愛より深い(再録) - 7/13

「――冬馬」
 誰かが額を撫でた。あたりが眩しい。ゆっくりと目を開けると俺を見下ろす北斗の顔があった。心配そうな表情で俺の前髪を人差し指で掻き分ける。目の前が一気に明るくなって思わず眉間にぎゅうと思い切り皺を寄せた。
「…寝てたのか」
「三十分くらいね。でも寝てたどころかうなされてたぞ」
 北斗がもう一度額に触ってきて、そこで初めて自分が汗ばんでいることに気づいた。空調がごお、と静かに鳴るのが聞こえる。室温は快適なのに身体は汗のせいか少し冷えていた。またあまり良くない目覚めだったけれど、朝よりかはいくらかましだった。身体も少しだけすっきりしている。
「…よく寝た」
「本当かよ」
「マジだって。ありがとう、北斗」
 起き上がって壁に備えつけられている鏡を覗きこむと、顔色も今朝の出際に比べたらましだというレベルだけれど確かに良くなっている。完全に良いとは言い切れないけれどメイクでなんとかなるだろう。
「なんか嫌な夢でも見たのか?」
 寝起きでまだすっきりしない意識でぼんやりと鏡を見ていると、北斗が俺の寝癖を撫でて整えながら未だに心配そうな顔でそう尋ねてきた。
 俺は夢の中で聞いたクラスメイトの声を思い出す。何を言っていたのかもはっきりと覚えていた。言ってしまえば、今朝の夢で言われたことだって。だけど北斗には忘れた、と答えた。スタンバイに入る前に言うべきことじゃないと思った。北斗は俺の目をじっと見つめて何か言いたげに口を開いたけれど、その前にドアが開く音が俺たちの間に割り込んできた。
「おっはよー冬馬くん北斗くん」
 のんびりとした声で翔太が挨拶をする。翔太は互いに向き合っていた俺たちの顔を丸い瞳で見比べると、ちょっと怪しむような目つきになった。
「何、どうしたの?」
「いや、その」
「冬馬眠いんだってさ、今日」
「な、ちが――」
「えーそうなの? 冬馬くん眠いからってヘアセット中寝ちゃダメだよ?」
「寝るか!」
 翔太は俺の様子を見て楽しげに笑うと、いつもみたいにごろんと楽屋の畳の床に寝そべった。そしていつものように「時間来たら起こしてね」と言うとそれきりぱったり口を閉じて一緒に目も閉じた。…翔太は時間があれば台本を読み返すこともあるけれど、余裕があれば寝るか食うか携帯ゲームで遊ぶかしかしない。しょうがない奴だな、と軽く溜め息をつくと、実際口に出したわけじゃないのに北斗が「冬馬もだぞ」と硬い声で言ってきた。
「翔太と一緒に寝なよ、起こすから」
「別にいいって」
「…本番ミスするなよ?」
「分かってるよ」
 歌が歌えない原因が分からないことを知っているからだろうか、北斗はそれ以上何かを言おうとはせず俺から視線を外すと再び雑誌を読み始めた。ミスしないように、なんて俺が一番よく分かっていることだ。北斗の言葉がやや癪に障ったけれど、自分の顔色を思い出すと北斗がそう言いたくなる気持ちも分かるから俺は反論できずにいた。
 手持無沙汰になったから鞄から携帯を取り出してメッセージが届いてないかを確認する。何も届いてない画面は、デビュー当初はクラスメイトからのメールでいっぱいだった。忙しくなるにつれてそれにどんどん返信できなくなって、次第にメール自体も届かなくなっていった。
 携帯のアドレス帳を開いて、そこに並ぶ名前を見る。中には顔を思い出すのに時間がかかる人もいた。かつて仲が良かった奴、デビューしてからしばらくもメールで応援してくれていた奴。俺の目の前を通り過ぎていった人は、身近にいるだけでもとても多いことに気づく。
 もう一度喉に軽く触ってみて、もし俺が歌えなくなったのだと言えばクラスメイトはなんて返すのだろう、そんなことを一瞬だけ考えた。