その時は走って会いにいく

 初めてステージに立って、あれから随分と時が過ぎた。
もう失いたくない、もう戻れない、ここまで来ておいて誰かを照らせる存在になれなかったら、――ほとんど野心めいた気持ちで、得られるものを逃したくない一心でやってきた。
 一人ではできなかった。多くの仲間と出会って、数えきれないほどの素晴らしい景色を見て、逆に悔しい思いを噛みしめるような経験もして。

 ひとつひとつが取りこぼしてはいけない感情だった。
「これ以上は無い」と思える隙ができても、「まだなんとか」「もっとどうしたら」という気持ちに一瞬にして上書きされていく。
始まったときからそうだった。いつも渇望していた。まだ出来るはず、そんな思いを繰り返し重ねていった。そして、――ようやくこの身体いっぱいに全部を手に入れられたと、大きな衝動としてではなく静かな実感として受け止められるようになって。
そこからそれらを抱えて、さて、どうやって歩こうか。

 どんな物事にも必ず終わりや変化が訪れるということを、桜庭は随分前から知っている気がすると、なんとなくだけれど思っていた。具体的に何かを聞いたとか見たとか、そんな確固たる証拠があるわけじゃない。ただ、しいて言えば、ほんの少しの言動や所作の積み重ねで、きっとそうなのだろう、くらいには思えた。桜庭自身が一番大事にしているものの名前を、俺ははっきりと聞いたことはない。
 終わりが来ることを俺は否定できない。悲しむべきことなのだろうか、大人という責任感を自覚して、なお終わりがまざまざと理解できた。
それもそうかもしれない。弁護士バッジを身につけたときだって、俺は弱者を救うヒーローとして生きていく本気の心づもりができていて、まさかこれを外して別の衣装に着替える、だなんて思ってもみなかったのだから。その反対の、この服を着ることがなくなる瞬間は尚更だった。

 有名な観光地のはずなのに、シーズンオフも大概なせいか、世界に二人きりのようだという感傷的な気持ちに陥りかける。目の前に広がる湖水は青く透き通っているけれど、底までは見えない。桜庭とのデートで来たときは、夏の暑さにゆらりと水面が揺らぐのすらも綺麗だったけれど、周りの木々も枯れた冬じゃ、ただひたすら冷たい印象しか抱かなかった。

「別れよう」

 頭で思い浮かべるたびに喉が詰まる思いに駆られて目を閉じていた言葉は、実際本人を目の前にして簡単に出てきた。言葉自体の冷たさに胸の内を風が通る。当の冷たさを受けた桜庭は、特に取り乱した様子も見せず、湖面を見つめながら薄い唇を動かしてなぜ、とだけ尋ねた。

「満足したから」
「この程度で、か」
「お前ならそう言うと思った」

 そこで会話が止まる。それ以上、現状への不満足を述べる桜庭の言葉が続かないところが今の事実である気がした。
 アイドルになって随分と時が過ぎた。ものすごく狭い会議室で、数人しか集まっていないプレスを目の前に記者会見をやっただけで浮かれ切っていたのが遥か昔のことのようにも感じられるし、あの時の喜びは未だに強く残って俺を形作っているから、時の感覚なんてもう壊れてしまったみたいだ。
 本当に多くのものを手に入れた。一度失ったものすら取り返すほどの気持ちでここまで来た。アイドルになったときに思い描いていた理想や未来が形として一番美しく輝くのが、今この時なんだと思えるくらい、満たされていた。
 そこから、――次はどんな道を歩こう? 弁護士だってアイドルだって、選んだのは自分一人だ。選択に責任をいつも感じていたし、そこに他人が交ざることのリスクだって重々承知していた。
 だから、思ってしまったのだ。自分の人生に、果たして桜庭を――一番大事なものを守るときはいつだって一人だった彼に、隣にいてほしいなんて言えるのか。

 目を伏せる。風の無い日の水面はとても穏やかで、そこに映る自分の顔すら何の揺らぎもない。桜庭と初めてここに来たとき、魚が跳ねるだけでもなんだか楽しくて笑ったら、呆れたように溜め息をつかれたことをなんとなく思い出す。

「この先、何があるかなんて分からない。恥ずかしい話だけど、俺がどうなっているか、俺自身でもよく想像できないんだ」
「……」
「不安ばっかりなわけじゃない。でも…自分へ確証が持てないのに桜庭と付き合えないからな」

 選択肢はいくらでもある。なるべく、今まで手に入れたものをそのままの美しさで大事にできるように生きていたい。終わりは綺麗な方がいい。自分に引きずられる事態に遭う桜庭を見るより、全ての感情が美しく昇華された思い出だらけのまま背を向ける方が、この先きっと歩きやすいだろう。そう思ったのは間違いなかった。

 ふいに、腕を引かれる。突然のことに身体がよろけて、肩と肩がぶつかった。ほとんど同じ目線にいる桜庭がすぐ近くにいる。唯一全てを乗り越えてきて、俺の特別に位置した桜庭が。

