ラヴ・イン(再録) - 2/2

 あの日から。
 俺は二週間ほど…いや、二週間か? もはや時間の感覚なんてとうに狂いまくっていて何が何なんだか…。とにかく俺はここのところマジで地獄を見ていた。ポンコツ上司はミスを連発するし、同僚は家に帰りたいと泣きだすし、部下は一人途中で企画から逃げ出すという始末。絶対転職してやるという百回くらいは思ってきた決意をもう一度心の底から固め、もはや周りの誰を対象にしているわけでもなく「馬鹿野郎…」などとうわごとを口走っていた…ような? 記憶が確かじゃないところがつらい。とにかく仕事中は眠いし仮眠室のベッドは硬いソファーだし地獄だった。睡眠不足で視界が白むあの感覚はもう当分のところ味わいたくない。できればもう二度と!

 でももうそれも終わり。長かった仕事は一区切りついたから、今日は久々に茂庭さんと一緒に寝られる。あの体温を求めていた俺は恋しかったベッドに潜り込んでもなかなか寝つけずにいた。明日、お互いが休みだったら一緒のベッドで寝るというのが、口に出して決めたわけではなかったけれど俺たちの決まりごとみたいなものだった。シャワーを浴びたらビールの酔いが少し抜けてしまったようで、余計に目が冴えてしまっている。
 今日は茂庭さんが嫌がっても抱き枕にしてやろうと思う! それに、茂庭さんも俺のワガママをきっと聞いてくれるはず。昔からそうだ。あの人はひどく優しいものを心に持っていて、子供みたいな俺のワガママになんだかんだ付き合ってくれるんだ。優しい人の、やさしい体温。あぁ、茂庭さん早く風呂からあがんねぇかな、今日なんか風呂長く感じるな、待ち遠しいな。何を話して眠りに就こう、明日はどれほど寝坊しよう。それがすごく楽しみでならなかった。
「二口」
 ドアの開く音がした。振り返ると、灰色のいつものゆるいスウェットを上下に来た茂庭さんが立っていた。俺はベッドのスペースを空けてやる。茂庭さんは――なぜかそこに立ち尽くしたまま動かずにいた。どうしたんだろう、そういえば俺が夕食をとっていた時も様子が何だか変だった。体調が悪いとか何かあるのだろうか。
「茂庭さん、どうしたんですか?」
「あ、あぁ、まぁ、うん…」
 茂庭さんはどこか歯痒そうに言い淀んだあと、いつもよりもずっとゆっくりな動きでベッドにおずおずと入り込んだ。枕元に置いてあったリモコンで常夜灯をつけてみると、ぼんやりとした薄明りの中、茂庭さんの瞳はわずかな光すらきらきらと反射しているように見えて、ちょっと見方を変えると、その顔は泣いているようにも見えて俺は驚いた。
「茂庭さん、どうしたんですか?」
「え?」
「なんかさっきから俺気になってて…体調悪いんですか?」
 布団をかけてやりながら俺は茂庭さんの顔色を探ろうとする。茂庭さんは俺のそんな言葉になぜかびっくりしたように目を見開いて、俺から少し離れるように身を動かした。なんだろう、この反応。熱とかあるんだろうか。茂庭さんの額に手をやろうとすると、今度はハッキリとした動きで身体を遠ざけられた。その反応の意味が理解できないとはいえ、動作自体にちょっとだけ傷ついてしまう。
「…茂庭さん?」
「あ、あの、二口」
 流石にちょっと顔を顰めてしまうと、申し訳なさそうな顔で身体をもぞもぞと動かし遠ざけた距離を戻した。次に訪れたのは、どう扱えばいいのか分からない沈黙だった。茂庭さんは目を伏せて何かを言いづらそうな顔をしているし、俺はきっと今、とても愛想のなさそうな顔をしているだろうけど、どうすればいいのか分からないだけだ。チクタク、壁時計の小さな音だけが部屋に聞こえる。こんな静かな夜久しぶりで、常に何かしら煩かった仕事に比べたら遥かに良いけれど、その静けさは今は居心地の悪さに直結していた。
 何かを言いたかったけれど、こういう時俺の方から口を開くと大体こじれるのはもう過去の経験で思い知らされた。さっきまで自分が考えていたことを思い出す。大丈夫、時間はたくさんあるんだ、茂庭さんとこうして過ごすのも久しぶりなんだし、言葉を待とうじゃないか。

 …多分五分くらいしか経ってないんだろうけど、めちゃくちゃ長く続いたような沈黙を守ったあと、茂庭さんが口を開いた。
「二口、あのさ」
「はい、なんですか?」
 茂庭さんが上体を起こして俺を見下ろした。今までのどこか泣きだしそうな顔とはうってかわった、眉が吊りあがって凛々しい表情。目だけはきらきらしているのは変わらないけれど、今まで見たことのない顔つきに俺はまた驚かされてしまった。俺もなんとなく「そうしなくちゃいけない」という気分にされてしまい身体を起こす。視線は下になったけれど、茂庭さんの表情は揺るがない。
「俺、今まで二口がいないの寂しかったよ」
「え、あ、それは…ごめんなさい」
 その言葉が胸に重く圧しかかるものだから、思わず低い声が出た。やっぱり寂しい思いさせてたのか。仕事に目を奪われすぎてたか? 少ない時間でも会話すれば良かったかな、でも夜は茂庭さんに寝ていてほしかったしな…どうすれば良かったですかと尋ねる前に、茂庭さんが掛布団を両手で握りしめて言葉を続けた。
「でも、俺、二口が仕事頑張ってるの知ってて」
「あの、茂庭さん?」
「俺のためにも頑張ってくれてるの、気づいて…」
 掛布団を握りしめている手が少し震えているのに気づいた。茂庭さんはついに俯いてしまい、俺はと言えばとうとう茂庭さんが何を発したいかが分からなくなってしまった。寂しかったことへの文句だと、てっきり怒られるかと思ったのに。徐々に小さくなっていく声の調子からはそんな感情が読み取れない。顔を俯かせてしまったもんだから覗き込もうと身体を屈めたその時だった。
 肩をぐいと強い力で引っ張られ、いきなりのことで全くうまく対応できずに俺は驚いてうわっ、と声をあげた。無理矢理に身体を移動させられ、そしてその強い力のまま今度は肩を押される。俺はあっという間に茂庭さんに押し倒される格好となった。顔の横に流れる髪の毛がちょっと鬱陶しくてかきあげたかったけれど、肩は相変わらずちょっと痛いほどの力で押されているからそういうわけにもいかず、何より俺は、俺の腰辺りに跨った茂庭さんから視線を逸らせずにいた。
 こんな風に茂庭さんに見下ろされるのは初めてで、その茂庭さんの顔も薄明りの中、なんかどこか怒ったみたいに見えるからそれも新鮮で、その新鮮な気持ちと軽い混乱で俺は身体のどこもかしこも動かせない。
「茂庭さん」
「二口、俺、したい」
「したいって何…はぁ!?」
