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「おはよう」
ドアを開けた北斗は笑顔で俺を迎え入れた。ガシャンとドアの閉まる音がしたとき、これで、これで何を言っても、この空間では北斗と俺だけの秘密になる。そのことに大きな安らぎを覚えるほど、朝目が覚めたときから身体が強張って硬かった。
「今日は久々にあったかくなるみたいだけど朝はやっぱり寒いね」
「…そうだな」
「だからと思ってさ」
リビングに俺を招き入れた北斗は俺を座らせると目の前にティーカップを置いた。覗き込むと湯気がたっている薄い黄色に小さな花が浮いていた。顔をあげると北斗が向かい側に座ってニコニコと笑って俺のカップの縁を撫でる。
「前話したハーブティーだよ、名前覚えてる?」
「え? あー…、…カモミール、だっけ」
「覚えてんじゃん」
正解、というように北斗が指先でカップを弾くと軽い音が鳴った。確か安眠効果があるとか言っていたやつだ。ハーブティーだからだろうか、なんだか独特なその香りと色にためらいを覚えながら一口飲んでみると、スパイスを扱っている専門店で嗅いだことのあるような香りがした。飲みやすいようにわざわざ砂糖を入れてあるみたいだ。飲み込めば今まで外気にやられて冷えていた指先が温まっていくのが分かった。顔の筋肉が少しずつやわらかくなっていくような、ほっとした気分になる。
「うまいな」
「それは良かった」
北斗も安心したように笑ってテーブルに肘をついた。そのまままだセットしていない髪を指先で弄んでぱたりと何も言わなくなる。何の言葉もない、だけど居心地のいい沈黙が俺たちの間に生まれた。
北斗の部屋に使われているルームフレグランスの名前までは思い出せなかったけれど、この部屋は相変わらず物音が少ないのによく眠れそうな、そんな感じがした。
指先から始まって身体がどんどん温まっていって、今なら何でも言えるんじゃないか? という気になっていった。タンポポの色を薄めたみたいな色のハーブティーに映る自分の顔は疲れとも何とも言えない暗いものが滲んでいるようにも見えた。
「俺さ、まだ歌歌えないんだ」
出す声が意図せず少しだけ震えた。俺の言葉を待っていた北斗は顔をあげて俺をじっと見据えた。その瞳の強さに一瞬言葉が詰まるけれど、なんとか今の自分の気持ちに近い言葉を探して震えないように口にする。
「病院行っても原因がわかんねぇとか言われるし、変な夢ばっか見るし…」
「……」
「考えたことなかった。今まであったものが突然なくなるとかさ、そんな…」
「……」
「…歌があったから、今の俺があるようなもんなのに、…」
不安の殻が破けて中身が押し出されるようにこぼれていく。ベージュの机にぽたぽたと濃い染みができた。頬と目の奥が熱くて額のあたりがずきずきと痛くなる。今まで実感の得られなかった感情が形を持ち始めて俺の中を支配する。
「このまま歌えなくなったらって考えたんだ! もう昔には戻れない…アイドルやめることなんて考えたこともねぇよ、それなのに俺は歌が歌えなくて、…そんなの…、自分でも意味ない…」
声がどんどん細く掠れていく。喉が締めつけられるように苦しい、まるで歌を歌うときみたいに。涙が次々出てくる裏で今まで俺の目の前を通り過ぎた人たちや、俺が置いてきた人たちのことが浮かんだ。俺の歌を価値づけたのは決して俺だけじゃないんだ。それなのに歌をなくしたら、俺は――。
北斗が目の前にいるのにも関わらず、馬鹿みたいに泣きじゃくった。こんなに自信を失くすことなんてなかった。不安で不安で、何より怖かった。途方に暮れたような気持ちで、誰かに縋りたくてたまらない。迷子みたいなものだった。だけど俺は、もしもずっとこのままだったのなら、一体何を見つけようと歩けばいいんだろうか――。
顔を押さえる俺の手を北斗が掴んだ。無様に泣く姿を見られたくなくて顔を逸らす。北斗が俺の名を呼んだ。冬馬、とまさしく迷子に呼びかけるような、とても優しい声で。
北斗の方を向くと北斗が困ったようにも見える、眉尻を下げた笑みを浮かべていた。そのまま俺の手に自分の手を絡めて握り締める。いつもは北斗の手はとても冷たいのに、今だけはひどく熱く感じられた。
「…冬馬。俺がクリスマスのときに話したこと、覚えてる?」
「クリスマス…?」
何のことを言っているのかはすぐに思い出した。
昔、ピアノを本業だと考えていたこともあったんだ。今は、諦めているけれど。
