Sleep tight,Daddy

 こんな夜中に帰ってくると周りから本当に何の音もしないものだ。ドアノブを回す音は毎回とても静かな部屋に大袈裟な印象を残す。今日も、また。重い玄関ドアを開くといつもの暗闇が私を迎え入れた。電気をつけてもこの部屋が静かという印象は拭えず、むしろ、明るいのに誰もおらず、また何の音もしないというのが淋しい雰囲気を助長させている気がした。
 手洗いうがいを済ませ、生ぬるい春の初めの空気を吸い込んだジャケットを脱ぐと、帰りに寄ったコンビニで買ったケーキを取り出す。残業で深夜に帰ってきた際は疲労と面倒くささがどうにも勝って食事を抜くことが多かったが、今日の晩飯はこれだ。若い頃の無茶な食生活みたいだと自嘲の笑みがひとりでにこぼれる。なんだか一人暮らしの頃に戻ったみたいだった。いや、一人暮らしの状態に戻ってから結構長いこと経っている。家族が部屋からいなくなるだけでこうも生活が雑になるのだと、惣菜や冷凍食品といった既製品だらけの食生活を見て思うのだ。誰かの手作りの食事を、私はしばらく口にしていなかった。
 テレビをつける。この時間帯にやっている番組などバラエティばかりだ。その中で今時流行りの歌手を取り扱う音楽番組にチャンネルをまわすと、やはり彼はそこにいた。光度の高いテレビのディスプレイ越しに見る冬馬の笑顔は見るたびに大人びて見えるのは馬鹿げた親心のせいだろうか、会っていない時間が日毎に増していくせいだろうか。一番長いこと近くに居続けたはずの私は今、まるで他人事のように画面越しの冬馬を見つめている。

 日々現在進行形で成長し続けている冬馬は、実際に会えばどれだけのものを身に纏って見えるのだろう。最後に会ったのは私が単身赴任で引っ越す前だった。私の方から出て行ったのだ。物を段ボールに詰めるのを彼は手伝ってくれたが、その顔はあまり明るくなかった。引っ越す数日前にこの部屋にやってきた男と私を気にしているのだろうか。

「冬馬、そんな浮かない顔をするな」

 気落ちしている冬馬のために私は笑顔を作ってみせる。妻を亡くして、残された一人の息子を育てるために仕事にも心血を注いできたつもりだ。その間の育児を上手に出来たと言い切るまでの自信は無かったが、妻の隙間を埋めるように家事を身につけていく冬馬のことを、とても素晴らしい息子を持ったものだと、日常のふとした瞬間に痛いほどに感じていた。自分から誰かに話すことはほとんどないが、冬馬は私の自慢の息子だったのだ。
 その冬馬が、半ば連れ去られるような形でこの家を出ていく。どんな顔をすれば良いのか分からなかったが、私と二人の静かな日々の中で、やりたいことがあるなら応援してやろうと思ったのは間違いなかった。あの男――黒井と名乗る男からはなんだか凄みのようなものを感じてしまい、最初はたじろいでしまった。しかし、私以外に冬馬のことを認める大人の男がいるというのは、時間が経つと、不思議なことになんだか嬉しいものだと思えたのだ。
 冬馬が「だって」と口を尖らせて俯く。身体が大きくなってもまだ昔からのあどけなさがあちこちから窺える彼は微笑ましく、私はつい手を伸ばして頭を撫でてしまった。ガキ扱いするな、と冬馬が怒鳴る。反抗的なところも生意気だと思いつつやはり可愛かった。冬馬は私の、たった一人の家族だった。

「やるならとことん頑張るんだぞ」
「分かってるよ」
「お母さんにもたまには報告しなさい」
「…それも分かってる」
「そうか」
「……」

 がさがさ、と食器を包む新聞紙の音だけがこだまする部屋の中で、ふいに冬馬が口を開いた。顔をあげると、冬馬が真っ直ぐにこちらを見据えていた。冬馬が私の背丈の半分もなかった頃、ちゃんと寝ついたかこっそり部屋を覗くたびにその垂れ目は母親譲りであると思っていた。瞳の赤茶色は私譲りだ。私と妻を足して半分にしたような彼の目。それが射抜くように私を見ていたからこちらの手も止まる。冬馬は一度息を吸うと、ぶつけるように力強い調子で私に言ったのだ。

「ここは俺たちの家なんだから、父さんもたまには帰ってこいよ。…カレーくらいならいつでも作るから」

 それがあの、冬馬と一緒の時を過ごした部屋を出ていく前に聞いた最後の言葉だった。私は笑ってゆっくり頷いて、これから冬馬の未来にはどんなものが待ち受けているのか、ただ純粋に楽しみに思ったのだ。