 予想外の言葉に俺は慌てて身体を起こそうとした、けれどそれすら許してくれないらしく、また身体を押さえつけられ俺は枕へ盛大に頭を沈める。おいおい、どういうことだよ、なんでそうなるんだ? 茂庭さんから誘われるのも初めてで、…さっきから予想外で初めてのことが多すぎていい加減ちょっと眩暈がしそうだ。ちょっと待てちょっと待てと頭で何回か唱えてから、俺はやっとのことで片腕を動かして頭を抱える。あぁ、そうか、茂庭さんはしたいわけね。それを少し時間をかけて理解する。身体を重ねるのはけっこう久しぶりのことだ、でも茂庭さんがいつもと変わらない様子だったら正直睡魔の方が勝っていたと思う。いや、でも――さっきの茂庭さんの言葉を頭の中で反芻する。
『今まで二口がいないの寂しかったよ』
 …俺も愚かなもんだ、その言葉と茂庭さんの顔を思い出したらもうやる気になってしまっている。茂庭さんから誘ってくれるだなんて。その嬉しさが滲むように胸の底からふつふつと湧いてきて、俺は笑って腕を伸ばし茂庭さんの頬を撫でた。
「いいですよ。しましょう、茂庭さん」
「二口、良かった」
 茂庭さんは微笑んで、俺の頬を両手で包むように挟む。キス、するんだろうか。俺はやっとのことで上体を起こしてその身体を抱きしめようとすると、茂庭さんは片手で俺の頬に触れたまま、もう片方の手で抱きしめようとする俺の腕をガッと強く押さえこんだ。腕に鈍い痛みが走って、俺は首を傾げそうになる。
「茂庭さん」
「今日は全部俺がやるから、二口動かなくていいよ」
 気を遣っているつもりなのだろうか、微笑んだままのその致命的な言葉に、ついに目の前がクラクラ、茂庭さんの顔が回って見えた。どうやら今目の前にいる茂庭さんは、俺のあまり知らない人物らしい。

 茂庭さんの腕が伸びて、俺の首にまわされる。少しずつ顔の距離が近づいて、ようやく唇が重なった。茂庭さんの唇は少しだけかさついていて、今みたいにちょうど寒い時期になると、茂庭さんは「べたつくのが苦手」と言ってリップクリームを嫌がるのを思い出した。乾燥した茂庭さんの唇は、それでもやわらかくて、茂庭さんの顔を見ていたかったけれど、俺はたまらず目を閉じた。首にしがみつくような腕と手の力が強まったのが分かる。茂庭さんは自分からするとき、こんな風にキスをするんだ。新しい発見は俺の心にじんわりと染み込むように刻まれる。
 唇が離れた。でもそれは一瞬のことで、また押しつけられるようなキスをされる。ほんの少しだけ重心が後ろに傾いて、気を抜いてるともう一度押し倒されそうだった。腕を動かして、俺に跨る茂庭さんの腰に触れる。スウェット越しに腰の骨を撫でると、茂庭さんの身体が一瞬小さく揺らめいた。声が漏れたのを確かに聞く。
「…二口」
「はい」
「今日は俺が全部やるって言ったよな」
 かすれるほどの小さな声と共に、茂庭さんは怒ったような顔で俺の額に自分の額をくっつける。その様子がなんとも言い難いほど可愛くて、俺は口角が勝手にあがるのを抑えられなかった。
「腕動かすのもダメなんですか」
「…できれば。あまり動かないでほしい」
「本当に全部茂庭さんがやってくれるんですね」
 楽しみだなぁ、心から言ったつもりだったのに、茂庭さんに頬をつねられてしまった。分かりました、とそれだけ返事をして、腰から手を離しベッドに手をついて俺は目を閉じる。茂庭さんが俺の髪の毛に触れたのが分かった。はぁ、と小さくついた溜め息が頬を撫でるからくすぐったくてならなかった。
 髪の毛を弄んでいた手が離れると、今度はまた頬に触れられた。やわらかく挟むような手から熱いほどの体温を感じて、それにシンクロするように俺の心臓がトクトクと鼓動を速めた。またもやキスをされる。だけどそのキスはすぐに離れて――手と同じくらい熱い吐息と共に濡れた感覚が唇に伝わってきた。思わず身体を硬くさせてしまい、その衝撃で茂庭さんの身体も少し揺らめいたようだった。
「ん、っ」
 舌が唇をなぞるように動くもんだから、俺はおとなしく口を開いた。口の中に舌が入り込むのを黙って受け入れる。でも、茂庭さんはそこからどうしていいのか分からないみたいで、苦しそうに息をつきながらそこからあまり上手に動かない。バレたら怒られるのを承知でそっと目を開くと、眉間に皺を寄せて目をきつく閉じた茂庭さんがそこにいた。あ、ヤバい。衝動のままに手や腕をめちゃくちゃに動かしそうになるのを、力を込めてなんとかグッと堪える。シーツを掴む手はもう全力で、俺だって苦しい。
 目を閉じて、これだけは許してと胸の中で軽く謝ってから、俺は自分の舌を茂庭さんのそれに絡めにいった。さっきの調子だと手も動かしちゃダメらしいから少しだけやりづらいけれど、首を動かしてなんとか俺の方からも上手くできるようにする。濡れた音がそこから聞こえた。茂庭さんが震えたのが、舌を通じて伝わる。もっと、もっと。求めて舌を動かす。
「…ん、んっ」
 俺の頬を挟む手に力が籠る。耳の後ろに指を添えられてくすぐったい、ぞくぞくする。少し口がずれてしまい、顎に唾液が伝うのが分かった。薄目を開いて様子を窺うと、茂庭さんは俺の舌の動きに応えようと頑張ってはいるようだった。でも、歯がちょいちょい当たるからカチカチと音が聞こえるし、なのに顔は必死そうだから、俺としてはもう動きたくてたまんない。くすぐったいのも気持ちいのも相まって、あと二人の息継ぎのリズムが合わなくて、ちょっとだけクラッと眩暈が襲ってきた。
「…ん、もにわさ」
「っは、なに?」
 唇を離すと、茂庭さんが口を挟まれたのがちょっと嫌だったのか眉間に皺を寄せて俺を見た。手を伸ばして頬に触れると、痛いほどの熱さが指先に伝わる。頬をやわくつねると、鬱陶しそうな表情で顔をぐいと逸らして露骨に嫌な顔をしたもんだから俺は笑ってしまった。
「なんでそんな顔するんですか」
「動くなっつったじゃん」
「いや…でも、腕動かさないのもちょっとつらいんですが」
 茂庭さんが動くだけだと、正直しんどいです。とは言わなかった。代わりに茂庭さんの髪を撫でて、黙って許可を得ようとする。髪を撫でると、俺と同じ匂いがした。同じシャンプーの匂いってやっぱりいいな。俺は目を細めるけれど、茂庭さんの表情は一向に良い方にいかない。
「…ダメですか」
「ん…もうちょっと」
「…そんなダメですか」
 俺の子供みたいなワガママをなんだかんだ聞いてくれることが多い茂庭さん。頬を触る俺の手に自分の手を重ねてきたから、あれ、もしかしたらいけるか? と思ってしまった。だけど茂庭さんは、その手に力を込めるとゆっくり俺の手を離して、指を絡めてぎゅうと握り返してきた。
「ダメだ」
 一瞬、茂庭さんの目の奥が赤く光ったような気がした。俺はその様を見て言葉を失う。だって、何て言えばいいのだろう。茂庭さんの目や手から伝わるなんだかとてつもなく大きな力に負けそうになって、俺は茂庭さんの目を見つめ返すことしかできない。何か言った方が良いような気まずさを感じてしまい、とりあえず口を開いてみるけれど何も出てこない。茂庭さんはそんな俺の様子には構わず、すっと目を細めて。
「っ!」
