『ねずみ色の渚』サンプル - 1/3

 このまま傍にいられるなら、前に進めなくてもいい。

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 カーテンの隙間から容赦なく差し込む強い日差しがまぶたに掛かる。まだ眠りに就いていたい意識が遠くで鳴いている蝉の声を捉えた。
 今日も暑い日になりそうだ。起きるのが嫌だったけど、朝飯をつくらなきゃ。なんとか身体を起こして、左上にある窓のカーテンへ手をかけて一気に開けた。現れたレースカーテンは遮光の効果なんてほぼない。眩しさに顔を思い切りしかめてしまいつつ、フローリングに足を下ろすと、冷房の空気がひんやりとして気持ちいい。
 スマホを見ると、アラームが鳴るちょうど五分前の時刻だった。オレってば体内時計の調子いいな。あと五分寝られたはずだけど。
 アラームを消して頭の後ろを掻くと、髪の毛が絡まって指が引っかかった。ブローのめんどくささはひとまず置いておいて、ヨレヨレで肩からずれかけていたタンクトップを直す。スリッパは元から履いてないけど、なるべく足音を立てないように気をつけながらリビングへ出た。
 恭ちゃんはやっぱり起きてなかった。一人にはこの部屋は広すぎるから、蝉の声ばかりが聞こえてくる。部屋中のカーテンを開くと、部屋の中もあっという間に朝になった。
 テレビを点けて、他の部屋に響かないようにすぐに音を小さくする。ニュースによれば今日の天気は快晴も快晴、最高気温は三十七度ときた。熱中症も心配だ。恭ちゃんはあまり汗をかかないみたいだし。
 適当に顔をざかざか洗ったあと、キッチンに立ち冷蔵庫を開ける。朝飯はほぼ毎日一緒だから、材料へおのずと視線がいく。卵とベーコンのパック、切りっぱなしでもうすぐなくなっちゃいそうなブロッコリー、そして昨日買ったばかりの四枚切りの食パン。
 片手で一気に持っていけないから、俺は何度か冷蔵庫と調理台のとても短い距離を往復した。まな板の上にブロッコリーを置いて、ほとんど乗せるように掌で固定しながら包丁で切っていく。オレは正直茎の部分があまり好きじゃないから恭ちゃんに多めに分けようといつも企むけど、過去にバレたことがあるから心の中で留めて終わるのだ。
 硬い茎とモサモサした部分をなんとか切り終えたから、一旦包丁を置いて、食パンを二枚取り出してトースターに突っ込んだ。茶色い焦げ目がつくくらいの分数にセットしてから、フライパンをコンロに置く。
 中火くらいの火にオリーブオイルを垂らし、柄を掴んでくるくると回し行き渡らせる。オイルの温まっていい匂いが立ちのぼる一瞬の時間が地味に好きだ。今回もその香りをきちんと確認してから、まな板のブロッコリーを散らした。
 あっという間にじゅう、と小さな音をたてはじめるフライパンの上で、小さく震える手でベーコンのパックを掴みながらキッチンバサミで切れ目を入れる。隙間からペラペラのそれを取り出してブロッコリーの仲間に入れてやると、食べ物の焼ける音が一気に大きくなった。
 一度シンクで手を洗う。しばらくはヘラを適当に動かして、ブロッコリーにベーコンのおいしい脂が絡まるのを見届ける時間だ。換気扇からこぼれた煙を吸い込むと腹が一度ぐぅ、と音を鳴らした。
 そろそろお湯を沸かさなきゃ。電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。さて焼き加減はどうか。フライパンを覗いたときに、向こうでドアの開く音がした。ペタペタとした足音がゆっくり近づいてくる。――宿主の体内時計はいつも正確だ。
「おはよう、恭ちゃん」
「……はよう」
「あは、声出てねぇ。はよ顔洗ってきな」
「ん……」
