パラレル

 翼はすごいよ、本当にパイロットになっちゃうんだから。
 社会人になってようやく周囲の環境に馴染んできた頃、久しぶりに会った大学の友達が少し疲れた顔でそう言った。
 話を聞けば、小さい頃に描いていた無謀な夢は中学や高校時代ではある程度思考が現実に沿いはじめて、それでもどこか自分に夢という名前の期待をかける。だけどそんな夢を叶えられる人間なんてほんの少数なんだ、とのことだった。ビールを口に含んで、だから翼はすごいんだ、本当に自分の描いた夢を叶えちゃうんだから、と自嘲めいた笑みを友達が昔はどんな夢を描いていたのか俺は知らない。

 あの頃、自分はパイロットになるんだと当然のように思っていた。
 子供がいつの間にか大人になるように、空への強い憧れがパイロットという形になるのだと信じて疑わなかった。空を飛んでいなかったら逆に俺は何をしているんだと思うくらい空やパイロットに対して強いものを感じていて、だから訓練を終えて制服を身に纏ったとき言いようのない高揚感が湧いて、空から見る景色はどんなものなのだろうかと胸を弾ませていたあの頃。
 夢って、何なんだろう。世の中には叶わないから夢なのだと言う人がいる。俺の夢はパイロットになることだった。そして一旦は叶ったように思えた夢は信じられないほど容易く崩れた。本当に、眠りから覚めるようにあっけなく。夢から覚めて見えるものは自分という現実で、空への期待に胸を弾ませていた俺はその景色が揺らぐだけで簡単に駄目になることを思い知らされたあの日。どう生きていたかさえもよく覚えていない。
 だけど時々、今でもふとした瞬間に考える。例えば輝さんと薫さんの背中を見ながら一緒に帰っているときや、ライブ中の写真を見返しているとき。もし、俺が今でもパイロットを続けていたら。あの日の挫折を乗り越えて今でも空を飛んでいたら。逆のことだって。そもそももし、パイロットにならなかったのならば。俺は今、どんな夢を描きながら生きていたのだろう。

 俺たちが主演を務めた映画が無事に封切してちょっと経ったときのことだった。共演した女優さんから、パーティーを主催するから打ち上げがてらでも是非参加してほしいと誘われたのだけれど、打ち上げ自体は試写会のあとにしたし、参加者を見てみると映画に関わった人は俺たち以外にほとんどいなくて、二回目の打ち上げというよりその女優さんが一仕事終えてはしゃぐためにパーティーを開くといった感じだった。
 そんなせいか話を聞いた薫さんは他に仕事があるからという名目でさっさと断ってしまったし、輝さんは参加すると一応言ったけれど乗り気かと言われればそうでもなさそうだ。全員で断るのはちょっと体裁が悪いとのことで、どちらでもいい俺は一人ででも参加するつもりだったけれど、輝さんは俺もついていくよ、と言ってくれた。
「翼が食いすぎないように見てないとな」
 輝さんはそうおどけて笑ってみせたけれどふとした瞬間にどこか不安そうな表情を見せるのは、会場が繁華街のビルの地下にある、いかにも遊び慣れた大人が喜んで入るような派手な雰囲気がゆきすぎて少し下卑た感じのバーだからだろうか。行く前から顔が強張っていて、何を着ていくかにすらウンウンと悩んでいるようだ。持っているフォーマルウェアでは何を着てもどう崩してもあの雰囲気の中ではやや浮いてしまいそうだ、とのことだった。

