冬染む掌

『ねぇ、フェリクスの手、とってもつめたい』
 少し舌足らずではしゃいだ声と共に、彼は手を取った。
『僕のほうがあったかいよ、ほら』
 雪にかじかんで痛むほど痺れた指先が、彼のぬくくてやわらかい手のひらに包まれる。同じ日の下にいるのにと驚くと、フェリクスに勝てるところがあって嬉しかった彼は、くすくすと笑って両手のひらで包んでさすってやった。
 そのまま二人は手を結び、積雪の平野を歩んでいく。小さな足跡が浅くついていくのを、フェリクスは不安げに振り返った。もしまた雪が降ったら、二人の足跡が埋もれてしまう気がして。
 しかし彼は頬を寒気に真っ赤に染めて、フェリクスに行こうと促す。幼い彼はおとなしかったが、それでもたまにフェリクスの前に出るような勇気を見せることがあった。
『大丈夫だよ。お城からまだそんなはなれてないから』
 確かに彼の、今日みたいな冬の陽だまりの手のひらさえ離さなければ、もう少しだけ進めそうな気もした。一人では心もとなくても、二人なら。
 彼――ディミトリの手を力いっぱい握り返し、フェリクスは氷を枝にまとった針葉樹の森を指さした。
『ディミトリ』
『なあに』
『向こうには、何があるんだろうな、……』

+++

「入るぞ」
 体裁としてノックくらいはしたものの、ディミトリの返事を待たずにフェリクスは彼の自室に入った。
 それもそのはずで、返事はないだろうとほぼ確信していたからだった。
 ディミトリは珍しく眠りに就いていた。寝ていると言っても、かろうじて目を閉じている状態を保っているようなものだ。顔色は薄闇の中でも青ざめているのがわかる。眉間には皺が寄り、とても床についている様子とは思えなかった。
 もうすぐ夜が明けるはずの時間。髪の揺れる音すら響く静寂が、大修道院全体を包んでいる。
 フェリクスの目には捉えようのないものにうなされているディミトリの傍にそっと、足音には最低限気をつけて近づく。
 自分の影がかかると、彼の顔は一層陰りを増した。
「貴様のせいで目が覚めた」
 小さく、しかし深い溜め息と共に嫌味を吐き出す。壁越しに伝わったディミトリの苦しみを、フェリクスは耳ざとく拾った。
 今日が初めてのことではない。ディミトリはたびたび目の下に隈を広げているが、たまに眠れたと思えばこれだ。フェリクスが嫌味を飛ばしたところでいつもの辛気臭い、無理やりな微笑みを見せないところが、強いて言えばいいところか。
 こんな磨り減っていく身体で、よく日ごとの鍛錬に耐えているものだ。
 誰もが遠回しに、時には直接的に心配してもディミトリは跳ねのける。それがフェリクスの苛立ちを一層強くさせた。
「……何を見ている」
 ベッドの端に腰かけ、フェリクスはディミトリの顔を覗いた。自身の髪が彼の肌に触れないように掻き上げれば、否応なしに明るくなった視界にディミトリの表情が写る。
 部屋に差し込む少ない光を、額に浮かぶ冷や汗が反射しているのが見えた。人差し指で拭う。部屋は適温を保たれているのに、わずかに触れた肌が、雪のように冷たい。
「……」
 何に耐えているのだろう。シーツを強く握り締めている手に自身の手を重ねる。額と同じ温度の手の甲が、血潮の流れる己の手のひらにじわじわ侵食してきて、フェリクスは顔をしかめた。
 しかし、ディミトリは苦しみの支配する暗闇の中で、フェリクスの温度を感じ取ったのか――少しだけ身体の力をゆるめる。呼吸も規則性を取り戻していく。
 爪が食い込みかねないほど握られた手がほどけたから、フェリクスは自身の指を絡めた。
 ディミトリの手のひらは硬かった。血が滲んでも槍の柄を握り続けたせいで傷の回復が追いつかず、分厚くなった皮が身体の成長と共に引っ張られた、いくつかの傷が浮かぶ手。
 自分よりも大きいのが癪に障る。いつぞやの彼の温かさを、自身が追い抜かしたことも。しかしフェリクスは見て見ぬふりはしない。せめて、ディミトリの手が温まるまでここにいることを決めた。
 どうせ彼は、朝が来れば何事もなかったように振る舞うのだ。夢の中まで追ってくる影も、自身に渦巻く、塗りつぶした漆黒に近い衝動も見ないふりをする。フェリクスの目は、それらを未だに捉えられない。
 さすがに夢の中まで悪態をつきには行けない。せめて同じものが見られたのなら、不甲斐ないディミトリの代わりに剣を振るってやってもよかった。フェリクスはずっと同じ気持ちを抱えて、彼の眠りを見届ける。

 わからないほどの速さで朝が近づくと、窓から少しずつ、光が差し込んでいく。
 ガルグ=マグはファーガスよりもずっと暖かい。今の時期、王国は雪が降り始め、早々に冬支度を始める頃合いだ。
 白雪が光を反射するあの強い眩しさを思い出して、フェリクスは目を細めた。ディミトリの手を取ったとき、どこまででも行ける予感を覚えたのに、記憶にある森を抜けた先に何があるかを、二人ともまだ知らないままだった。

《了》