冷たい手

 ガラス窓をバタバタ打つ激しい雨の音を通り抜けて、弱々しいすすり泣きが耳にはっきり届いたのをよく覚えている。

『あなたの優しさに返せるだけのものが、私にはない』

 学生時代の頃に付き合い始めて、社会人になってから少しずつ距離が開きはじめた彼女は、あの大雨の日ずっと俯いていて、顔を覆って静かに泣いていた。
 彼女がどんな服を着ていたのかも、付き合って一年経った記念にプレゼントして以来、とても気に入ってくれたアクセサリーを身につけていたのかも、俺が彼女に淹れたのはコーヒーだったか紅茶だったのかもおぼろげで思い出せない。ただ、喚くほどの悲しみを示されたわけでもないのに、窓から覗く灰色に塗りつぶされた空と大雨に飾られた、彼女の静かで大きな悲しみがひたすら耳を打つようだった。
 彼女の涙が伝うのを見ながら、どこがダメだったのだろうと思っていた。途方に暮れてかける言葉も見当たらず、彼女の涙を拭うこともなく握りしめていた手は湿った空気が纏わりついて、ただやるせなかった。俺のできる限りを尽くして優しくして一番大切にしたかったのに、どこで間違えてしまったのだろうと理由ばかりを考えていた。

 誰かを助けるのが好きだった。
 自分が手を差し伸べることで笑顔になれる人がいるならその方が良いに決まっていた。「親切をした」という結果から得られるエゴに似た満足とは違う、もっと使命感に近いものだ。多くの人を照らして救う正義のヒーローになりたかったし、そのためならどんなことでもがむしゃらになれた。疲れたって傷ついたって、その先に待つ幸せを考えれば頑張れた。

 だけど、金にならない案件だと一人の少年を切り捨てた事務所を目の当たりにしたとき。何とかしたくて手を差し伸べているのに、助けたいものが自分から遠ざかっていくあの言いようのない喪失感を思い出した。彼女と別れたときと同じだった。
 何のために自分はいるのだろうと思った。多くの人を助けたかったはずなのに、嘘つきの名を受けて、どうして自分はここにいるのだろうと虚しくてやりきれなかった。
 たった一人を見捨てたところで、この先もっと大勢の人間を助けるのは充分可能だったはずだ。だけど彼女の泣き声に、少年の罵声に耳を塞ぎたくて、目を背けられなくて、血の滲むような努力の末に入った事務所に背を向ける方を選んだ。
 ほとんど全てを失ったようなものだったけれど、少年を弁護できて悔いはなかった。大切にしたいたった一人を助けられたとき、自分の手はこのためにあるのだとありありと実感した。その後、弁護士としての仕事がぱったり来なくなってかなり堪えたけれど、この感覚をずっと大事にしたいと強く、強く思った。

 多くの人たちを助けられるなら、どんな苦労だって買って受け入れられた。
 だけど、大事なものが目の前を通り過ぎていく感覚をまざまざと知っているせいか、最大多数の最大幸福とは別に、たった一人、自分の全てを捧げてもいい存在を心待ちにしている自分に気づいていた。
 自己満足を理由に人助けをしたいわけではないように、「この人のためなら何だってできる」なんていう無償の大きな気持ちこそが、この世で一番個人的で、一番純粋な感情な気がしていた。
 そして思う。俺の幸せって一体どこにあるのだろう。

「雨、やまないな」
「待つしかないだろう」

 新しいわけでもない、築何年か経った事務所のビルは、外が曇るだけで急に古さが強調される気がする。昼時だからと電気もつけない室内は薄暗く、雨の匂いがかすかにした。
 今日のユニットとしての仕事を全て終え、翼とプロデューサーが別現場へ行ったあと、予報にもない雨がぽつぽつと降りだした。二人は車で出たけれど、あと残る今日の時間フリーである俺と桜庭は雨の中急いて帰ることもなく、事務所で雨がやむのを待っていた。