 ほとんどぶつけるような勢いで俺の首筋に顔を埋めてきた。舌がゆっくり伝う感覚に身体が強張る。茂庭さんの息が荒くて、くすぐったくて仕方がない。思わず声が出そうになるけれど唇を噛んで耐える。ここで声を出したら今まで保っていた色々な矜持が崩れてしまいそうで、それが俺にはなんだか悔しかった。シーツと茂庭さんの手を掴む力が強くなる。茂庭さんは息を少し整えて、ちょっと苦しそうに俺のシャツを掴むと、鼻先を首筋にくっつけたまま囁いた。
「な、ぁ」
「はい」
「どうして声、出さないの」
 揺れる吐息に鼓膜が震える。茂庭さんからそのまま熱が伝染してしまったような、身体の奥から熱くなった吐息が漏れ出た。理由なんて、そんなの。俺が沈黙を保っていると、茂庭さんが不機嫌な顔で俺の頬をつねってきた。さっき俺がやったときみたいに力を抜いてではなく、けっこう力を込めてきて容赦ない。俺もつねり返そうとすると、腕を押さえこまれた。ちくしょう、隙も何もあったものではない。歯噛みしていると、茂庭さんは急に手を離して、俺に乗っかったままの姿勢で動きを止めてしまった。次は何をしたいんだろう、首を傾げる。
「あの、茂庭さん?」
「二口、脱いで」
「は?」
 思ったままのきつい口調で声が出てしまった。今脱いでって言ったかこの人。俺の声に少し臆してしまったのか、茂庭さんは少し身体を後ろに退けて、気まずそうに俺を見上げる。
「だって、いつも二口自分で脱いでるから」
「え、だって茂庭さんか全部やってくれるんじゃないんですか?」
「それは、まぁ、そうだけど…」
 俯いて、ゆるゆるのスウェットを心もとなさそうに掴む。どうやらこれは恥ずかしがっている…のだろうか、いまいち基準値が分からない。でもさっきキスしてくれたときの手を思い出す。熱くて、微かに震えている手。茂庭さんなりに俺に近づこうとしているのだろう。それが嬉しくて、ついつい口角があがってしまうのを顔に力を込めてこらえながら、俺は茂庭さんを見上げる。
「ねぇ、脱がせてくれないんですか」
「あの、二口」
「茂庭さんが全部やってくれるの、俺、期待してるんです」
 上半身を茂庭さんの方へ寄せて頼み込む。茂庭さんはしばらく、うぅとかあーとか変な声でしばらく呻いたあと、自分の髪の毛をわしゃわしゃと掻きまわして「分かったよ」と大きな声を出して俺のシャツの裾に手をかけた。
「二口、腕あげて」
「はい」
 バンザイの要領で腕をあげると、肌着ごと捲りあげられ脱がされ、服が床へ乱雑に放り投げられた。冷たい空気が肌に刺すように触れて寒い。茂庭さんは俺を脱がせるとあっという間に自分の服を自分で脱いでしまい、いつもは俺が脱がせてるのに、とやっぱり心のどこかがちょっとだけ寂しくなった。それを茂庭さんが察してか知らないけれど、服を放り投げたあとすぐに俺を抱きしめてくる。肌と肌が直接くっついた。風呂上がりの汗ばんだ肌はぴたりと吸いつくようで温かい。
 あぁ、幸せだな。こんなことだけで頭が少しだけぼんやりする。俺と茂庭さんの身体の間で体温が溶けあって、一つの身体になったみたいな感覚が俺はすごく好きで、少し冷えてかたくなった身体がゆるりと解れるのが確かに分かる。思わず溜め息をつくと、その息の温度さえもあがった気がした。
「茂庭さん、あったかい」
「そっか」
 抱きつく力が強くなる。茂庭さんの肌に俺の身体がやわらかく沈んだ。どくどく、茂庭さんの鼓動が俺のところにまで届いてくる。それは俺のよりも少しだけ速く脈打っている。
筋肉が少し落ちたと同時に仕事のせいで痩せた今の俺の身体は、高校時代に比べてさらに手触りの面白くない、硬いものとなってしまった。皮膚なんて本当に骨との境目でしかないし、自分で触ってもごつごつしていて楽しくない。
それに比べて茂庭さんの身体はいつまで経ってもやわらかい。茂庭さんも就職してから運動する時間がそこまでとれなくなり、俺と一緒で、仕事のせいで痩せていったはずなのに、どうしてだろうか、抱きしめると身体はそこへゆっくり沈んでいく。内側に水がいっぱい含まれているみたいにやわらかい茂庭さんの肌。俺はそれも好きで、本当は抱きしめ返してそれを実感したいから、嬉しいのと同時に熱がどんどん積もっていく。せめてそれを分かってほしいという気持ちで言葉を口にする。
「茂庭さんの身体、相変わらずやわらかいですね」
「…まだ言うか、それ」
「だって俺、この感覚好きなんです」
 そう言うと、身体をちょっとだけ離した茂庭さんがこちらを見た。こちらを見上げる瞳が、部屋を満たす少ない光を吸い込んできらきらと濡れたように輝いている。おかしい、身体を離したから身体の間に風のように冷たい空気が通るかと思ったのに。どうしてこんなに熱いのだろう。どうしてまだ身体の中で茂庭さんの鼓動が響いていると錯覚してしまうのだろう。茂庭さんが口を小さく開くのが、やけにゆっくりとして見えた。
「俺も、二口の身体も、好きだよ、…言い方誤解するかもしれないけど、でも本当」
「…は」
 なんつう、告白だよ。その言葉の強さに動けなくなる。茂庭さんは俺の首の後ろと背中にまわしていた腕を解いて、俺の胸や二の腕に触れる。熱い掌からまたあの脈打つ熱い鼓動が聞こえてきそう。俺は思わず目を閉じた。だって、いくら暗いからって、ちょっと見える状態ですら耐えられそうにないない。ただでさえ腕や手には勝手に動かないように力を込めているというのに。
目を閉じると、常夜灯の優しい光すらも見えなくなって、だけど俺にはそれがあまり怖くはなかった。茂庭さんの体温は熱いけれど、それは凶暴なものではなくて、茂庭さんの優しさも一緒にその熱の中に含まれているみたいだ。茂庭さんは確かめるように俺の身体の上で掌を行き来させると、息をつくように言葉をついた。
「うん、俺、好きだ。二口の身体」
「…そうですか。でも、こっちもまた言いますけど、俺の身体、なんか硬くないですか?」
「まぁな。手首とか骨触ってるみたい」
「ほらやっぱり」
「でも、俺それが好きだよ。…うまく言えないけど、…俺、この感じが好き」
 なんだそれ、初めて聞いた。恐る恐る目を開いて茂庭さんの表情を確かめると、茂庭さんは常夜灯の下でも分かるほど顔を真っ赤にしていて、気まずそうに「初めて言うけどな」と絞りだすような声で呟いたあと、ゆっくりとその顔に笑みを浮かべた。小さな掠れた声で、内緒話のように、好きだよと伝えてくる。一瞬、身体が揺れるほど心臓が大きく動いた気がした。
「やば…」
 茂庭さんは指先で俺の顎に触れると、そのまま俺の喉、胸、腹のラインをなぞるように滑らせる。そして、その指先はある一点で止まる。
「も、茂庭さん?」
「はは、二口…たってる」