 恭ちゃんは眼鏡越しの目をほとんど半分閉じつつ、のろのろと洗面台へ向かった。起きる時間は正確、どんなに眠くてもスラックスとワイシャツはきちんと着て、家を出る時間もほぼいつも同じ。毎朝違うのは後頭部の寝癖くらいで、恭ちゃんの几帳面さはロボにも勝てそう。
 水の流れる音を聞き届けつつ、フライパンの中がいい具合に焼けてきたのを見計らって、卵を片手に持った。生来の器用さのおかげで、片手で卵を割るのなんてあっという間にできるようになった。殻が醜く割れるところを恭ちゃんに見られるのも気まずいし、必死に覚えたところもある。
 少しだけ火を弱めて蓋をする。お湯も沸けたようだから、青くて内側が白いマグカップにドリッパーとフィルターをセットして、豆を挽いて袋に入れたままにしているのをササッと目分量で注いだ。コーヒーをおいしく淹れるためのお湯の注ぎ方はネットでも調べたけど、いまいちよくわからない。試しに変えてみても恭ちゃんもわからないみたいなので、いつもそれっぽくやっている。
 後ろでトーストの焼き終える軽い音が鳴った。オレはバターで、恭ちゃんはマーマレード。冷蔵庫から出そうとすると、横からにゅっと別の手が伸びてきた。
「いいよ、俺がやる」
「そーぉ? んじゃ頼むわ」
 顔もシャキッとして、そして寝癖ももちろん直してワックスで少し髪をふんわりさせた恭ちゃんはもうすっかりお仕事モードらしい。眼鏡から覗く目はきちんと開いて、寝起きと普段のギャップがいいのに、あまり堪能させてくれないのはちょっと残念だ。
 寝癖と格闘する時間によって、恭ちゃんがキッチンに来るか来ないかが決まる。今日は早く直ったっぽい。トーストとテーブルは恭ちゃんに任せて、再びフライパンの中を覗いた。蓋のガラス部分は水滴だらけで見えにくいけど、いい感じになるまであと少しな気がする。
「そーだ、今日は三十七度だって。恭ちゃん死んじゃうよ」
「死なないって。にしてもヤバいな、渚(なぎさ)も気をつけろよ」
 オレがやるまでもなく、恭ちゃんはマイボトルに注ぐ麦茶ポットを取り出した。恭ちゃんが手伝ってくれると、オレは一気に自分のやることを持て余してしまう。口にしたことはないけど、それがいつもなんとなく不安だった。やることはあるほうが向いている。下を向くと、あまり焼けていない足の甲が頼りなく見えた。
「いい匂いだ」
 トーストに広がるマーマレードか、もうすぐ焼きあがるベーコンエッグか、コーヒーかどれを指しているのかわからなかったけど、恭ちゃんは満足げに頬をゆるめた。いつもやってることじゃん。オレもつられてヘラヘラしちゃいそうになる。
「いつも悪いな」
「…、いつもやってることじゃん」
 でも、そのあとに続いたのは恭ちゃんのなにげない謝罪だったから、オレはほんの少しだけ間を空けて答えてしまった。変だと思われてないといいけどな。恭ちゃんがどんな顔をしているのか怖くて見られず、俯いたまま動けなかった。
「お、いい感じ~」
 ベーコンエッグが空気を読んだのか、事実そろそろ焼き上がりだった。蓋を開けるともわっと湯気がのぼる。恭ちゃんは皿を真横に用意してくれていた。ヘラで掬い上げて皿に乗せる。真っ白な、なんの模様もない皿だけど、黄身の色がよく映える。
「あとは」
「もうオレがやるから。恭ちゃんはコーヒーとか運んで!」
「えぇ!」
 しっしっと手で追い払おうとしたけど、恭ちゃんは冷蔵庫を開けるとミニトマトのパックと、カップを切り分ける食べ切りのヨーグルトを取り出して、ミニトマトのほうを寄越した。
 気持ち程度の彩りだけど、ないよりマシだ。適当に洗い流して水を切り皿に並べれば、オレたちの朝飯、今日も無事に完成。毎日作ってるとはいえ、作り終えるとやっぱりちょっとした達成感がある。
「お、うまそう。渚は麦茶でよかった?」
「うん」