「君が無責任なことを言わないのは分かっていたつもりだ」

 こんな冬のさなか、この場所に行きたいと言ったときも桜庭は何かを訝しがるような態度を取らなかった。なんだか別れを切り出されるのを分かっていたと言わんばかりの態度にやや面食らう。
 俺の手首を掴む桜庭の指は芯まで冷たい。だけど、この指が時に驚くほど熱くなるのを俺は知っている。桜庭が、俺のことを分かっているように。

「こういう話をされることはなんとなく予想していた。君は分かりやすいからな」
「…悪かったな」
「ただ、君は必ず僕に会いたくなるだろう」
「は」
「例えば…二年後」
「どうしてだよ」
「「彼が別れを切り出した自分と同い年になった」なんてつまらない感傷に浸るだろうからな」
「な…なんだよそれ!」

 先のことなんて分かったものじゃないという話をした矢先に、ちょっと図星な気がしてぞっとする。意地悪いな。口をついてそう出れば、桜庭がやっぱり呆れたような顔をしたあと――氷が溶ける、分かりにくく薄い微笑を浮かべて、俺の手首を握る力を籠める。

「そのくらい言わないと、釣り合いが取れないだろう」

 ただその言葉の前に、否定も肯定もできないまま桜庭を見つめる。寒さで空気の流れすら止まってしまったようだったのに、ただ何もできずその場に立ち尽くしていた俺たちをハッとさせる強い風が一陣吹いて、髪がばらばらと揺れた。
桜庭が俺の髪をもう片方の手で押さえる。そしてそのまま手のひらを滑らせて、俺の頬に触れる。桜庭の冷たさに触れて、自分の頬の熱さをようやく実感した。

「今言ったことは本当だ。天道は必ず、僕に会いたくなる」

 瞳の奥に青く広がる湖水。その奥に透き通る冷たい情熱に、胸の内で滴る赤い熱を実感する。

「君から別れを切り出した以上、僕からは何もしない。だから、…君から会いに来い。待ってやってもいい」
「…確証は」

 俺が会いたくなる確証は? この先何が待ち受けていても、確かに桜庭を求めてしまう理由は。
 手首を握っていた手が解けて、すぐに指が絡まる。初めて二人で出かけたとき、周りから隠れるように手を繋いできたのも、桜庭の方。俺が桜庭のものになって、桜庭が俺のものになった瞬間。今でも、一人でいるときだって鮮やかに思い出せるのに。

「確証はここにある」

 寒空も底の見えない湖水も枯れた木々も、全てを通り抜けた桜庭の声が届いてすとんと落ち着いた。
手の甲に指がわずかに食い込むほどの力で握られる。痛いと思うよりもまず先に訪れる何か、大きく熱いものが胸の内で波打っては引いていく。引き留める間もなく、桜庭の手がやがて離れていく。
跡、だった。いつまででも残り続けて拭うことなんてできない。失ってたまるか、という気持ちでやってきて、どうして手放せるだろう。思い出という形で大切にし続けることなんてできるのか。

 この先の自分がどんな道を歩くのか分からない。その道を後戻りした先に、桜庭は待つと言う。待つことなんて知らなくて、いつだって自分の出来る限りの最上限を見据えて前を見ていた桜庭が、俺を待つと言った。一体、どれほどの思いで。
 夏の照り返しが眩しい湖で、周りのことを気にしながらもそっとはしゃいでいた、未来も何も知らなかった恋でも、桜庭にそう言わせてしまうほどの時が積み重なってしまったのだと、なんだか初めて気づかされたようだった。

 桜庭と別れてから、とてつもなく長い時間が経った気がする。
 二年、ってどれくらいなのだろう。デビューした頃に比べれば平坦極まりない日常の中で、今でも俺の立ち位置揺らすように突然、桜庭に手を握られたときの熱さが蘇って揺り動かされる。
時の流れる感覚なんてもうとうに壊れて、指折り数えるだけでは足らず、カレンダーの数字すら目が滑った。
 あと二年。桜庭が今の俺の歳に追いつく頃、俺はまた歳を重ねている。――俺はそのときまで待っていられるのだろうか。今でも揺らされた立場に震えて、足は彼の方へ向かおうとしているのに。

 ただひたすら、会いたいと思う。無責任だと叱られても、やっぱりだと呆れられても、そういった桜庭の否定的な反応が怖いと思う気持ちすら、会いたいという気持ちが越えてしまう。
もう手に入れられるもの全てをこの身体で受けて、俺の前にはきっと色々な選択肢があるはずで、俺自身にしか許されない責任と自由があるのに、気持ちはただ桜庭の方へ向く。未来とは相反した、積み重ねてきた時間を根拠にして。
 早く、早く会いたい。会って、まず何を聞こう。何を言おう。開かれた未来ではなく、ただ桜庭の姿ばかりが目に浮かぶ。
 今までの道は一人で選んできたつもりだった。それなのに、どうして俺はこんなに、――弱くなってしまったのだろう。たった一人、恋焦がれてやまない。待ちくたびれとでも言いたげな桜庭の顔でも、一刻も早く目にしたくて、一人歩こうとした道の途中、踵を返した。

《了》