なのか自分でもわからなくてオレ自身がビックリする。
「ご、ごめんな。驚いちゃってつい」
 それを恭ちゃんがショックを受けたと勘違いして、素直に眉尻を下げて謝った。こうべを垂れる姿と、謝罪から理由までをスッと口に出せるこの素直さが堪らない。
 行き場を失った手で妙なときめきを覚える胸を押さえつつ、オレはなんとか自然な笑みを取り繕った。
「いいって、オレも変な冗談かましたわ。シャワー浴びといで」
「うん……」
 ちょっと気まずそうにしながらも恭ちゃんは浴室へ向かっていった。恭ちゃんは気にしいな性格だけど、オレが笑顔で夕飯を用意していれば怒っていないと気づくに違いない。
 それよりも、問題はオレ。湿った布地に触れかけた指先と真っ赤になった恭ちゃんの顔が、まぶたをぎゅっと閉じてもその場に残り続けていて、その場でぼんやり間抜けに立ち尽くす。
「や、やべぇやべぇ」
 恭ちゃんの帰ってくる時間に合わせてセットした炊飯器から軽快なメロディが鳴って我に返る。キッチンへ戻る短い距離で足がちょっともつれかけた。
 こんなふうに、明らかに彼が思っていない意図を持って手を伸ばしかけたのは、じつは初めてじゃない。オレは愚かな行いを繰り返してきた。でも、全部失敗に終わっているし、恭ちゃんが赤面したのなんか今日が初めてなくらいだ。
 いや――失敗なんて言い方をするのも変か。そもそもできないんだ。
「……」
 こういう、自分で自分がコントロールしきれなかった瞬間、内心で静かに積み重ねてきたものがワッと胸から噴き出て胸から飛び出ちゃいそうになる。耳は恭ちゃんがシャワーを浴びる音を嫌でも拾って、今までの長い付き合いで何回か見てきたはずの赤面は、未だに慣れなくてオレの胸に鮮やかな引っかき傷を残す。
 狭いシンクの縁に手を引っかけて、何度か深呼吸を繰り返す。思い通りの右手と、何をするにもヘタクソな左手を見比べると、速くなりかけの心臓は少しずつ落ち着きを取り戻した。
「……よし」
 気を取り直して、冷蔵庫に入れた総菜のパックを皿に移して電子レンジに突っ込む。炊飯器のフタを開ければ、炊き立てのご飯がうまい湯気をもくもく立てた。
 明日食べるぶんを大きい丼ぶりに移して、今日食べるぶんを二人の茶碗によそう。恭ちゃんは最近お疲れだからちょっと盛ってあげようかと思ったけど、杞憂なのに体重を気にしているみたいだから、多めによそったご飯を丼ぶりに戻した。
 シャワーを浴び終え、ご飯よろしく湯気をまとった部屋着の恭ちゃんがリビングに戻ってきて目を見張る。
「エビフライだ」
「オレが食いたかったからね。あ、カバンは部屋の前に置いといたから」
「そこまでしなくてもいいのに」
「いいんだよ。オレだってやりたくなきゃ床に放り投げてっから」
「全く……渚は何回言っても片付けできないよな」
 口ではそう言いつつも、目線はエビフライに釘づけた。好きな給食が出たときの表情となんら変わりなくて、笑いをかみ殺すのに必死になる。
 かわいい、って言ったところで、きっとまた顔を真っ赤にされて、オレの胸は無闇に高鳴るだけだろう。
 エビフライ三尾にサラダ、大皿に乗せた残りものの野菜炒めを真ん中に置いて、ご飯の横には即席の味噌汁。いつものことながら和洋折衷めちゃくちゃだけど、味は問題ないのでよしとした。
「うまそう」
「早く食おうぜ」
 腹がぐうぐう鳴っているのはお揃いだ。エビフライを手に取ったときから感じていた空腹がピークに達して、二人で同時に手を合わせた。
「いただきます!」
 お味噌汁をひと口すすった恭ちゃんがすっかり安らいだ顔でほっとひと息つく。この席はそんな表情が見られる特等席だ。エビフライの旨みを味わいながら、オレ自身もどこか安心して肩の力を抜いた。
 彼の実家がそうしていたみたいだから、夜ご飯のときはテレビをつけない。食器の鳴る音だけが響いて、食事に夢中になるこの静けさが好きだった。
「今日も残業お疲れさん」
「渚も、バイトお疲れ様」
 酒を飲んでいるわけじゃないけど、互いにこうして一日を労わりあうと疲れがちょっと癒えた。といってもオレはこのあとまたバイトだけど。
「今日はキジマさんにいじめられなかったの?」
「うっ……その名前出すなよ」
「愚痴くらい言ったっていーじゃん」
「うーん……それでも、仕事バリバリできる人だし、憧れてはいるから」
「ふーん。恭ちゃん、ウツ病とかにならんといいね」
「ならないよ、本当にムカついたらさすがに言うって」
 なんて眼鏡をクイッと直しているけど、実際熱中症なんかより遥かに心配だ。恭ちゃんは人を悪く言わないのを美徳としているところがあって、溜め込んじゃわないか不安だった。
 前にそのキジマとかいう上司(実際に呼び捨てにすると恭ちゃんが怒る)のことをポロッとこぼしたときも、最初は「俺、何か悪いことしたかな……」という切り出し方で、オレはもっと派手に言ってやったっていいと感じた。
 会社勤めって大変そうだ。忙しいときはぐったりくたびれて帰ってくる恭ちゃんを見ていると心底思う。
 せめてうまいものを、オレが作れたらなぁ。恭ちゃんはもりもり食べてくれているけど、野菜炒めは切る前の色よりも茶色のほうが遥かに目立つ。
「本当に、いつもお疲れ様」
「渚だって。今日はこのあと夜勤だろ? お前のほうこそ愚痴とかないのか?」
「え~、うーん、特にねぇな。今やってるバイトも性に合ってるから」
 できることと言えばねぎらいの言葉をかけてやるくらいだけど、恭ちゃんは同じか、それ以上にオレを気遣ってくれる。
 ――恭ちゃんの何がオレへそうしてくれるのか。幼馴染という間柄ってだけで、こんなに優しさにどっぷり浸れるの? でもオレはそれだけじゃ足りない、浴びまくって溺れるくらいの量を密かに望んでいる。
 コントロールがうまく利かない左手がカタカタと震えて、茶碗が不安定になってちょっと慌てた。
「にしても、交通整理って頭使いそうだな」
「いんや、ピカピカ棒振ってりゃいいから楽ちんだよ」
「渚は昔から器用だからなぁ」
 器用? 文字通りの意味でも、手なんか出せないオレのどこが。
 二尾目のエビフライにかじりついた恭ちゃんがほっぺたをふくらませながらニコニコしていた。それを見ていると勝手にこっちも笑っちゃう。幸せ者だな、オレって本当に。

 恭ちゃんがこうやって笑ってくれると嬉しい。ずっと昔から好きな人だから。
 恭ちゃんがこうして自然に優しくしてくれると悲しい。どんなに違うと自分に言い聞かせても、その理由に好意を見出しそうになるから。

 オレと恭ちゃんは保育園からの幼馴染。今までもこれからも、ずっとそうだ。
 オレは恭ちゃんが好き。でも付き合ってはない。一緒に住んでいるだけ。
 でも今のこの距離が、恭ちゃんの一番近くにいられる場所なんだ。
 それが壊れないなら、オレはこの左手と一緒に思いを一生閉じ込めていたって良かった。

《続きは同人誌で》