 テーブルの用意を終えた恭ちゃんができたばかりの料理を運んでくれた。朝陽も蝉の鳴き声もオレが起きたときよりも強くなっている。いつの間にか顔に浮かんでいた汗をタンクトップの裾で拭う。リビングはまだクーラーの冷気がまだ回り切っていなかった。
「渚、行儀悪いぞ」
「へいへい」
 そりゃあクールビズのサラリーマンと比べたらオレは寝間着のままだから比較にもならない。適当に流しつつ椅子に座る。腹はもうペコペコだ。
「いただきます」
「いただきやーす」
 まずは恭ちゃんがコップに注いでくれた麦茶を飲むと、寝ている間に干上がった身体が生き返る。恭ちゃんがいつまでもさじ加減のヘタなせいでたっぷりとバターの塗られたトーストを齧ると、しょっぱくて身体によくない幸福を味わえた。
 テレビでは最近デビューしたアイドルユニットが生放送に出て何やらトークをしている。見るからに緊張しているけど、笑顔だけはしっかりキープしていた。
「あ、このアイドル知ってる」
「そうなのか?」
「うん。近所のチビたちが教えてくれた」
「チビたちって」
 恭ちゃんはツッコミを入れつつ、トーストを持ったままもう片方の手で会社のスマホでメールをチェックしていた。隙あり。オレは反撃するつもりでさっきの言葉に言い返した。
「恭ちゃんこそお行儀わりぃぞ!」
「あぁ、悪い悪い。つい……」
 ここで素直に謝るのが彼のいいところ。画面を消して朝飯を食べる作業を再開したけど、恭ちゃんの顔は晴れない。
「仕事やべーの? もうすぐお盆だってのに」
「だからだよ。みんな休みに備えてせかせかしてる」
「毎年思うけど恭ちゃん夏に夏休み取らねぇよな」
「はは……、先輩から休みを取るみたいな暗黙の了解みたいなのがあってさ」
「ふーん」
 話を聞くたびに会社って変なの、と思うけどさすがに口にはしなかった。
 オレたちはもうけっこう前から、四捨五入したら三十歳の年齢に差し掛かっている。それでもまだ「若手」扱いなのがなんかしっくり来ない。それにお盆って勝手にみんな休むものだと思ってたけど、恭ちゃんの会社では決められた期間の好きなときに夏休みを取るっぽい。毎年夏なんて終わっただろ、みたいな時期に家にいる。
「じゃあ今日も残業だ」
「まぁな……涼しくなってから会社出られるのはいいけど、暑いと疲れるんだよなぁ」
「お勤めごくろーさんです」
 恭ちゃんの会社はこの時期営業マンでも半袖のネクタイなしでいいみたいだけど、オレからしたらきちんとした格好で出勤しなきゃいけないこと自体ビックリだ。でも現場だと今時期でもツナギ着てたっけな。
「渚も」
「ん?」
「今日仕事だろ、しかも昼から。お前こそ熱中症に気をつけてくれよ」
 そう言って席を立つ。オレのコップは空に近かった。予想通り、恭ちゃんは麦茶のポットを持ってきてくれた。
「しっかり水分補給しなきゃ」
「うん、ありがと」
 なみなみと注がれたそれをありがたく受け取る。ひんやりとして気持ちいい。汗かきなオレと違って、サラリとした雰囲気をまとった恭ちゃんがベーコンエッグを食べる口許をぼんやり見つめる。
 本当に気が利いて、優しくて、しっかりした男。ちょっと見とれかけて、ハッと立ち上がった。
「ほら水分! コーヒーじゃ水分補給にならねぇから」
「そうだった。行きにマイボトルで麦茶飲んでるけどな」
「それじゃすぐなくなるでしょ、ほら」
 もう一つカップを持って注いでやると、恭ちゃんが申し訳なさそうにこめかみを掻いた。恭ちゃんはあまり汗をかかないからか、涼しい室内にいるとほとんど水分を取らないのがオレはどうしても気になってしまう。室内にいても熱中症は大敵だってニュースでも言っている。
 麦茶のポットが空になったから、恭ちゃんは口を開きかけたけど手で制す。とりあえずシンクに置いて、オレは食事を再開した。
