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身体を勢いよく起きあがらせたせいで強い眩暈に襲われる。手に触れているシーツが寝汗でぐっしょりと濡れているのが分かった。
――夢? 心臓は夢の続きみたいにバクバク動いて、スウェットの生地が汗を吸い込んだのか分かった。枕元に置いてある携帯を見るとアラームをセットした時間よりもまだ一時間以上も余裕がある。さっきのが夢で良かったという妙な安心感とひどい夢を見たという苛立ちで頭の裏に一瞬ぴきりと割れるような頭痛が走った。
スウェットはもうびしょびしょで二度寝する気にもならない。昨日眠気を堪えながらシャワーを浴びた意味がまるでない。また浴び直すか。あまりすっきりしていない頭を掻きながら洗面台に向かう。
薄暗い部屋の中、鏡を覗きこむとどう見ても良いとはいえない自分の顔色と向き合うことになった。一応最低レベルでは寝たはずなのに目の下には暗い陰が落ちていて、なんだか別人にも見えてくる。顔を洗ってみたけれど全然変わらない。しかめた自分の顔をちょっと睨んでから洗濯機に適当に服を放り込んで少しだけひんやりとした浴室に入る。
ノブを捻って頭から熱いシャワーを浴びる。すると夢の中で感じたつめたさがいくらか和らいでほっとした。だけど気分があまり良くならない。胃のあたりがムカムカする。気づいたらまたしかめっ面になっていた。あぁもう最悪だ、夢なんて起きた瞬間忘れることが多いのにどうして。
排水溝に吸い込まれる水をはっきりしない気持ちで眺めながら夢の中で聞いた声を反芻する。黒井のオッサンのことは今でも時々思い出すことはある。それこそ事務所を移ってからは夢に出たこともあった。ただ、なんだろう…出会いのときとはまた違う、ひどく強烈な印象をこうも残されたのは初めてだった。
シャワーと一緒に夢の中で確かに聞いたオッサンの言葉を洗い流してしまいたかったけれど、そう上手くもいかないみたいだ。歌がなければどう生きていくんだ、か。芸能界を知り尽くしているオッサンが口にするとある種の説得力と凄みが生まれるようで少し辟易する。
歌がなくたって。勢いでも俺はそう言い返すことができなかった。歌がなければ――アイドルとして立つことなんてできない。
昨日の行動をなぞるように喉元に触って、まずは試しに声を出す。起きたばかりでほんの少しだけ枯れていたけれど、とうに聞き慣れた自分の声がそこから出た。次に歌おうとして――喉の内側が何かにぎゅうと締めつけられるように苦しくなって、歌声は出てこなかった。首を絞められるというのはこんな気分なんだろうか。軽く喉をつまむ。
ばしゃばしゃと水滴があらゆるものを打つ音がなんだか遠くの方から聞こえてくるようだ。
不思議と確信めいたものがある。なんだろう、これは、きっと、病気じゃない何かだ。
それを頭ですとんと理解して受け止めてしまった瞬間、温かいお湯を頭から浴びているはずなのに、血が全て足元に下ってしまったような冷えた心地を味わった。あー、とマイクテストのときみたいな自分の声がひどく馬鹿っぽく聞こえる。歌えない、だなんて。本当にどうしちまったんだよ、なぁ。目の前の鏡を覗きこんでみると、歌を歌えない自分がそこにいて、それが他人のように思えた。
本当にとてつもないことが俺の身体に起きているはずなのに、なぜだか事の大きさを受け止めきれない。昨日レコーディングルームにいた時の方が遥かに慌てていた。今は温かい空気の中にいるからだろうか、ふわふわしたような、だけど確かにまずいことだけは分かっているような、色々なものが信じられないような気持ちだった。だって、まさか、歌えないなんて――もう二度と?