 うわ、この人こう来ちゃうのか。なぜか楽しげに笑う声、だけど戸惑いが隠しきれていない。硬く反応していた性器を下着越しに、掌全体で包むように触れてきた。俺はと言えば、まじまじと見つめられて、正直気まずいし、かなり恥ずかしくて居たたまれない。でも、茂庭さんだって俺がこうして反応しているのを見るのは初めてではないはずなのに、分からないくらい顔にうっすらと笑顔と浮かべていて、でもそれはかなり強張っていて不自然だ。
 茂庭さんがこうして動いてくれるのは嬉しい。でも、やっぱり無理してるんじゃないだろうか。頭に浮かぶのはまた、あの震えている手。浮かれて喜んでしまったけれど、こうして茂庭さんが戸惑っているのを目の当たりにすると、なんだか申し訳なくなってしまう。茂庭さんが無理するより俺が動いた方がいい気がするんだ。…まぁ、俺も動きたいし。
 俺は動かしてはいけない腕を伸ばして、ここからどうすればいいのか分からないというように硬直して動かなくなってしまった茂庭さんの肩をそっと押す。
「あの、茂庭さん」
「…なに?」
「無理しなくていいですから。俺、動きますよ」
 そう告げると、茂庭さんは驚いたように目を見開いた。大きなつり目と見つめあう。さぁ、どう出るか。さっきから読めないばかりの行動をとる茂庭さんの反応を、俺は息を整えながら待つ。茂庭さんは――ぎゅっと唇を噛みしめて俺を睨みつけると、とんと俺の肩をついて俺の身体をベッドに沈めた。そして、スウェットに手をかけて思い切りずり下ろす。冷たい空気に触れて内腿が震えた。
「えっちょっと待ってください!」
「なんでっ」
「なんでってなんでっ」
「は? なんでって…全部俺がやるって言ったから」
 茂庭さんは急いた口調でそれだけ言うと、俺のボクサーに手をかけてあっという間に脱がしてしまう。途端、茂庭さんがちょっと引いたよう顔で、反応しきる直前の俺のものを一瞥すると、これ以上赤くできたのかってほど顔を赤くして思い切り顔を俯かせた。その代わりなのか、俺の手をぎゅっと握りしめて、俺の両脚の間に身体を移動させる。その間、わずかに脚に触れた茂庭さんの体温は、溶けそうなほど温かかった。
「…茂庭さん?」
「……」
「…続き、してくれないんですか」
「っ、」
 ずるいかもしれないけれど、寝ている姿勢からわずかに顔を起こして、請うような声でもってねだると、戸惑いの色にゆらゆら揺れる瞳がこちらに向けられた。ごくりと喉が嚥下する様が見える。俺と茂庭さん、どちらが先に息を吐いただろう。でも茂庭さんが動いたのが先だった。すごくゆっくり俺の下半身に顔を近づけると、また怒ったように眉を吊りあがらせて、でも次の瞬間には自信なさそうに目を伏せる。ただ、手を解くと俺の脚の付け根に掴むように置いて。
「やる」
 苦しげな声は緊張に震える。そして、たちあがった俺の性器に、今度は直接触れた。茂庭さんの掌は、バレー部にいた頃に比べて皮膚がずっとやわらかくなった気がする。手の甲だって若干変わったように思える。年月を重ねるにつれて全体的におとなしさを増していく手。俺は茂庭さんの手がとても好きだった。それはもちろん、今でも。そんな手が、俺のどこもかしこも触れようとしてくれている。それに幸せを感じないという方が無理な話だった。
 やわらかい掌で性器を拙い手つきで握ると、ゆるゆると緩慢な動きで上下に動かす。もう少し強くしていいですよ、と力が籠っていないせいで掠れそうな声で告げると、茂庭さんは黙って頷いて力をきゅっと少し強めた。どうすればいいのか分からないらしく、時々首を傾げながらも手を動かす様がどうしようもなく可愛らしい。…正直のところ、自分で抜くときよりも遥かに弱い力だから、刺激が充分と言えば嘘になる。だけど茂庭さんがこうして動いてくれている、ただその目の前の事実だけでも軽く打ちのめされてしまいそうだった。
 茂庭さんが手の動きをふと止めた。すると、次に顔を既に濡れてきていた先端に近づけて、軽くキスをしてきた。瞬間、行き場所に困っていた熱が一気に下半身に溜まって重くなる。その感覚に身震いが湧いた。茂庭さんは俺のその反応を見逃さずに確認すると、先端から舌を這わせて、全体に食むようにいちいち丁寧に口づけていった。そして、一度音をたてて深く口づけると、そこから舌を覗かせた。
 …茂庭さんの舌はこんなにも赤かっただろうか。舌だけじゃなくて、唇までも。血に染まってしまったかのように赤い。
「っく、…」
「んっぅ」
 こんなことするのは初めてだからだろうか、茂庭さんの顔から戸惑いが抜けることはない。眉間に皺は寄ってるし、目じりには涙が薄く浮かんでいる。ごくり、鳴ったのはどちらの喉だろう。吐息の揺れがそのまま伝わってきてこちらも息を呑む。ちゅ、と濡れた音がした。茂庭さんの口の端から唾液が顎を伝って滴り落ちている様が見える。それを拭ってやろうと身体を起こして腕を動かしかけて、ふと止める。全部俺がやる――動こうとすれば茂庭さんの言葉がどうしても頭に浮かんだ。でもきっとその言葉に逆らうのは簡単なことだ。それで、逆らったところで茂庭さんはもしかしたらそんなに怒らないかもしれない。ただ、茂庭さんがそんな、意地を、張っている、だけで。
 安心するようにあたたかい水が胸の中にひたひた滲み出てきたみたいだ。だけどその水の色は薄暗い。紛れもない愛しさと独占欲に自然と口角があがってしまいそうだった。だって、こんなの嬉しすぎるし、新鮮な喜びに胸がドキドキして、あと少しでぶっ壊れてしまいそう。疲れきっているはずの身身体と頭は冴えきっていて、茂庭さんから感じるありとあらゆる感情を受け取ろうとしてクラクラして、もうひどい。ひどくて、本当に、幸せ。
 茂庭さんが俺の性器に強く吸いついて拙い手つきで扱く。あたたかい肉に包まれる感触は、茂庭さんの中とは随分違っていて、またもや現れた新しい発見にまだまだ喜びは大きくなるばかりだ。ざらざらとした舌で撫でるように舐めると、舌先に滲んだ体液が乗っかって茂庭さんの喉に吸い込まれていくように消えていくのが見えた。あぁ、もう。胸の中の水は暗い色を濃くして広がっていく。
 もしこの赤い舌の上に出したら――悪い期待にぞくりと背筋が震える。そこまで茂庭さんは許してくれるだろうか。今みたいなことは初めてだから線引きがいまいち分からないせいで、選択肢が現れるたびに迷いが生じている。だけど、ここまで積極的に動いてくれる茂庭さんのことだから。もしかしたら、頼めば。この人のこと、だから。
 …こうやって茂庭さんの優しさにどこかつけ入ろうとしている自分の浅ましいところが、高校生の頃はたまらなく嫌だった。結局この人の気を惹きたいだけの自分の幼さも、そんなわがままになんだかんだで応えてしまう茂庭さんのひどく甘い優しさも。それは今でも変わっていないらしくて、付き合う仲になっても何かの甘えを口にするのは若干の抵抗があった。それでも心は際限ない欲望を湧かせて、自分の思い通りに茂庭さんを求めようとするから上手くいかない。茂庭さんも、俺と同じことを考えたことはあるだろうか?
