夕凪

 今回の仕事で行く場所の名を聞き、心のどこかが確かに反応し、遠い昔の記憶が呼び起こされた。
 姉に手を引かれ、晴れて砂の暑い浜辺を共に歩いた夏。確か白いワンピースを着ていた彼女は、サンダルを脱いで足を浸けてみようと提案したのだが、最後まで僕に勇気が出ず、結局海辺を散歩したに留まったのだった。
 あの日、肌を焼いた暑さも、姉の手の温かさも小さな僕の目にはとても広すぎて少し恐怖を感じさせたあの海も、しばらく記憶の底に沈んだままだった。
 しかし人間は不思議なもので、ロケに行く場所の名前を聞いた瞬間、絶え間なく流れるフィルムのようにほとんどのシーンを僕の身体に取り戻したのだった。
 何を思ったのかは、自分でもうまく説明はできない。しかし、今を生きて歳を重ねていく限り、もう二度と姉と立ったあの海は取り戻せないことにはすぐに気がついた。

 今、その海に天道と柏木が足を浸けてじゃれている。
 先に海に足を入れたのは天道だ。ロケが終わり、ホテルに戻る前に「せっかくだからまだいよう」と、あの頃と変わりないように見える浜辺をこの三人で歩いて。そこからふいに彼が「海に来たんだから」と履き物を脱いで足を浸すまではあっという間だった。
 柏木は最初こそためらいは見せていたものの、興味はあったのか天道に手を引かれておずおずと入ると、二人は子どもみたいにはしゃいで声をあげた。
 僕は楽しげな二人を、ぬるい砂浜に立ち眺めている。
 ここからだと、僕たちの色に似た夕陽に照らされた二人の笑顔がよく見えた。
「桜庭も来いよ!」
「冷たくて気持ちいいですよ」
 天道と柏木が僕を呼んでいる。脱いで入り、拭かなければならないことを思うととても乗り気になれず、海辺に近寄れずにいた。
 笑って手を振る二人を見ていると、昔に姉と歩いたこの場所は、ずいぶん違うところのように感じられた。目線の高さも、暑さも、空の色も違う。変わらないのは、海原の広さだけ。
「僕は、いい」
 呟いているだけに過ぎないこの返事は、二人に届くはずもない。
 べたつく潮風に吹かれて、姉と過ごした時間を思った。「あの海」は、そこで時間が止まっている。ワンシーンをそのまま閉じ込めた記憶と、今目の前に広がる景色を重ねても、どこも線が被らない。
 あのとき、僕が勇気をだして海に一歩でも足を入れていれば、姉は記憶の中以上に笑ってくれただろうか。
 取り戻せない時間に、意味のない仮定がよぎる。生きているものは全て、時間の流れるままに前に進むしかないのに。
 ――そのとき、突然手を握られた。いつの間に天道が僕の目の前に立ち、その後ろで柏木が微笑んでいる。
「……何を」
「だってさぁ、な? 翼」
「はい。薫さん、すごく入りたいって顔でオレたちのこと見てますよ」
「は、一体何を」
 何を言われているのかわからず、返事に窮したその一瞬で二人から手を引っ張られた。
 姉のものよりずっと熱い、それぞれの手に身体が硬直する。振り返った二人は怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。
「す、すみません、嫌だったら別にいいんですよ」
「桜庭、もしかして怖いのか?」
 心配するような柏木に、真面目に問うているのか、からかっているのか判断のつきにくい天道のトーン、どちらにも僕の胸中は当てはまらなかった。どうしようか逡巡する。
 嫌ではない、怖いわけでもない。――それなら、僕は今、何をためらっているのだろう。
「……君たちと付き合っていると、時々どうしようもなく疲れるな」
 二人の手を振りほどき、靴に手をかけた。靴下ごと脱いで砂の上に立つと、ざらついた感覚とさっきよりも一層強い熱が足の裏から伝わって身体を駆け巡る。 一歩、二歩。足を進めるたびに、海水が足に絡みつく。柏木の言うとおり冷たく、晩夏にはちょうどいい。
 波の音は、先ほどまでの二人の笑い声に比べたらとても静かだった。寄せては返すだけの、凪いだ海。
 橙色に燃える太陽を浴びる海原はどこまでも僕たちの目の前に広がり、地平線は破けた紙のようなやわらかな輪郭だ。
「綺麗ですね」
「ああ」
 両隣に立った天道と柏木が感嘆の溜め息をつく。息を吸えば、夕陽に染まった潮の香りの空気が肺に入り込んできた。
「三人で来られてよかった」
 天道がおもむろにそんなことを言う。返す言葉が何も浮かばず、海の冷たさにむしろ自身の体温と鼓動を意識させられながら、ただ立ち尽くして目の前の景色を目に焼きつけていた。

 あの頃、姉と歩いた浜辺と何も重ならない、同じ場所。それがたちまち、僕たちの思い出の場所として塗り替えられていく。
 今後この海を思い出すとき、きっと真っ先に浮かぶのは天道と柏木だろう。
 時間は止まらない、過去には戻れない。僕たちはただ前に進むだけだ。大切にしまっていたはずの記憶は、底に近づくほど色褪せ、色も香りも少しずつ失われてしまう。
 この場所の名前を聞くまで思い出さなかったみたいに、いつか姉との記憶もずっと閉じ込められたままになる日が来るのだろうか。
 ――寂しさとも、虚しさとも言えない曖昧な感情が胸に降り立つ。姉のことを思うくらい、今こうして僕ら三人で過ごす時間の重さを大事にしたい。
 これから先もきっと、このような自問自答の繰り返しだ。耳を澄ませば、うみねこの鳴き声と小さな波の打ち寄せる音と一緒に、心臓の鼓動が聴こえる。
 僕はこの先もずっと、鮮やかな今の時間を美しい思い出に変えていき、自分の中へ積み重ねていくのだ。一生、死ぬまで。

《了》