愛より深い(再録) - 1/13

 声を出そうとして喉が引き攣った。溺れたときみたいに喉周りの筋肉が突っ張って、慌てて息を吸い込むようにひゅうと喉の内側が鳴る。だけど内側は空気が流れるばかりで声が全く出てこない。馬鹿みたいに口を開くだけで歌なんて歌えそうもなかった。レコーディングルームの窓から北斗と翔太が心配そうにこちらを覗きこむ視線が針のように刺さる。

 歌を歌おうとして、声がまるで出てこなかった。
 どうして――視線を受けて疑問が一気に焦りに変わる。いつもの発声方法じゃなくて、話すような素人の歌い方で歌おうとしてもメロディを紡ぐことができない。防音室の中一人で四苦八苦する俺の様子を見かねたのかディレクターからストップがかかってしまった。
「天ヶ瀬くんどうしたの?」
「すいません! …なんか声が出なくて」
 この瞬間、声を出してすらすら喋っておきながら何を言っているんだと自分で思った。窓の外の怪訝そうな二人の顔と目が合わせられない。深呼吸して一旦気を鎮めて、もう一度歌おうとして最初の音を出そうとした。だけど声帯に石でも詰まってんのかと思うほど音符がそこで突っかかって出てこない。喉の調子がおかしいのか? 試しにいつも喋るみたいに声を出したけれど、いつものような声が出た。ただ、歌おうという意思を持って声を出そうとすると喉で音が詰まる。
 目の前がぐらりと大きく揺れた。レコーディングルームから出てこいと指示されおとなしく後にする。まず初めに憮然としたような腑に落ちない表情のディレクターと目が合った。次に、困ったような、不思議そうなそんな表情で俺を見つめる北斗と翔太、それにプロデューサー。人の視線がこんなに痛いだなんて知らなかった。何か言おうにも普通に喋ったところで歌えなかったことへの言い訳なんて成り立ちそうもない。惨めすぎる気持ちに俯くことしかできなかった。
「いったいどうしちゃったのよ天ヶ瀬くん」
「本当にすいません、俺…」
 何と言おうか言葉を探す俺の前に北斗と翔太が庇うように立った。
「冬馬くん最近自主練とか無理しすぎたんじゃない? 新曲に気合入ってるからって夜遅くまで起きてボイトレとかしてたじゃん」
「冬馬の自主練、見てるこっちが心配になるくらいだったよ」
 俺の方をちらりと見やりながら二人がそうディレクターに説明する。だけど夜遅くまで自主練なんてしてなかった。がむしゃらにそんなことをしていた時期もあったけれど、日中にフラフラになった経験からやめようと反省して、とっくの前から効率重視でレッスンをするようにしていた。違う、と衝動的に言いそうになったけれど翔太に視線で抑えられてただ唇を噛む。
「…レッスン頑張るのもいいけど、こうやって収録のときに使い物になんなきゃ本末転倒だって、ジュピターのリーダーが一番よく分かってるんじゃない?」
「…はい、本当にすいませ――」
「あー、もういいよ。今日は二人分収録したしこれでおしまいね。プロデューサーさん、日程調整しましょうかね」
 機嫌を損ねたディレクターが俺に目もくれずさっさと部屋を出ていってしまう。一瞬俺たちを見たプロデューサーがその後を慌てて追いかけていった。ドアが閉じて足音が遠ざかるのをきちんと聞き届けてから、翔太が拗ねたように唇を尖らせてみせる。
「あの人、いい曲作ってくれたけどちょっとせっかちだね」
「まぁ良いものを作る人ほど気難しいっていうのはよくある話だし」
 笑って北斗がそう言う。俺はそこに何のコメントを入れることもできずにひたすら俯いてばかりだ。歌えなかったのに喋れることがひどく恥ずかしい気がした。
 なんで、どうして――同じ言葉ばかりが胸の内をぐるぐると回る。喉元をさすってみても歌えなかった原因なんて分かりやしない。俺の様子に気づいた翔太が屈んで俺の目を覗きこんだ。
「冬馬くんどうしたの? まさか本当にレッスン疲れ?」
「ちげぇよ! でも…分かんねぇ」
「歌うときだけ声が出ないって感じ? 声帯が疲れてるのかもしれないな」
 北斗はそう言うけれど、最近無理に声を張り上げるようなイベントをやったわけでもないし、その説明だと歌えなかったことの理由がつかない。俺が何も言わないせいか北斗と翔太も黙ってしまって嫌な沈黙が生まれたとき、ドアが再び開いてプロデューサーが入ってきた。
「冬馬くん、レコーディングは三日後になりました。そのあとすぐスタジオに移動だからスケジュールがちょっと大変になりますが」
「…分かった」
「今日はレコーディングで終わりでしたし、時間あるから病院行きましょうか。検査すれば原因が分かるかもしれません」
「…そうだな」
 正直あまり気乗りしない。自分の身体に得体の知れないことが起きていることが怖かった。前に進もうとしない俺の背中を翔太がドンと押す。けっこうな痛みに顔をしかめると翔太は俺の様子を見て笑ってもう一度背中を叩いた。
「いってぇ! 何すんだよ!」
「あはは、そんな元気だったら何もないよ。さっさと行ってきてちゃちゃっと終わらせてきなよ~冬馬くん病院怖いの?」
「そうだよ、冬馬。プロデューサーの言うとおり何か分かるかもしれないからさ。それとも付き添いしてほしい?」
「いらねぇし怖くねぇよ!」
 思わず怒鳴り返すと二人はますます笑って俺にいってらっしゃいと言った。ちくしょう、何も懲りてない、昔からこれだ。だけど歌えないのは嫌だったし、このまま原因を一人で考えるよりかは病院に行った方がまだ何もしないよりマシだろう。
「いってらっしゃい」
 プロデューサーの後について背を向けると、二人の重なった声が聞こえた。それがレコ―ディングルームに入るときの調子と全く同じものだったから、なんだか根拠もなく俺の身体には何も起きていない、そんな気がした。
 ちょっと疲れちゃったんですかね、とプロデューサーが手帳を見ながら苦笑する。別に疲れてねぇと答えたけれど、この得体の知れないものが単なる疲れのせいだったら、と頭のどこかで祈るように考えていた。