愛より深い(再録) - 2/13

 玄関扉はいつもより重く感じた。電気をつけて、いつもなら手洗いうがいをするけれど、その習慣がかなり面倒に感じてしまってリビングにあるソファに倒れ込む。一度寝転がるともう何もしたくない無気力に襲われて、こんな気分になるのは初めてだった。
 適当に床へ置いた鞄から紙袋を取り出す。中には喉が嗄れたときに効くという漢方薬が入っていた。病院に来たからと言って薬なんて必ず処方しなくたっていいのに。この薬だって苦し紛れで出したに違いない、だって、患者には何もなかったのに。
 問診から始まって、口を開いて喉を見られるだけじゃなくて細い管みたいなものも突っ込まれて。喉を暴かれた結果は「異状なし」だった。診断結果を伝えられて信じがたい気持ちで試しにその場で軽く歌おうとしたけれど、聞き慣れた旋律も、適当な音も何も出てこなかった。喉の奥に何かが詰まったような、声帯が縫われてしまったのかと思うような締めつけられる感覚にそこから身体が凍りつくようだった。
 医者とプロデューサーの困ったように俺を見る視線が未だにこびりついているようだ。空いた時間にまた来てくれと言われたけれど、何もしなかったらこのままである気がしてならなかった。今日既に何回も触っている喉元に触れる。俺の喉に今何が起きているのか。自分の分からないことが自分の近くで起きるというのはこんなに――不安にされるものなんだろうか。
 鞄の中で携帯の着信ランプが光っているのが見えた。手にとって見るとメールが何件か届いていて、北斗と翔太からだった。病院怖くなかった? という絵文字つきのからかうような文面と、ゆっくり休んでという励ましの文面に固くなった心が少しだけ楽になる。
 だけど明日も仕事だ。バラエティ番組の撮影だから歌が出てくることはないと思うけれど、俺はどういう顔で二人に会えばいいのだろう。何もなかったと言うのは簡単だけれどまるでその場しのぎだし、それに三日後に収録だ、もしそれまでに治らなかったら――こんなにスケジュールに関して気が滅入るなんて初めてで、何もやりたくないというこの気持ちにも嫌気が差して、今はもうソファでもいいからこのまま寝てしまいたかった。
 目の奥がなんだかぐるぐるして眠れる気がしなかったけれど、せめてもと携帯でアラームを設置して無理に目を閉じる。途端、電話の着信音がした。一瞬身体が固まる。どうして着信音って心臓にちょっとした驚きを与えるんだ。正直に舌打ちが出てしまって画面を確認すると、そこには北斗の名前が浮かんでいた。
「…もしもし」
『あぁ、冬馬。お疲れ』
 …電話越しの北斗の落ち着いた声を聞いて自分が安心感を覚えたのが否めなかった。今さっき舌打ちしてしまったことを反省する。あんな体たらくを見せた後だ、新曲が決まったこの時期じゃ心配するに決まっている。案の定北斗は俺が予想していた言葉を言ってきた。
『病院、どうだった?』
 なんて答えようか一瞬考える。嘘はつきたくなかったけれど、このままありのままを伝えても心配を助長するだけかもしれなかった。
「…なんもないってよ」
『…そうか』
 何てことのないように答えたつもりだったけれど、何か不穏なものがある雰囲気は伝わってしまったらしい。北斗はやや声のトーンを落として返事をした。電話越しの静かなノイズが今は重苦しい。なんて言おう、なんて言おう――こんな焦りを感じたこと、最近じゃ全くと言っていいほどなかった。前の事務所にいたときや今の事務所にいるとき、どっちでも予想外のトラブルやアクシデントが起きたりすることもあった。だけど、そのときの焦りとはなんだか種類が違う。…自分だけじゃ何もできないから、だろうか。
「だけど明日はちゃんとやってみせるし、再レコーディングの日に必ず間に合わせる」
 北斗から何かを言われたわけじゃなかったけれど、俺の口は自然とそう言っていた。俺が変なミスをすることで、もう北斗と翔太の顔にまで泥を塗ってたまるかという責任感が口をついて出てきた。
 北斗は何かを飲もうとしているらしい。電気ケトルの湯が湧くぽこぽこという音がかすかに聞こえてくる。その音に混じって、北斗が空気を抜くようにくすりと笑う声が聞こえてきた。
『冬馬はやっぱり俺たちのリーダーだな』
「どういう意味だよ」
『無理するなってこと。何もないって医者の言葉を信じよう。近いうちにでも治るよ』
 気楽そうな北斗の言葉を聞きながらなんだか釈然としない思いになる。こいつ、こんなお気楽な奴だったか? それとも俺を励ましてくれてるんだろうか。嫌でも今までも励ましてくれることはあったけれど。僅かに感じた違和感に答えかねていると、北斗が機嫌良く歌うように俺に告げた。
『冬馬。前俺の部屋に来たとき淹れた飲み物覚えてるか?』
「は? …あー、えぇと、…紅茶、ぼんやりした味の」
『アバウトだなぁ。カモミールのハーブティーだよ。あれ俺が飲み始めたの、喉にいいって聞いたからなんだ。特にこの時期急に冷える日もあるし、あったかい飲み物欲しいからね』
「そうか」
『…冬馬もまた飲みたくなったらいつでも部屋に来いよ。人伝に教えてもらっただけだけど、品質いいやつならうちにたくさんあるから』
「わかった、サンキュ」
『起こしちゃってごめんな。おやすみ』
 電話越しに聞く北斗の声は生で聞くよりも落ち着いているように感じる。だからだろうか、通話が切れてツーツーという音が聞こえた途端急激な眠気が襲ってきた。だけどソファから起き上がってシャワーも歯磨きも、その前に手洗いうがいをして寝ようと思った。こうして心配かけられてるのにやる気がしないからって何もせずに寝るのは自分で許せなかった。
 もう一度喉をさする。ここに何があるか分からない。だけど歌えないあの感覚を思い出すと、石だか骨だか何か固いものがあってもなんだかおかしくない気がした。早く治るといい、それだけ思って喉仏を軽くつまんだ。