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部屋に戻って電気をつける。昨日の病院帰りのときのような陰鬱とした気分じゃなくて、むしろ仕事が無事終えられたことの満足感と安堵に満たされた気持ちだった。
今日撮影したバラエティは芸人のトークと進行を中心に最後まで進んでいった。俺たちは歌の披露ができなくなった分、途中途中新曲のイメージやレッスンのことをトークに交えて新曲への期待を高めることに重きを置いたけれど、こちらを見つめるプロデューサーの顔を見るにうまくいっているようだった。
撮影が終了した後収録した映像の一部だけを見せてもらったけれど、画面に映る俺の顔はいつもと何ら変わりなくてこちらが拍子抜けするくらいだった。だけど問題が解決したわけじゃない。帰り際、楽屋を出る前に歌おうと口を開いたけれど、相変わらず声帯に針を刺されたような、喉に石をたくさん詰め込まれたような閉塞感に歌が閉ざされてしまった。せっかくアピールできる場をもらっておきながら歌を歌えなかったことを悔やむべきか、こんな状況の中で最善のアピールができたことを喜ぶべきか。
喉をつまむように触る。この短い間で習慣化された動作だった。いつも――いつもだったら収録やライブがうまくいって部屋に帰ると、機嫌が良いままに着替えながらとかシャワーを浴びながら歌うこともあるのに。歌が出てこなくなって改めて自分の生活習慣を見直すと、友達に唆されたのがきっかけで歌を歌うようになったのが信じられないくらいだ。
相変わらずメロディが紡げずにいる自分の喉をさすると、歌の代わりに言葉がぽつりと、うっかりこぼれるように出てきた。
「歌えなくなったらどうするんだろうな」
あまりに素直に出てきた言葉に、そんなこと、と言葉を続けることができない。ただ押しやっただけで忘れたわけでは決してない、今日見た夢の内容がまざまざと蘇る。
『歌がなければどう生きていくんだ』
そうだな、オッサンの言うとおりだ。ただでさえ何がきっかけで落ちぶれるか分からないこの世界で自分の価値を失うだなんて話にならない。でも、このまま歌えなくなったら、なんて信じられなさすぎる。だって今までジュピターの三人でここまできたじゃないか。ゼロから始まって、事務所を移ってまたゼロから。それなのに、こんなに唐突に?
『もうアイドルじゃなかった頃の天ヶ瀬のこと、忘れちゃった』
あぁ、俺もだよ。もうクラスメイトの顔も思い出せなくなってきたんだ。ちょっと前まで一緒にいるのが当たり前だったはずなのに、もう俺の日常は学校に通って友達と過ごすようなものじゃなくなってしまった。それに対して後悔なんて抱いていない。抱くわけがない。ただ、俺は。
一人暮らしの部屋は何かを訴えるような無音が不気味だ。最初は音のないこの部屋に馴染めなくて見もしないテレビをつけたりしたっけ。この部屋は元々一人で暮らすには広すぎるんだ。親父は地方に単身赴任していて、それも忙しいのか最近じゃ滅多に帰ってこないし帰ってきたとしても俺との生活がまず合わない。最初は芸能界に身を投じた俺を案じてあれこれ連絡してきたのも、今じゃインフルエンザが流行った時とか仕事がひと段落した時とかそのくらいしか連絡が来ない。
この部屋は俺が忙しくなるにつれてどんどん音をなくしていったみたいだった。なのにどうして北斗の部屋で感じられるような涼しい沈黙じゃなくてこうも重いのだろう。部屋着に着替えて、今日は夕飯を外で食べずに帰ってきたから何かを作ろうとした。だけどこうして部屋の静けさの前に身体がまるで動こうとしない。自分の歌すら聞こえない部屋で呆然と立ち尽くすしかなかった。
もし――もし歌が歌えなくなったら。俺は今までの生活に戻るんだろうか。今まで、って何だ? 今まで色々な人が俺の目の前を通り過ぎて行ったのに。歌えなくなったら元に戻ることもできないのか? いや、そんなこと考えるな。でも、俺は…俺は、一体どうすればいいんだ。
思わず引っ掻くように喉に触ってしまう。ぎり、とした染みる痛みが走った。置き去りにされる不安感に身体がすくむ。また歌を歌おうとするけれど、喉の奥がぎゅうと締めつけられる感覚にえずきかけた。すごく気持ちが悪い。
幸い明日は休みだから、とりあえずベッドに入り込んでもう休もうと思い通りにならない身体を引きずらせる。言いようのない不安感に頭痛さえした。ひんやりとしたシーツの感覚が肌に纏わりつくみたいでますます気分が悪い。無理に目を閉じる。変な夢なんて見なきゃいいけど。募っていく悪い予感と眠気が混ざってひどく身体が重かった。