そう考えていた過去に思いを馳せるかのような横顔を見せた北斗がピアノの側にいた、あの日。冬馬のような強さがあれば、と俺を見る瞳に映っていたのは本当に俺だったのだろうか。北斗がもしピアノを諦めていなければ、今の俺たちはどうなっていたのかは分からない。
「今まであるのが当然だと思っているものだって、すごく大事なことがある。俺の場合、ピアノがそれだった」
今の、ひたすら泣きまくる俺の姿を見て北斗は何を思っているのだろう。絡めている北斗の手がかすかに震えているのが伝わる。その時の――北斗の感情がそこから伝わってくるみたいで、俺は何の言葉も返せずにいた。
「もう今まで通りピアノが弾けないって分かったとき、最初は信じられなかった。ほとんど自分と一緒に生きてきたようなものなのに、いきなりいなくなるなんて、そんなことあるはずないと思ってた」
「…北斗」
「だけど実際にピアノを目の前にして、譜面を思うように弾けなくなったことを実感したとき…恨んだよ。自分のことも、ピアノが弾けなくなった俺から離れていった人のことも、何もかも」
自分にとって共にあるのが当たり前だったものが唐突になくなってしまう瞬間。北斗にとっての過去のピアノで、俺にとっての今の歌。北斗は――どうやって過ごしてきたのだろうか。ピアノをなくしてから、俺たちに出会うまで。
「もう自分には何の価値もないと思った。ピアノを失って、夢なんてそこでなくなって。そんな中でアイドルの話を持ちかけられたから、最初は本当になんとなくだったんだよ。でも…」
俺の言いたいこと、分かるか? 瞳の奥で俺のことを覗きこみながらおどけたように笑う。笑っているのになんだか泣きだしそうな笑みに見えるから、涙はまだ少しずつこぼれていくのに不思議と俺もつられて笑いそうになった。笑いたかったのに、ピアノを目の前に途方に暮れる北斗のしくしくとした気持ちが痛いほど分かるみたいでうまくできなかった。
「冬馬、もし歌が歌えなくなったとしても、冬馬なら絶対に別の道を見つけられるって俺は思う」
絡めていた手を離して北斗が腕を伸ばす。俺の髪の毛に撫でるように触ったのが心地よくて俺は目を閉じた。静かな部屋、北斗の落ち着いた声は不安と恐怖でいっぱいだった俺の身体に深く浸透していく。
「冬馬の強さがあれば何でもどうにかなっちゃうんじゃないかなって思うんだ、本当に」
「…北斗」
「…昔の俺にはできなかったことだって、たくさん」
閉じていた目を開いて北斗の顔を見る。
一度大切なものを失ったからそんな自虐にも聞こえるような言葉が出るのか? 俺は今まで見てきた夢のことを思い出す。今まで気にする機会なんてなかった過去に、自分を大きく揺さぶられるあの瞬間。
俺の髪に触れていた北斗の手を、今度は俺が握り締めるような形で取る。北斗は驚いて目を開いて俺を見た。
「もし、歌を歌えなくなったら…俺だって北斗と同じ気持ちになると思う。いや、絶対なる」
「冬馬」
「北斗。今のお前だったら俺に何て言う?」
ある種の賭けをしているようだった。北斗の瞳が石を投げ込んだ湖みたいに一瞬大きく揺れる。きっと今の俺は北斗からすれば昔の自分みたいに見えるはずだ。だけど今度は違う。北斗はどうするんだろうか。
北斗は俺の手を振り払って――頬に触れる。熱い手、血がそこに通っているのが分かる。そのままテーブルから身を乗り出して、泣いたせいかじんじんと痛む俺の瞼にキスをした。まるで北斗の熱がそのまま移ったみたいに瞼の皮膚が熱くなる。
「…俺、頂点目指すなら俺と翔太しかいないって冬馬が言ったの、本当に嬉しかった」
「…当たり前だろ」
「当たり前、か。うん、…そうか、なら」
囁き声が額のあたりからそのまま響くように伝ってくる。
「俺と翔太もいるよ。…俺たち、ここまで来たんだ。冬馬がここまで引っ張ったんだぞ。何でもできるしどこへだって行けるよ」
冬馬のような強さがあれば。そんなことを言った北斗と、今こうして俺にとてつもなく優しい言葉をかけてくれる北斗が同じ人だと思うと、ピアノを奪われた北斗はひどく寂しいような、だけど前を見ることができず恨みと悲しみを募らせていた北斗が俺たちを選んだことにすごく嬉しいと言いたいような、複雑で変な気持ちになった。
その気持ちとほのかに漂うカモミールの香りが目の前で混ざる。視界がゆらりと小さく一周するように揺れた。
「…冬馬、泣いたら眠くなったの? 子供みたいだなぁ」
苦笑交じりの北斗の声が、目の前にいるはずなのに遠くから聞こえる。眠くない、と言っている俺の声は届いてるだろうか。
「おやすみ、冬馬。…ゆっくり休めよ」
…あぁ。
こんなに静けさに浸るようなこと、なんだかすごく久々だ。