 俺の対面に座っている桜庭は、事務所に来てからずっと綺麗な姿勢で台本に目を通している。眼差しは真剣そのもので、親しい者でも声をかけるのを心苦しいと思うほどだ。
 この秋始まるドラマの主役に桜庭が抜擢された。原作の恋愛小説は何度も重版されている程の人気であることも作用し、放送前だというのに早くも世間の注目を集めていた。
 ここ最近では、翼はファッション雑誌への短期連載を兼ねてモデルの仕事を受け持ち、俺はバラエティ番組のレギュラーとなった。俺たちの認知度があがって、個人へ来る仕事量も増えてきたけれど、グループの仕事が減るわけではないから忙しさは日ごとに増していく。
 疲労のあまり一瞬で眠りについてしまう日も少なくなく、プロデューサーの手腕には敵わないと感心したものだけれど、ドラマが決まった際のインタビューで桜庭がこう答えていた。『僕と、僕たちが得た結果です』と。

 自宅でその映像を見ながら、複数形の言葉を主語に選ぶ桜庭を憎めない奴だと思った。三人で歩んできた時間は何にも例えられないほど濃いものだから、照れくさいような、からかいたいようなくすぐったい気持ちに見舞われて、テレビの前で笑みを堪えられなかった。桜庭が知れば呆れた視線を向けてくるだろう。
 それとは別に、桜庭のこれまでの努力を思った。歌とダンスの自主練、基礎トレーニング、反省、予測。仕事に繋がるもの全てに気を緩ませている姿を見た試しがない。そんな桜庭を、身体に力が入りすぎだと揶揄混じりに話す人間もいた。知らないからこそ出る言葉だろうと義憤すら湧かなかった。
 緊張や不安といった不確定要素を飲み込むくらい仕上げて仕事を迎えるのが桜庭の礼儀でもあった。彼を見ている人なら誰だって分かる事実だ。その真剣さを彼の人間性だと心から讃えることができた。
 揺らがない姿勢を素直に美しいと思えた。これがきっと、始まり。

「しかしあの桜庭が恋愛ドラマかぁ」
「…なんだ、その含みのある言い方は」
「桜庭が恋をしてる姿なんて、実物目の前にしても想像できねぇなって」

 くだらないことを言われたと思ったのだろう、憮然とした態度で押し黙る桜庭に笑みで誤魔化す。少しのからかいたい気持ちと、ほとんどが本音みたいなものだった。
 原作の小説は主人公が恋人と共に夢を叶えていく、ある意味王道のストーリーだ。しかしそこにはドラマに満ちた紆余曲折があり、読者は目が離せない。話の内容よりも、緻密な描写が評価されている作品だ。何度も見たことのある話の構造のせいか、どこか第三者的な視点で話を追いながらも、随所に挟まれる心情描写に、己を脅かされている気持ちになった。

「桜庭は誰かを好きになったことはあるのか?」
「…僕がその質問に答えることで君と何の関係があるというんだ?」
「そんな目で見るなよ、別にからかいたくて質問したんじゃないって。聞いてみたかっただけ」

 答えを貰わなくても良かった。聞いたところであまり意味はない。この質問をしたのは初めてだけれど、その答えを随分と前から知っているから。

「答えを言えば、ない。そんなことに現を抜かすほど暇ではなかったからな」
「おいおい、「そんなこと」呼ばわりかよ。そんなんで主役できるのか?」
「あくまで主観だ。主人公が恋人をどう思っているかくらい分かっているつもりだ」

 身が千切れるほどの切なさも、結ばれたあとに訪れる大きな喜びも、桜庭には関係がないと言う。桜庭という人間はそこまで一貫されていた。そうだと分かっていたから嬉しいのに、出てくるはずのない別の答えを欲して胸の内がぎりぎり締めつけられていく。
 小説はハッピーエンドで幕を閉じる。夢が叶った主人公の隣には、この世で一番大切な恋人がいる。一体どれだけ幸せなことかとこれでもかと書かれているシーンのせいで、俺がこの幸せを手に入れられるのか否応なしに考えさせられた。
 主人公がとても羨ましかった。好きな人が側にいることを中途半端に知っているせいで、素晴らしいに違いないと心から思えた。その望みが、塞ぎこむことで守ろうとする気持ちに緩やかなヒビを入れていく。

「主人公のこと、羨ましいとか思わねぇの」
「思わない」
「容赦ねぇな、ほんと」
「この主人公の考え方を否定しているわけではない。僕がそう思わないというだけだ」

 雨雲を通した少しの光に輪郭を照らされた桜庭は台本から目を逸らさず、淀みなく答える。正しくて、ならなかった。そこに反論を加える余地など俺にはなかった。
 桜庭にとって言葉選びに傷ついていく自分を認識しているのに、どうして確かめようとするのだろう。この諦めの悪さが嫌で仕方がなかった。今度こそはこの手で留めようと願う心から差し伸ばすのは、結末を知っている欲望。