 疲れたのか茂庭さんは一旦口を離して、は、と一息ついたあと俺を見た。口の端から垂れていた唾液を指で掬ったあと、相変わらず赤い舌で唇をペロッと舐めてから、俺の腰をぎゅっと掴んで口を小さく開く。
「あの、二口、気持ちいい?」
「え、どうして」
 そんなことを聞くのだろう。正直ヤバいところまで来ていたのだけれど。茂庭さんはもごもごと言い淀むと、さっきよりもずっと小さな声でポツリと零すように言った。
「だって…」
「だって?」
「二口、あまり、その、こ、声出さないから」
 思わず笑ってしまうと、「笑わなくなっていいじゃねぇか!」と太腿をペシンと叩かれた。でもじつのところ、大丈夫ですよ、と答えるのはなんとなく、ほんのちょっとだけ気にいらない。今だって下半身に込める力を緩める隙などないくらいだけれど、そこは男としての矜持を保っていたいという少しの意地があった。
 視線を逸らして返事を濁すと、茂庭さんはそれが気に入らなかったらしくムッと不服そうな顔をした。俺の太腿の内側を、さっき頬にそうしたように優しく抓る。そして、そのまま内側の、殊更やわらかいところに顔をうずめると、鼻をすりよせてキスをしてきた。ちゅう、と吸いつく可愛らしい音が鳴るけれど、俺の背筋にビリビリと走った感覚は決して可愛いなんてものじゃない。熱が籠って暴れだす寸前の腹の内側に容赦のない刺激がいく。それでもなんとか声は耐えた。生まれた声を喉の奥で潰すように殺すと、ぎゅう、と喉が締めつけられて痛んだけれど構わない。
 本当にただの子供みたいだけれど、どうだ勝ったぞ、という気持ちで茂庭さんの顔を見る。茂庭さんは――なぜか悲しそうな顔をして、しゅんと顔をおろしてしまった。え、何その反応は、俺何かまずいことしたか? 茂庭さんは顔から悲しさを拭わぬまま、俺の脚の間に寝そべらせていた身体を起き上がらせて、二口、と小さく消えてしまいそうなほどの声で俺の名を呼んだ。
「ローションとって」
「え、茂庭さん、」
「いいから」
 はやるような口調に困惑してしまう。またいきなりすぎる。いやさっきからいきなりと初めてづくしだったけれど、茂庭さんの伏せられた目の色とか、理性を取り戻したのか、さっきまで滲んだように赤かった顔がちょっと白くなってるところとかを見ると、どうにも良くない雰囲気を感じてしまう。どうしようか戸惑っていると、茂庭さんが催促するように手を動かした。唇を噛んでいて、その顔はプラスの感情を抱いているとは言い難い。
 居心地の悪い気まずさをその場に残したまま、俺は少し無理のある姿勢をとり続けていたせいか背骨に少しの痛みを感じながら、ナイトテーブルにしまってあるローションを取り出した。茂庭さんはほぼ奪うような勢いでそれを俺の手から取り上げると、もどかしそうにキャップを開けてそのまま自分の指先に垂らす。量がうまく調整出来てないせいで、透明な粘液が溢れて茂庭さんの指に絡みつく。茂庭さんはそれをちょっと嫌そうに見ながらグッと顔に力をいれたあと、――そのまま後ろへと腕を伸ばし自身の下半身へと差し込む。ぐちゅり、と濡れた音が耳を撫でた。
「っは、ぁ」
「も、茂庭さん何やってんですか!」
 唇を噛みながら茂庭さんはきつく目を閉じる。茂庭さんは四つん這いのまま、そのまま手を抜き差しするような動作を続ける。生々しい水と粘膜の音が続けて鳴る。ローションが冷たいのも相まってか、茂庭さんの身体は力なくぶるぶると震える。ぎこちない指先にあわせて鳴る、濡れた音と茂庭さんの掠れた悲鳴。なんだか目の前がチカチカした。だって、こんなの、さぁ。
 目を凝らすと、ゆるくたちあがった茂庭さんの性器にぽつりと先走りが浮かんでいるのが見えた。茂庭さんの身体はどこもかしこも頼りなく震えていて、それでも懸命に指を動かして必死に俺を受け入れるための準備をしている。シーツに鼻先をうずめて、喉を鳴らしてくぐもった甘い声を出す。空いている手はぎゅうと力強く握り締められていて、力の込めすぎで骨ばった指先が白くなっていた。
「あっぁあ、くっ、ぁ」
 快楽を追っているというよりも、そのために行われる作業に苦しんでいるような。茂庭さんの目からついに涙がこぼれた。光に反射したそれは顎を伝ってシーツに染みを作る。

 …もう、こんなの、耐えられるわけ、ないだろ。
 さっきから寝ているばかりだった俺は。いよいよ身体を起こす。
「茂庭さん、ごめんなさい」
「ん、な、に、ふたくち」
「俺、動いていい? 右手だけでいいから」
 お願い、茂庭さん。
 茂庭さんの潤んだ黒い瞳に、今の俺の顔はどう映っただろう。茂庭さんは涙を湛えた瞳で俺を見上げて、何かを言おうと口を開いたけれど、そこから反対の意を持った言葉が出ることはなかった。ただ、またどこか悲しい影を顔に宿して、俯く。
「ほ、本当に右手だけなら…」
「ありがとうございます」
 早速茂庭さんの頬に触れ、腰を屈めてキスをした。茂庭さんの頬は涙にしっとりと濡れていて、燃えるように熱い。そのまま唇を横に滑らせて濡れた頬を軽く舐めると、茂庭さんがくすぐったそうな声を鳴らしながら首をのけぞらせる。それがなんだか猫みたいでとても可愛くて俺は笑った。そのまま、自由を許された右手でこちらへ来るように手招きする。
「茂庭さん、ちょっとこっちに来て座ってくれませんか」
「…機嫌良さそうな顔しやがって」
「まぁいいじゃないですか」
 再度手招きをすると、茂庭さんはなんとか膝立ちに姿勢をたて直すと、渋々といった感じでこちらに近寄った。少し近づいた時点で茂庭さんの腰を無理に引き寄せてこちらの身体とくっつける。胸と胸がぶつかりあって鈍い痛みが走った痛くて、でも幸せだと感じられるからやっぱり疲れてるんだろうか、いや、きっとこれが普通なんだろう。茂庭さんはさっきまでの行為を思い返してか、今更恥ずかしそうに眉間に皺を寄せて唇をぎゅっと閉じてもごもごと気まずそうに動かしながら俺を見下ろす。調子を随分と狂わせているのが可愛いくて、でもおかしくて吹き出しそうになるのをぐっと堪える。そして手の位置を腰から尻へと移動させ、そのまま濡れているところを指で触れてみた。ローションは茂庭さんの熱い身体を以てしてでもまだ冷たさを残していて、俺はそこに自分の体温を馴染ませるように指を動かす。先ほどとは違い、くちゅり、と控えめな音が鳴った。あ、と茂庭さんは目を見開いて俺の肩を掴む。
「あ、ぁ、ふたくち」
「茂庭さん、どうして自分で慣らそうって思ったんですか。いつも俺がやってるのに」
「だ、だって」
