◆
…ぼんやりとした、なんだか心地よくて眠い場所にいるみたいだった。白くてやさしい色で目の前がいっぱいで何も見えない。そのままうとうとと眠りに落ちたら気持ちいいだろう。俺はそのまま身に任せて意識を手放そうとした。だけどそのとき、俺の名前を呼ぶ声がした。
『冬馬』
女の声だった。掴みどころのないふわふわとした声だった。誰の声なんだろう。聞いた覚えのないものだったけれど、その声を聞いてまず最初に懐かしい、と感じた。女の声は続く。
『アイドルになったんだね』
この声の主は俺のことを知っているみたいだ。誰だ、とかなんで俺のこと知ってるんだ、と質問はたくさんあるはずなのに、俺はそうだよ、と答えた。その対応がなんだか自分の身体じゃないみたいで驚いたけれど、女の声はそんなことには気にも留めず話を進める。
『冬馬は歌が好きだったからね』
ちょっと待て、なんで俺の小さい頃を知ってるんだ? その女の声は懐かしいことを話すときみたいに朗らかな調子で、相変わらず目の前は白くて何も見えないのに、遠いところを見つめながらのんびりと俺のことを話す様子が見えるようだった。
『きっとすごく上手いんだろうなぁ。何を歌うの? シャボン玉とかはもう歌わないよね』
流石に童謡はちょっと。俺はもうそんなガキじゃないから。俺の言いたいことが分かったのか、はくすくす楽しそうに笑う声が聞こえた。
俺――この人を知っている。顔や姿かたちなんて全く思い出せないのにそう思わずにはいられない。意識の深いところがこの人は確かにお前に近い人なのだと訴えている。誰なんだろう――女は言葉を続ける。
『冬馬は昔から頑張り屋さんだったから、これからがすごく楽しみなの』
少しだけ寂しそうな響きを持ったその声に俺は何と答えればいいのか分からなかった。
今までだって本当に色々なことがあって、そのどれもが考えてもみなかったことばかりだった。これから先なんてどうなるんだか。だって現に今だって――今、歌えないことに対してすごく申し訳ないと感じていた。すごく楽しみだと言っているこの人に俺がどんな歌を歌ってどんな風に歌うのかをすごく見せてやりたかった。すごく、悔しい。
女の声は俺の思っていることにはまるで気づかないまま、優しい声色で独り言のように話し続ける。
『…今、冬馬にはどんな景色が見えているのかな』
ステージから見えるペンライトの輝きは本当、何度見ても綺麗なんだって知ってるか? なんて説明すればいいんだろうな。
『素敵な人たちに会えたんだろうね』
俺は、頂点を目指すなら北斗と翔太しかいないって考えてるんだ。最低限それが分かっていてくれればいいかな。
『でもあんまり無理はしないでほしいなぁ』
この業界で無理をするなっていう話が無理なんだけどな。だけどライブでめいっぱい歌ってくたくたになるのも楽しいんだぜ。
声に優しさが満ちて今にも消えそうなか細いものになっていく。その声が、俺の耳の一番奥に届く。
『冬馬、これからもずっと前を見ていて』
母さん、と呼んでも返事はなかった。
母さん。俺、歌がなくなったらどう前を向けばいいんだろう?