「俺は、羨ましいよ」
「…天道の話は別に聞いていないが」
「たくさんの人を助けられて、そのうえ好きな人まで自分の側にいたら、きっと死ぬほど幸せだろうな」

 自分に置き換えたような言葉に、桜庭が、まるで初めて見るみたいに顔をあげて俺と向き合う。目は細められて、どう答えていいのか、俺が何を考えているのか図りかねているようだった。
 一生胸に秘めたままでいようと決めていた気持ちは、桜庭によってひび割れていく心の隙間から絞り出されて止まらない。

「さっきから何が言いたい」
「桜庭は本当に真面目だよなってこと。恋人いらないとまで言うか?」
「信念や目標があればそれを叶えるのは、最後は自分自身だからな」
「そうだよな、知ってる」
「…天道?」
「桜庭のそういうとこ、好きだよ」

 自覚してから何度も頭に思い浮かべた、悪夢にも近い想像の中ではあんなに言うのを躊躇われていた告白は、口にすれば驚くほどたやすかった。突然の言葉に目を見開く桜庭よりも、俺の方がそんなことを言った俺自身に驚いていた。
 話の流れから流石に俺がふざけているとは思わなかったのか、桜庭は閉じた台本に少し力を入れて握りしめた。

「天道、好きというのは…」

 言葉尻が途切れた。何よりも重い沈黙が満ちるとやむ気配のない雨の音が二人の間を割って入って、埋まることのない溝を深めていく。
 分かっていた反応だった。全てが想像の範疇だったことに意外性も何もなく、ただ誤った俺が取り残される。
 天道、と名を呼ぶ声がやたら遠くに聞こえた。もう桜庭の顔を見ることなんてできなくて俯く。自分の脚ははたしてこんな小さかったかと思うと心許ないくせに、世界に俺しかいなければいいなんて滑稽なことを思う。

 この三人で夢を叶えると決まったあの日から、血よりも濃い時間を過ごしてきた。
 代えの利かない、尊敬すべき、愛すべき仲間と出会ってから、今までにない苦労もあったけれど、手に入れたのはこの手から溢れそうなほど大きくてかけがえのないものだ。
 数万人と入るライブ会場で見られるたくさんの笑顔、届くのは希望に満ちた激励や感謝の言葉の数々。今までにないほど満たされていた。この身体はまさしくこのためにあるんだと芯から思い知らされた。
 そのはずなのに、どうして心の在りようを誤ってしまったのだろう。

 どこがダメだったのだろうと考えた。
 リハーサルで観客のいない客席を見つめる視線や、インタビューに答える言葉により大きな意味が隠されていると気づいた。桜庭の描く未来も、そこに向かっていく彼自身も出会ったときから揺らがなかった。
 俺が多くの人を助けたいように、桜庭にも目標があることを知って、きっと誰の手も借りないことを知りながらも、何か俺にできることはあるか、なんて思った。あの冷たく澄んだ瞳が、誰も見たことのない色に染まり俺を捉えて、手を取ってくれたなら。他人同士の助けあいの枠を超えたいと願ったとき、全ての過ちに気づいてしまった。
 自身の持つものが及ばないやるせなさを、あの大雨の日に全て知り尽くしていれば良かった。あの日にうんと後悔して、もうこりごりだと痛感していれば、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか。

 たくさんのものを手に入れた。本当に本当に、幸せだった。
 それなのに、過去と今を経て手に入れたものの重さを知ってなお、たった一人、きっと自分の全てを捧げたっていい思う人が俺の手を必要としない喪失感を拭えきれないのが、ひどくやるせなくて堪らない。
 一番大事にしたい人がいて成り立つ幸せをまだ知らないままだった。

「俺、桜庭を好きになってからずっと苦しいんだ」

 揺れる視界の中に、たった一人を此処へ繋げられない手が映る。どうしようもなく焦がれているのに、どうしたって手に入らないものを知ったあの虚しさが指の先から広がって、痺れるように冷えていった。

《了》