 肩を掴む手に力が籠った。唇までもが濡れたように光っているのは、俺の体液と唾液のせいだろうか。茂庭さんもそれに気づいたのか、手の甲でぐっと唇を拭うと、顔を逸らしてしまった。唇に手の甲をあてたまま、もごもごと何かを喋る。
「だって、今日は俺がやるって言ったから」
「何もここまでしなくたって…」
「でも」
 だって、でも。子供みたいな言い訳の繰り返し。やっぱりいつもの茂庭さんじゃないみたいで、改めてその違和感を感じてしまう。すぐ目の前にある茂庭さんの鎖骨あたりに口づけると、やわらかい肌に唇が心地よく沈んでいった。茂庭さんの身体がぎゅっと硬くなる。反射的に逃げようとする身体をなんとかこちらも力を籠めて押さえながら、指を動かして茂庭さんの中へと侵食させていく。
「あ、あぁ、あっ」
「茂庭さん、痛いですって」
 茂庭さんの指が容赦なく肩に食い込む。社会人になってバレーをやめてからの茂庭さんは、爪をこまめに切る習慣をすっかり忘れてしまったようで、夜を越した後なんかは、俺の身体に色々な跡を残していくことが度々ある。言えば切ってくれるのだけど、忙しいとなかなか自分からは気づかないみたいだ。まぁ、直らなくてもいいけど。俺は肩に感じるじりじりとした痛みにそんなことを思う。
 茂庭さんはハッと気づいた顔をして手の力を緩めてくれた。けれど、俺がまた指や唇を動かせばそんなことは頭から飛んでしまうようで、目にも手にも唇にも身体にも力をいれて、これから徐々に強くなっていくであろう快楽の波に耐えようとする。俺は唇を滑らせて茂庭さんの肌を味わいながら、差し込む指の本数を増やし、指をばらばらと、でも慎重に動かした。茂庭さんの内側は、熱くてあつくて、それでいてすごくやわらかい。これがこの人の抱える熱情なのかと思うと俺はすごく嬉しかった。この熱を帯びたやわらかい内側に包まれたときのことを思うと、すごく幸せな気持ちになって思わず目を細める。
 隠す気すらおきない卑猥な音がし始めると、茂庭さんが耐えられないと言うように唇を強く噛んだ。俺はそこにさらに上乗せしてやろうという気持ちで、わざと音をたてて胸に吸いつくと、茂庭さんの腰が大きく揺れた。一瞬、茂庭さんの、既にたちあがった性器が俺のそれとぶつかる。俺が触ったわけでもないのに、先端は既にしとどに濡れていた。
「茂庭さん、つらくないですか?」
「ん、ん、だいじょうぶ」
「大丈夫って…本当に?」
「大丈夫だって」
「じゃあ、」
 もうちょっと強くしますね。そう告げて、できる限り奥へと指を入れる。ばらばらに動かすんじゃなくて、奥をつつくような感じで指を抜き差しすると、茂庭さんは今日ベッドの上に来てから初めて大きな声を出した。俺の名を呼ぶ低くてよく通る声が、少しだけ上擦って絞られるような、そんな声。たまらなく色っぽくて、背筋に甘い痺れが伝っていくのを確かに感じた。茂庭さんは手に力をいれすぎるあまり、俺がキスしてるんじゃなくて、もう自分から肌を俺の唇にぶつけにいっているような感じになってしまっている。
「あ、ぁあっあ、はぁ、二口っ」
「ん、茂庭さん」
 白くて細い喉から断続的な悲鳴が響いているのを間近で聞くと、胸の奥が震えた。俺の視界も薄い涙に包まれて、一度だけ強く瞬きをする。みぞおちあたりが重くて熱い。ぴたぴたと汗と肌が触れ合うと、そこから溶けてしまいそうな感覚に頭が混乱してしまいそうだ。だけど――もっと欲しい。こんなのじゃ、足りない。熱を溜めていく胸の奥や腹の底とかが、俺と茂庭さんしか知らない快楽を求めて暴れだしそうになる。俺は一度指を入口ぎりぎりまで抜いて、もう大丈夫そうかを確かめる。そこは確かなやわらかさと熱さをもって俺を受け入れてくれるのだと思うと、また口角が無意識のうちにあがりそうになって俺は少しだけ焦った。
 はやる気持ちに口調が崩れてしまいそうになるのをなんとか抑えて、俺は茂庭さんに尋ねる。
「ねぇ茂庭さん。そろそろ、いいですか?」
「ん、…」
「俺、もういれたい」
 怒られないかな、と思いながらこちらから腰を突きだすように動かすと、ちょうど茂庭さんのお腹のあたりに俺のたちあがった性器がぶつかった。茂庭さんは困ったような、泣き出しそうな、そんな顔で俺を見つめる。だけど、俺の肩を掴んでいた手を離して自分の顔を軽く叩いたかと思うと、気を取り直したようなしっかりとした表情になった。目が涙に潤んで赤くなっているから今にも崩れそうだけれど。
「うん、いいよ、二口」
 ゴムとって、と再び俺に指図した。自分が命令したときだけ俺は動いていいんだな、と少し苦笑しながら俺はまたナイトテーブルに手を伸ばして、そこにローションと同じ場所にしまってあったコンドームを取り出した。箱を覗くともうちょうどラスト一個で、危ないな、明日にでも買いに行こうかと思いついたとき――ちょうど箱から取り出したコンドームを、さっきのローションみたく俺の手から乱暴に奪い取られる。え、と呆気にとられながら茂庭さんの方を見たときには、茂庭さんはコンドームの袋を破いている最中だった。
「え、え、あの、茂庭さん」
「あぁくっそ、この」
 さっき自分の指に垂らしたローションがまだ指先に残っていたのか、袋がなかなか破けないらしい。自分の行為を思い返してか、力んでいるせいか茂庭さんは耳まで赤くしながら奮闘している。…笑いを堪えてちょっと声が揺れるのを耐えるのがしんどい。俺は茂庭さんに手を差し出す。
「茂庭さん、俺やりますって」
「でもお前、今右手しか使えないから無理だよ」
「まだそんなこと言うんですか!?」
「言うよ」
 ビリッ。ビニールの切れる音がやけに耳に入り込んだ。茂庭さんは少し身体をずらして、俺の性器に触れるとコンドームを被せる。手惑いはしているけれど、限りなく薄く透明な膜がそこに張られていく。え、ちょっと、この人――何考えてんの? 茂庭さんはきちんと根元までコンドームを被せきったかを確認すると、そのまま俺の性器の根元を手で押さえながら、ベッドの上にくつろげている俺の身体の上に跨って、すぅ、と息をついた。
 茂庭さんが俺の目を見る。心臓がドクンと一際大きな音をたてた。時が止まったような、緊張した感覚。

「今日は俺が全部やるって言ったから」

 低く抑えられた掠れ声は、甘く濃い溜め息と共に滲むように吐き出された。うそだろ、と呟いた俺の声は茂庭さんの耳には届いただろうか。茂庭さんの腰が少しずつ、ゆっくり沈んでいく。先端が内側に侵入し始めたとき、茂庭さんの身体はわずかに弓なりにしなった。
「は、ぁ」