 だから出る前に輝さんの家でどれがいいだろうあれがいいかもしれないと一緒に色々話しながら服を決めていたのだけれど、このブラウスがいいんじゃないかと勧めたところで、輝さんがぱちぱちとまたたきしながら俺を見て、近くで見ると今日の翼は珍しい格好で新鮮でいいなぁ、なんて笑ってくれたから、その様子がなんとも愛しくてたまらずハンガー片手に輝さんに口づけた。ちょっとだけ勢いよく近づいちゃったから唇同士がぶつかってしまう。
「っ! ん、ぅ」
 唇を離すと、じんとした唇の痛みに混ざって今度は熱い吐息が間近に感じられた。しょうがねぇ奴だな、と照れたときに見せるくしゃりとした崩れた顔で俺の頬をつねる。輝さんにしょうがねぇなと言われるのが俺はなんとなく好きだ。本当にしょうがない奴だと自分で思いながらもなんとも嬉しい気持ちになった。
 二人でへらへらとちょっとだけ笑いあうと、輝さんは何かが吹っ切れたのかこれに決めた! と俺の手からブラウスを取ってようやく笑顔を見せてくれた。
「あんなところだったら多分暗くてほとんど見えねぇだろうからなぁ」
「あはは、ですね」
 輝さんが笑ってくれたからつられて顔が動いてしまう。輝さんは鼻歌を口ずさみながらさっきまでとはうってかわっててきぱきと着替える。時間を確認するとそろそろ出てもいい頃合いだった。
 窓から見える外はもうすっかり暗くて、こんな時間にプライベートで(半分は付き合いという名の仕事みたいなものだけれど)出かけるのは久々だから、そのことも未知なる場所への緊張を増しているようだった。落ち着かないものの手持無沙汰になってプレゼントで贈る予定の花束をぼんやり見たり腕時計を見たりを繰り返していると、輝さんの張り切ったような声が耳に飛び込んできた。
「翼、お待たせ。もう準備できたぞ」
「はい。行きましょうか」
 視線を移すと輝さんは記者会見で着るようなかっちりとした格好よりかは軽いものの、やっぱりちょっとだけかしこまったような感じなのはジャケットにふんわりとしたポケットチーフが入っているからだろうか。自分の格好を随分と簡単に決めてしまったことをちょっとだけ恥ずかしく思いながらも花束を持ってコートを羽織った。

 外に出ると住宅のまばらな光が見えた。マンションの階段を降りながらそういえば行きはどうするつもりなのだろうかと思って輝さんに尋ねる。
「そういえばどうやって会場まで行きますか?」
「うーん、駐車場が近くにあるみたいだから俺が運転してもいいんだけどどうせ飲むことになるだろうからな…タクシーだな」
「あー、そうですね…」
 輝さんは俺が食べすぎないように! なんて言っていたけれど、俺は俺で輝さんが無理して飲んだりしないかを気にかけなきゃいけないようだ。もちろんそれは苦になんてならないけれど。二人でそれぞれ変装用の伊達メガネをかけながらタクシー乗り場のある駅まで向かう。きんと冷たい風が頬に始まり身体をちょっとずつ冷やしていくようだった。
 しんと静まりかえった周りを窺って、寒いと身を震わせていた輝さんのコートの裾を引っ張る。
「輝さん、手繋いでもいいですか」
 深夜、例えば収録が終わって帰るときなんかは誰も見ていないからって俺と輝さんは時々手を繋いで帰る。思い返すとこうして二人で出歩くのは久しぶりでその感覚が恋しくなったのだ。輝さんの住むマンションから駅のタクシー乗り場までは徒歩で行けるほどの近さだけれど、そんなわずかな時間の中でもその感覚が欲しかった。
 輝さんはちょっとびっくりしたような顔で俺をまじまじと見つめたあと、ちょっとだけだぞと軽い苦笑いを浮かべて輝さんの方から手を絡めてくれた。
「あったかいです」
「ん、そうか」
 笑い声は白い息と混じってすぐに消える。片手で花束を持ちながら男と手を繋いで歩いている長身の男なんてはたから見れば普通じゃない光景だろうけど、テレビに出ていない俺たちのことは案外誰も見ていないことを既に知っていた。
 俺の手よりやや小さい輝さんの手はいつも俺の体温よりあたたかい。その温度に満たされた気持ちで会話もなく二人で駅に向かう。
「翼さ」
 心地良い沈黙を破るように輝さんが口を開いた。横顔に視線を移すとさっき着替えていたときみたいなやや強張った表情をしている。寒いから顔がかじかんでいるというわけでもなさそうで、その顔を見たとき一瞬ドキッとした。
「今日行くところさ、行ったことあったりしないか?」
「え? ないです、けど…」
 本当にないはずだけれど落ち着きを通り越してちょっと沈んだその声に、もしかしたら行ったことあるのではないかという気にされてしまう。いや、でもそんな店に入ったことがあれば間違いなく印象に残るはずだし、酔って記憶を飛ばしたことがないので覚えていない可能性もなさそうだ。いったいどうしてそんなこと、と尋ねる前に駅ビルの看板がちらちら見えてきて、輝さんは絡めていた手をあっけなく離してしまった。
「さっさと捕まえて乗るか」
 一歩先を歩き出した輝さんが今の今まで繋いだことなんて忘れてしまったかのようにコートのポケットに左手を突っ込みながら右手でほら、とタクシー乗り場を指さして俺を促す。その顔は笑っていたけれど、強張った表情が印象強いせいでなぜだか笑顔に見えてこないのが不思議だった。
 今日、輝さん本当にどうしたんだろう。やっぱり行きたくないのかな。さっき部屋で着替えていた時も空元気だったのだろうか。俺に無理に合わせてくれたのかな。先を歩く輝さんに多くの言葉が出せないまま、促されるままにタクシー乗り場に向かった。