 明滅するディスプレイの中で司会者が冬馬の誕生日を祝う。冬馬は丁寧にお辞儀してどんな年にしていきたいかの抱負を語る。冬馬の両脇にいる伊集院くんと御手洗くんがにこにこと冬馬の話を聞き、途中で御手洗くんがちょっかいを出した。怒る冬馬に笑いに湧く客席。なんだか別世界の人間のようだ。
 注いだビールを飲みつつ、誕生日の主役がいない中で一人コンビニのケーキを食べながら目の前にあの部屋の鍵を持ち上げる。私は、冬馬の待つ部屋にいつでも帰ることができるのだ。しかし私は単身赴任をしてからまだ一度も帰ったことがない。仕事が忙しいながらも最初の頃は冬馬が心配だったが、テレビや雑誌で見かけるたびに、もう彼は――大丈夫なのだという確信が強まり、その気持ちが強まるごとに足が自然と遠のいてしまった。
 私の見えないところで冬馬は激動の生活を送っているようだった。鮮やかなデビュー、耳にしない日がないほどのヒットチャート、突然の事務所脱退、そして移籍。
 冬馬が事務所を移ったと私に最初に教えたのはスポーツ新聞だった。そのときばかりはなぜそんな大事なことを教えなかったと電話をしたが多忙のせいか繋がらず、あとで深夜、私が寝ている時間帯に謝罪の留守録が入っていた。怒鳴るような調子で電話をかけたのは自分の方なのに、謝ってほしかったわけではない気がして、冬馬のやや沈んだ調子の声をスピーカー越しに聞いて立ち尽くしていた。

 息子であるはずの彼に関する情報がどんどん人伝になっていく。しかし私はもうそれで構わなかった。自分で考えていたよりも彼の自立がやや早かった。それだけの話なのだから。
 ただ、月並みな話だが自分が育ててきた息子が自分の手を離れるというのはやはり寂しい。ステージで輝くような笑顔を見せ、様々なことに挑戦しながら心身どちらとも成長を続けている冬馬だが、そんな彼の様々な表情を、私は彼がまだ歩けなかった頃から知っているのだ。
 仕事で忙しくてなかなか構ってあげられなかったとき、部屋のカーテンにくるまって泣いていたこと。お気に入りのおもちゃを、そんなのもう子供っぽいから捨てろと言ったら顔を真っ赤にして怒ったこと。体育の授業で三回も相手のサッカーゴールにボールをいれたのだと、内緒話のように教えてくれた彼の頭を思い切り撫でたら恥ずかしがられたこと。有給をとって一日かけたのに、歯が溶けそうなほど甘いクリームに潰れたスポンジ、センスの感じられない盛りつけといった散々な仕上がりになり、ひどく情けない気持ちで出したお手製の誕生日ケーキをとても喜んで食べてくれたこと――私はあの部屋で過ごした日々の全てを、今でも昨日のことのように鮮やかに思い出せるのに。冬馬はもう、私がいなくとも自分の思うままに動ける男になったのだ。心は正直に彼の成長を喜び、寂しがった。だからこそ、冬馬は私の、たった一人の自慢の息子なのだ。

 ジュピターは来月から全国ツアーを行うらしい。私はこれからも仕事の毎日をなぞるばかりだ。ここ最近、毎日違う人に誕生日を祝われている冬馬の近くに私はいない。しかし、誰からも愛される冬馬を思うだけで私も心のどこかを支えられている気分になる。彼は私の、一番の誇りなのだ。勝手な話だ。再び自嘲めいた笑いが漏れる。しかし私はそれで満足だった。
 この歳になると市販のケーキは胃にやや重い。声が少し低くなってきた頃、冬馬が私の誕生日に作ってくれたケーキは甘さが控えめでとても美味しかった。いくらでも食べられそうだと褒めると、大袈裟だよと照れたようにそっぽを向いた彼の仕草は、きっと今でも変わっていないだろう。冬馬の変化を、私はもう止められないが、変わらないものも確かにあるのだと信じている。
 鍵をお守り代わりに財布にしまい、ケーキを食べ終える。深夜に帰るとやはり眠くてたまらない。テレビを消して、冬馬の影まで消えたことを確かめて、大きく伸びをした。歯を磨いてシャワーを浴びたらもう寝よう。そう決めたあとに携帯を取り出す。冬馬からの連絡は入っていない。私は携帯のアドレス帳を開き、冬馬のメールアドレスを選択する。
 きっと彼の携帯にも事務所にも、既に数えきれないほどのお祝いが届いているだろう。お祝いの言葉を届けたところで、例え家族であったとしてもその中に私は恐らく埋もれてしまうかもしれない。返信など、なくてもいい。彼が成長を続けること、そして、願わくは――私が冬馬のことを思うだけで支えられるように、冬馬も私のことをそう思ってくれること。それを心の片隅のみで願う。
 冬馬、誕生日おめでとう。そう打ち込んだ文字を冬馬に送信する、深夜1時12分。春の訪れを感じさせる、あたたかくて静かな夜だった。私は彼を、そっと祈る。

《了》