「そんなわけあるかっ!」
風呂場に大声が反響して耳がきんと鳴った。鏡に打ちつけた拳がじんじんと痛くて、シャワーのしずくが当たるとより痛む。ちくしょう、どうすればいいんだよ。頭を掻きまわせば濡れて重たい髪の毛が指に絡みついた。
苦しい。このままだとあたたかく気持ちいい空気に混ざって、夢の中のあの重さがじわじわと自分の身体に這い上がってくるみたいでたまらず浴室を出た。色々なものを拭いたくて思わずタオルで乱暴に肌をこする。
慌てるな、冷静になれ。…一度頭の中をすっきりさせるつもりで深呼吸をする。今日は収録だけだ、歌は歌わないから大丈夫、プロデューサーもきっと番組のスタッフに話を通しているはずだ。…――思考を整理していくうちに自分のことがとても情けなく思えてきた。
もしかしたら今日、どこかに新曲の歌を入れる時間枠を取ってもらえたかもしれない。新曲はダンスナンバーで、でもミドルテンポだから歌声を聞かせる余地も充分にある、今までにないような大人っぽい曲だ。特に翔太は今までの曲との良いギャップが作れると、曲をもらったとき俺たちはプロデューサーと一緒に期待を膨らませたんだ。それを、俺が歌を歌えないからってアピールできないのか? 考えるだけでひどく嫌でつらい気分になった。
いつでも出かけられるような服に着替えて、だけどまたリビングに戻って来たとき、なんだか途方に暮れたようにそこに立ち尽くしてしまった。朝飯を食わなきゃと思いながらも、まるで意識が喉に持っていかれたかのように別のことへと身体が動かない。こんな間抜けた調子でいいわけがない。だけど――あぁ、もう、どうすればいいんだ。
そのとき、着信音が寝室の方から聞こえてきた。それに集中力を呼び戻されたようにハッキリさせて音の方へ向かう。
枕元に置きっぱなしだった携帯には新しいメールが届いていた。送信主を見ると北斗からだ。開いてみると、まず始めにおはようと挨拶が書かれている。それで俺は随分と朝早くに目が覚めてしまったことを再認識して、思い通りにならない身体に苛立ちを感じた。
『よく眠れた? カモミールは安眠作用にもいいんだって。だからもし今日あまり寝られてないようなら本当にいつでも部屋においで。
今日は撮影だな。あのバラエティ見たことあるだろ? 身体張るやつは任せたぞ☆』
おい、任せるってなんだよ。文章にする前に思わず口に出してしまって、それから俺は今日目が覚めてから初めて自分の表情が緩むのを自覚した。ふざけたようなメッセージでも、北斗からの言葉は今みたいな精神状態には染みるようにありがたかった。昨晩電話した時の北斗の声の調子を思い出すと、あいつなりに気を遣っているのも分かったから尚のことだった。
カモミールティーは喉と安眠に効く、か。今の俺にまさしく必要なものだと思うと正直苦笑いが浮かぶ。だけど北斗の部屋に久々に行くのも悪くないなと思った。北斗の部屋はとても静かだ。喧騒を避けたところに部屋を借りているのもあるけれど、服とアクセサリー以外の物が思ったよりも少なくて、インテリアもシンプルですっきりしたやつばかりだからか、こちらになんだか静かな印象を与える。
だから俺は北斗の部屋だとロケ地で借りるホテルよりも遥かによく眠れるんだ。物音少ないし、北斗の部屋だしで。それを北斗に言ったら「俺としては緊張してほしいんだけど」とやや呆れたような顔をされた。
北斗の部屋で安らげるようなお茶を飲んだらきっとさぞかし心地よく眠れるのだろう。携帯の画面越しに北斗の部屋にある大きなベッドと、かすかなルームフレグランスの香りと北斗の落ち着いた声を思い出す。
今、無性に北斗に会いたい。喉をさするとそんな強い欲求が、今までの途方に暮れたような曖昧な気持ちを塗り潰すみたいに一気に湧いた。