 俺も輝さんも運転手も特に会話するまでもない車中。窓を見ていると景色がみるみるうちに変わっていくのが分かった。目的地が近づくたびに道路にはタクシーが増えていって、歩道にも人が溢れかえるようになる。このあたりは飲み屋も多くて帰りに飲みに行くサラリーマンや学生が多いのだ。タクシーが揺れるたびに輝さんが身につけているフレグランスの微かにスパイシーな香りがした。乗っているさなか一度だけ輝さんの方へ視線を向けたけれど、輝さんも肘をついてぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。
 程なくしてタクシーは目的地に到着した。俺たちを見て誰かが騒いだり渋滞に巻き込まれたりといったこともなく、行程自体は驚くほど何の問題もなくて、だけどそれが輝さんの様子に潜む違和感を強調させているようでますますその正体が気にかかった。
 タクシーを降りると、輝さんの住んでいるところとは違う、排気ガスや人の気に満ちた濃密でぬるい空気が肌を包んだ。行き交う人々の話し声や笑い声、時々飛び交う怒号のような声に警戒しながら二人揃ってそそくさと移動する。運転手は俺たちを知ってか知らずか、目的地のほとんど目の前までタクシーを運転してくれたようだった。
 煌びやかな電飾に彩られた店の名前とポケットに入れていた案内状を確認する。地下へ階段が続いていたけれど、先も薄暗くて降りるのにちょっと勇気が必要だった。
「なんか、クラブみたいだな」
「えぇ」
「まぁ俺、クラブ入ったことないんだけど」
「ごめんなさい、俺もです」
 二人でまた顔を合わせてしょうがないと言いあうようにへらへら笑いあって、二人分ギリギリの幅の階段をいっせーのせで降りていく。周りが薄暗くなるにつれてドンドンと重低音のお腹に響く音楽に近づいているのが分かった。
 重い扉を開けると既に会場が出来上がっているらしく、立食形式なのか来場者同士で会話が盛り上がっているみたいだった。だけど薄暗い空間に鳴り響くものすごく大きな音量の音楽にそれらの会話どころか自分たちまで今にも飲まれてしまいそうだ。外に音が漏れ出さないように慌てて扉を閉めると、受付のかっちりとした格好のボーイらしき人が近づいてくる。
「ようこそおいでくださいました。主催はあちらへ」
「あ、え、あ、はい」
「コートをお預かりします」
 あの物々しい階段と派手な看板からは分からなかったけれどけっこう広い場所みたいだ。目に入るもの全てが物珍しく、上京したての頃のようにあたりをきょろきょろと見渡してしまう。カウンターだけじゃなくてテーブル席も見えるから元は飲み屋さんなのだろうけど、貸切でカスタマイズされているせいかドラマや映画で見たことあるようなクラブと区別ができない。違うのは踊っている人まではいないところくらいだろう。
 同じく会場の雰囲気に戸惑いを隠しきれていない輝さんが俺の袖を引っ張る。薄暗い中目を凝らすと主催の女優さんが誰かと談笑しているのが見えた。挨拶するぞ、と耳元で囁かれる声が今にも消えてしまいそうで慌てて頷くのが精いっぱいの反応だった。
「今日はお誘いいただきありがとうございます」
 輝さんが穏やかで大きな笑みを浮かべて丁寧に挨拶をする。こういうところは自分がそのときに何を思っていようがきちんとこなすのが輝さんだ。さっきまでの違和感も、未知の場所への戸惑いもすっかりと見えなくなってしまっている。俺はそのあとをなぞるように同じような挨拶をして花束を渡した。主催の女優さんは既に酔っているのか分からないけれど大袈裟に声をあげて喜んで花束を受け取ってくれた。
 まず初めはうまくいけた。ちょっとだけほっとして話を続けようとしたのだけれど後ろから肩を叩かれる。振り向くとテレビでは見たことあっても実際に話をしたことのない、最近売り出し中の俳優さんがいた。どうやら俺と話したいらしい。どうしようかと逡巡していると、輝さんが背中をドンと叩いて俺を送り出そうとした。
「こちらの挨拶は俺がやるから翼は他の来賓者の方に挨拶してこい。落ち着いたら俺も合流するよ」
 な? と俺を見る輝さんに正しさのようなものを感じて、場所の雰囲気のせいでうまくできるか少し自信がなかったけれどその言葉に頷いて振り向き、別の輪に混ざる。輝さん、勧められるままにお酒飲みすぎないといいけれど。多分だけれど、輝さんも緊張しているだろうからうまく断れるかが心配だった。四方八方から声をかけられるけれど、気を抜くとすぐに大音量の音楽に紛れて消えてしまいそうだ。