 俺の首に腕を回して茂庭さんは幾度目かの震える溜め息をつく。そのまま、体重をかけて少しずつ身体を沈めていく。内側のやわらかい壁にこすれる感覚が伝わると、俺の太腿も茂庭さんの身体もひくりと震えた。茂庭さんは、は、は、と短い溜め息をつきながら俺の襟足をぎゅっと掴んで自ら身体を、ぎこちなくだけど、どうにか動かしている。俺はと言うと、どうやらまだ右手しか動かしちゃいけないらしい、ので茂庭さんの身体を支えてやることしかできない。茂庭さんの膝がぶるぶると震えて今にも崩れてしまいそうだ。
「んぁっあ!」
「、茂庭さん」
 一番太いところが中に入ったとき、茂庭さんが息を大きく吸った。そのまま呼吸を整えて俺を見下ろす。茂庭さんが下を向くと黒くてゆらゆらした瞳から、溜まっていた涙がポタリとそれぞれ一滴ずつ俺の頬に落ちてきた。茂庭さんがふっと身体の空気を抜くように微笑む。襟足を掴んでいた手の力を緩めて、再び少しずつ、少しずつ腰を下ろしていく。――意外なほどスムーズに全部入った。茂庭さんは、はは、と息を切らすように笑う。
「二口、全部入った」
「分かりますよ」
 俺はそう答えるので精いっぱいだった。愛しさが、繋がっているところからぐぐぐ、と湧いてきて喉を苦しくさせる。茂庭さんの背中をなぞるように指先全部を使って触れると、はぁ、と困ったような顔で息をつく。茂庭さんが腰を動かし始めた。
 いつもは俺が動いていたから、茂庭さんのペースがどんなものになるのかが分からなくて困惑した、けれど、思った以上にゆっくりで、なんというか、そういうとこがこの人やっぱり不器用だ、って少し笑いそうになる。茂庭さんはわずかな揺れにも耐えられない、といった顔をしながらも、手探りで自ら動こうとしてくれている。
「はぁ、あ、あ、ぁ」
「茂庭さん、っく、」
 繋がっている粘膜からぐちゅり、と大袈裟なほど濡れた音が鳴った。茂庭さんの中はやっぱり熱くてやわらかくて、でもそれは久々のことだからすごくクラクラした。疲れているせいもあるかもしれない。今、目の前から与えられる情報に思考が壊れてしまいそうだった。茂庭さんが、自分からいれてくれて、自分から動いてくれている。俺の大好きでたまらない茂庭さんが。
 胸がドキドキして心臓がもたなさそう。人間、幸せすぎると涙が滲みそうになるから参ってしまう。だけど、幸福と快楽に頭がやられてしまう、その前に。
「茂庭さん」
「なに」
「どうして今日、自分から動こうとしてくれたんですか」
 俺、確かに疲れてましたけど、茂庭さんがしたいって言うなら喜んでしましたよ。そう告げて、でも茂庭さんから誘ってくるのは正直考えたことなかったということは黙っておいて。茂庭さんは――俺を確かにじっと見つめる。熱と涙に浮かされた瞳には薄い光が入り込んでキラキラと煌めいた。あぁ、綺麗だな。心からそう思う。あまり整えられていない吊り眉が垂れ下がって今にも泣きだしそうな顔。腰の動きが少しだけ速くなる。濡れた音が容赦なく鳴るし、茂庭さんの声も大きくなる。たまらなく甘い声。
「はぁ、はぁっあ、ふ、ふたくち、さぁ」
「くっ、ぅ…なん、ですか」
「俺、さみしかったっていっただろ」
「はい」
 息も切れ切れ、でも茂庭さんは喋りつづける。…さっきから思っていたけれど、茂庭さん、ちゃんと気持ちいいだろうか。俺は嬉しいけれど、さっきから俺のことばっかで、もう少し自分も気持ち良くなってほしい。というか、一緒に気持ち良くなりたい。俺の方も腰を浮かして動かすと、ちょうどやわらかい壁に遮られた硬いしこりに先端がぶつかった。
「ひ、ぃ、あぁ! あ、ぁ、ふたくち、やだ」
「っは、茂庭さん、気持ちいい?」
「うぅ、う、んぅ、あ、や、やだ…」
「はは…本当は嫌じゃないですよね」
「ち、ちが、ん、んん」
 首をふるふると力なく横に振って、茂庭さんは俺の頬を手のひらで優しく挟む。眉間に皺を寄せて、頬を真っ赤に染めて、目には涙をたっぷり湛えて――快楽の波に溺れそうな、一番可愛い顔。それでも何かを伝えようとして口をはくはくと開く。
「ふたくち、ちゃんと聞けよ」
「聞いてますよ」
「あっ! はぁ、あ、ん、そうじゃなくてっ」
 怒りを滲ませた声は語尾を震わせて消えていく。唇を噛んで、なんだかひどく悔しそうだ。からかっちゃいけないな、俺は言葉を待つ。茂庭さんが目を閉じる。内側がぎゅう、と俺を締めつけるようにきつくなった気がした。何もかもが熱くて、くるいそう。
「おれ、本当に…ほんとに、さみしくて」
「はい」

 茂庭さんが俺の頭をぎゅっと抱え込むようにして引き寄せる。
「俺、もう、二口がいなきゃダメだって、思って…」
「茂庭さん」
「二口がずっと恋しかった」

 顔の上に涙が、はたはたと音もなく落ちて俺の頬を伝っていく。

「好きだ、二口」

 …あぁ。そうか。
 なんだ、茂庭さんは、このために、ずっと。

「…何だ、そんなことだったんですか」
「そ、そんな」
「だったら、俺動いたって別に良くないですか?」
「ひ、ぃ!」
 両腕をぐいと前に伸ばして茂庭さんの身体を捉えるように引き寄せる。今までずっと封じ込められていたように動かせなかった手を、腕を、腰を、全身を使って茂庭さんを抱きしめる。茂庭さんのたちあがった性器が腹に思い切り触れたけれど構いやしない。再び得られた体温は染みるように俺の全身をじんわりと伝う。茂庭さんの尻に触れて指を沈める。この人の肌はどうしてどこもかしこもこんなに心地いいんだろう。茂庭さんが俺の頭を軽く叩いた。
「ば、ばか、う、動くなってあれほど」
「えー、どうして俺動いちゃいけないんですか」
「だ、だって二口疲れてたし、俺、伝えたくて…」
「俺は伝えちゃいけないんですか」
 びくん、と茂庭さんの身体が俺の言葉に反応する。あ、と茂庭さんが口を開いた。腰を突きだしてこちらからも動かすと、茂庭さんは俺の腕から逃れようとするように身体をしならせる。白い肌に汗が浮かんでしなる様子はまるで蛇みたいで、あの真面目な茂庭さんがこんな風に身体を動かすなんて、と思うと――眩暈を覚えるほど、色っぽい。
「あぁ! はぁっはぁ、あ、ん、んん」
「は、茂庭さん、めっちゃ色っぽい。かわいい」
「そう、いうの、やめろって…!」
「どうして? だって俺、言いたいです」
「んぅっ」
 少し離れてしまった茂庭さんの顔を力づくで引き寄せて、勢いのままに無茶苦茶に口づける。茂庭さんの唇はさっきと違って、汗と体液と、それから涙の味がした。食むように唇を唇で挟んで、そこから舌をいれる。肌を打つぴたぴたという音と、ぐちゅぐちゅと濡れた音。こうして身体を重ねているときにしか聞けない音と、舌や肌から伝わってくる何もかもの熱さに頭の芯が痺れていく。