「ほら、さっさと食べよーぜ」
「……あぁ、ありがとう」
 オレが用意したコップをゆらゆら小さく揺らすと、恭ちゃんは笑ってうまそうに飲んだ。
 気にしていないようなふりを取り繕うのは、恭ちゃんにもバレない自信がある。耳にカッカと血が集まるから、汗が出ないかハラハラしながら箸でベーコンを掴んだ。

「いってらっしゃい。気をつけて」
「あぁ。行ってきます」
 恭ちゃんはいつも皿洗いをきちんと済ませてから出ていく。その時間を入れても、余裕を持って出社できるような時間らしい。オレは朝飯を作るという目的があるけど、恭ちゃんはもう少し寝られるはずなのにどこまでもしっかりしていた。
 定期的に磨いている革靴を履いて、恭ちゃんのサラリーマンモードは完成だ。いつも通りの背中を見ると、いつも何か言いたくなる。仕事頑張れとか、帰りにこれ買ってきてとか、早く帰ってきてよ、とか。
「整理整頓は任せとけよな!」
「はいはい、部屋を荒らさない程度にな……」
 玄関ドアが閉じるのに合わせて恭ちゃんの言葉尻は消えていった。首も一緒に傾げるあの呆れ顔を思い出してついつい笑い声が漏れる。オレの整理整頓イコール掃除機をかけるだけだ。
「さてと」
 足音が遠ざかるのを聞き届けて、オレはリビングへ戻った。
 床にリモコンとか洗濯物が置きっぱなしになっていても恭ちゃんは勝手にしまっていく。「あとでやろうと思ってた」と言えば「気づいたときにやれ」と小言を返されるし、「わりぃな」と笑えば「何回も言ってるだろ」と叱られるので、オレは「ありがとう」とだけ返す。
 恭ちゃんによって余計なものは全て片された床に、オレは掃除機をかけてく。物の整理はてんでできないから、この部屋の衛生管理はだいたいが恭ちゃんに委ねられているけど、ときどきお礼を言われるのがやっぱり嬉しい。
「今日もいー天気」
 どんどん強くなっていく陽射しが目に入れば、勝手に独り言が口からこぼれた。恭ちゃんが拭いてくれたテーブルに、麦茶を飲むときに見せてくれた笑みを重ねる。
 それだけでいい日になりそうだ。こんなこと人に話したら絶対笑われるけど、オレの機嫌は恭ちゃんによって決まるところも大きい。ニヤニヤする頬をピリピリする左手で押さえながら掃除機を動かせば、ヘッドがテーブルの足や棚に激突しまくった。いけね、と思いつつ与えられた役目はきちんと果たす。というわけで乱暴ながらこまめに掃除機をかけているリビングはあっという間にキレイになる。
 まだまだ午前は長い。恭ちゃんの部屋と違って、歩くたびにシャツやら雑誌が足に絡みついてくるオレの部屋を整理整頓してもいい。動くたびになぜかどんどん室内が荒れていくのを乗り越えて、時間をかけてスッキリさせる。そうすれば恭ちゃんも感心してくれるに違いないのだ。
「……よし」
 ある種の決意を固めて、掃除機を持って自室を開ける。寝る前に温度を上げたクーラーの微妙な空気がムワッと流れてきて、その先には掃除機のかけようもない床に、起きたてのままシーツがぐしゃぐしゃのベッドがあった。
 決意、五秒で崩壊。掃除機を物が重なっている床に投げた。
「はーやめやめ」
 散らかった部屋を見たときの危機感を超えるめんどくささに重い溜め息しか出てこない。ベッドに勢いよく倒れ込めば、スチール製のフレームがギイッと派手な音をたてた。
 天井には陽射しが映って眩しい。横になると、腹いっぱいなのもあってあっという間に眠くなってきた。
 このまま寝てしまう自分が我ながらだらしない。でも仕方ない。できることなんて、ないから。
「ねみ……」
 2DKの、世界一居心地のいい楽園。恭ちゃん、熱中症にならないといいな。冷房に守られている中で、外の暑さを想像しながらオレは目を閉じた