「ん、んん、ぅ」
「っは、茂庭さん、好きです」
「ん」
「好きです、茂庭さん。俺だって、茂庭さん大好きです」
 好きということを口にできる喜びと、身体の内に押し寄せる快楽の艶めいた波。おかしい、こうして好きと言いながら感じ合うのは初めてではないのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。俺、今どうしてこんなにも幸せで泣きそうなんだろう。鼓動が留まることを知らずにどんどん高鳴っていく。茂庭さんのどこもかしこも熱いけれど、俺もどうやらそうらしい。顔が熱い、くるしい、でも幸せ。あぁ、なんだろう、俺は確かにこの感覚を知っている。自分の持つ全ての感覚に頭から溺れてしまいそうになる危うさ、高鳴り――そうだ、まるで、恋に、落ちてしまったような。
 ぐいぐいと押しつけるように腰を動かすと、肌がぶつかりあう音は聞こえなくなって、代わりに濡れた音がより一層大きくなった。茂庭さんの口からはひっきりなしに苦しそうで色っぽい喘ぎ声が漏れている。下半身が溶けて溶けきって、本当に一つの身体になってしまいそうだ。茂庭さんが息を荒げながら俺に合わせて腰を揺らす、けれど、それでは物足りないから俺からも遠慮なく腰を動かす。
「は、はぁ、あ、ぅ、ぁあっ」
「っく、ぁ、茂庭さんっ」
「んぅっ」
 背中がギリリと痛む――引っ掻かれているからだろうけど気にも留めない。茂庭さんの中がぎゅうぎゅうと締めつけて苦しい。ふと茂庭さんと目があった。茂庭さんが俺の頬に触れる。
「二口、ほっぺ濡れてる…」
「へ」
「泣いたのか?」
 自身の頬に触れると、確かに指先に湿り気を感じた。なんで、と間抜けな声が出た。茂庭さんがゆるく笑う。そんな笑って細められた茂庭さんの目からも、また一筋の涙が流れた。今日、なんかいっぱい泣いてますね、と言うと、そっちこそ、と頬をつねられた。今まで激しく動いていたけれど、そのままぴたりと肌をくっつけて動きを止める。ドクドク、と鼓動の振動と音が伝わってくる。言いようのない安心感に、今度は涙がすっと滲んでくるのがハッキリと分かった。
「幸せですね」
「うん」
「茂庭さん、好きです」
「うん…」
 そして、互いに抱きしめあって、どちらからともなく動き始める。ゆったりして、でも満たされているこの感じ。胸に満ちているあたたかな水は、暗い色を宿していたはずなのに、いつの間にか底から透明に変わっていくように、愛しさが広がっていく。自分の単純さに少し呆れながらも、目の前にいる確かな愛しさを噛みしめる。
「はぁっ」
 茂庭さんが一際甘い声をあげる。もうすぐイくのだろう。俺もそろそろ限界が近くて唇を噛んでしまう。茂庭さんが俺の襟足を強く引っ張った。身体が後ろにしなって、白い喉が露わになる。全身が、全部が、熱い、とける。
「あ、ふたくちっ、いく、いくっ」
「うん、もにわさん、おれも、ヤバい…っ」
 胸からお腹にかけて茂庭さんの精液がかかった。生ぬるい液体が身体を伝う感覚に腰が甘く震える。こんな些細なきっかけでも達してしまうのかと、それだけを何となく頭に浮かべて、俺も熱を手放した。

♡♡♡

 目を覚まして、まず目に飛び込んできた強い光が窓から差し込んでいるものだと気づくのに随分時間がかかった。少しだけズキンと頭が一瞬痛んだ。それでも何とか目を擦りつつ、すぐ側にあった置時計を手に取ると、既に時間は昼十二時を過ぎていた。こんなに寝坊するのはいつぶりだろう。驚いて身体を起こすと、布団がずれてそこから自分の素肌が現れた。慌てて戻して隣の二口に目をやると、とても幸せそうな寝顔を浮かべながら枕に顔を押しつけていた。
「二口?」
 名前を呼んでも全く起きる気配がない。試しにその髪を撫でてみても何の反応も示さない。本当に熟睡している――やっぱり昨日誘うべきではなかったのかもしれない。でも、昨日の二口の体温や言葉を思い返すと、やっぱり伝えて良かったと心から思う、結果的にワガママな自分もそこにいるのが事実だった。少し顔が熱くなるのを感じながら、俺は二口の顔のラインをそっと指で撫でる。少し痩せてほんの少しの陰が浮かぶようになった二口の顔。でも、昨日に比べてもう顔色がかなり良くなっているから、きっと体重が戻るのも時間の問題だろう。
 冬だというのに昼の陽はあたたかくて、俺たちを照らしてくれている。静かな俺たちの寝室にいると、ここまでくるのに、なんだかひどく時間を費やしてしまったような、そんな感傷的な気持ちになってくる。越してきたときは綺麗に見えた部屋も、時間が経てばどんどん生活の色がついてきて新鮮味が失われていってしまった。新しさや大切にしてきたものを無自覚に失わせていくのに、どうしても流れてしまう――時にそんな時間が憎らしいときもあった。だけれど。
「…二口、好きだよ」
 寝ている二口は俺の言葉を聞いてか知らずか、口をもごもごと動かした。大人になって顔つきが変わったかと思ったのに、こういうところはどうしようもなく子供っぽくてちょっと笑ってしまう。いつからこの体温が側にいるのが当たり前になったのだろう。俺の中で二口の存在が既に「当たり前」として刻まれてしまって、もう二口のいない生活に戻ることがとても難しいことのように思える。それは悪いことだろうか、慣れがいつか来てしまうのは、仕方のないことなのだろうか。
 でも、なんとなく大丈夫だと思ってしまう楽観的な自分がいる。こんなにゆったりとした自信に満ちたりたのなんて初めてだった。紛れもなく、二口がくれたんだ。高校時代、こいつには妙に楽観的なところがあったことを思い出す。一緒に暮らすようになってからそれが俺にも移ってしまったのかもしれない。
 もし――もし、また何かに気づかされたときは、そのときはまた二口に伝えよう。今度はひねくれた方法じゃなくて、ちゃんとした素直な言葉で。二口はきっと、いいや必ず受け止めて、それから言葉を返してくれるはずだ。それとも態度で示すだろうか。それすらも分からない、ぼやけた未来の向こう側。俺たちはどうなるんだろう。…まずは、この休日をどうやって過ごすかを考えよう。ずっと二人で寝ているのも、いいものかもしれない。
「二口、ゆっくり休めよ」
 今は幸せな眠りの中にいる二口が目を覚ましたとき、まず二口は何と言うだろう。いつもどおりの挨拶だろうか、それとも俺をからかうだろうか、それとも――。二口が起きたときの反応をいくつも頭に浮かべてみる。それだけで俺の頬は、いとも簡単に緩んでしまうのであった。