 知らない人に囲まれて色々なことを聞かれた。前職はパイロットだと聞いたけど本当なのか、事務所はどんな雰囲気、他のアイドルはどんな調子、などなど。俺たちはこの歳で急にアイドルユニットとして芸能界入りしたものだから色々なことを聞かれるのには慣れている。その経験があってか自分が不安に思っているよりもスムーズに受け答えすることができたし、周りの人も面白くて優しくて会話が弾んだ。どうやらあの女優さんとかなり縁が遠い人も呼ばれているようで、最初は場所に戸惑いはしたもののここはそういう交流の場なのだと割り切ることができた。
 ふと、参加者の輪に混ざってからけっこう時間が経っていることに気づいた。合流するなんて言ってたけれど――しまった、と一瞬不安になり輝さんの姿を探す。赤茶色の少し跳ねた髪の毛は見つかりやすい。輝さんはカウンターに肘をついて一人で座っていた。輪を外れて輝さんのもとへ急いで向かう。
「輝さん、お酒どれくらい飲みました?」
「ん? つばさぁ、いいや、ほんの二杯だけだって」
 ちょっと、それ輝さんの許容量の限界じゃ――慌てて輝さんの前髪をあげて顔色を見ると、意外なことに顔色はそこまで変わっていなかった。だから大丈夫だって、と輝さんは前髪をあげる俺の手を退けてそっぽを向いてしまう。その動作がはっとするほど意外で荒っぽくて身体が少し固まった。
「翼の方はもう済んだのか?」
「はい、けっこう色々な人と話せたと。顔が見づらくて全員と話せたかちょっと自信ないですが…、それよりも輝さん大丈夫ですか? すいません、お冷やひとつ」
 カウンターにいるバーテンダーに声をかけると、バーテンダーはグラスを拭きながら、この人さっきまでは普通にお喋りしてたのに、と意味ありげに笑ってみせる。
「俺さ、本当は今日あまり行きたくなかったんだ」
 消え入るような、なんだか拗ねるような言葉にやっぱり、という納得の気持ち半分、とどうして、という驚きと疑問の気持ちが半分。理由を尋ねたくて輝さんの方へ身体を傾けるけれど、反発する磁石みたいに輝さんは俺から身体を逸らしてしまう。
「お前さぁ、マジで何も覚えてないわけ?」
「え? 輝さん、俺、輝さんがどうしてそんなに怒っているのか分からないです、…ごめんなさい」
 逸る気持ちがそのまま早口になる。輝さんはようやくこちらを振り向いた。顔には確かに呆れた、とくっきり書いてあって、俺に対して呆れているのをずけずけ隠さないまま、お前本当にしょうがねぇな、ととても小さな声で笑った。眉尻が下がって、今にも泣きだしそうにも見える笑顔だった。
「最近さ、お前、この辺で撮られただろ」
「へ? 撮られ、…あ」
 その言葉にようやく全ての歯車が噛みあい思い出すことができた。
 俺たちが主演を務めた映画の撮影期間中、稽古終わりにスタッフや共演者と飲み会に行く機会があった。そのときに――ちょうどあの主催の女優さんが疲労もあってかふらふらに悪酔いしたのだ。あまり苦にならなかったからタクシー乗り場まで俺が運んだのだけど、その場面を週刊誌に撮られてしまった。そのときの飲み会の場が――ちょうどこの会場あたりだったはずだ。後日女優さんも謝ってくれたし書かれていたのはありもしない恋愛の噂が主だったから、巻き込まれたとはいえ当事者であるはずの俺自身がすっかり忘れていた。
「俺、書かれたこと全然気にしてませんよ。実際何もないんですから」
「だろうな。俺もそこはまだ許せるけど…」
 お冷やの入ったグラスを傾けて輝さんは目をつむる。何を思い返しているのだろうか。はぁ、と輝さんが溜め息をつく。お酒の匂いと輝さんのフレグランスの香りが目の前あたりで混ざった。
「翼がパイロットだったときのことまで色々書かれてたのが許せなかった」
 かかっているのは映画の挿入曲だ。大音量のそれにやりきれないような声が一瞬で消えていく。あのとき見出しになんて書かれてたんだっけ。不埒なパイロットだとかそんな感じだったかな。前職でもこうして夜の町で遊びまくってたと窺えるとか、流石モテる職業に就く男は違うとか、自分と縁遠い言葉ばかり羅列していて、本当に自分のことを書いているのか俺自身が信じられなくていまいち現実味がなかった。だからそれもちっとも気にしていないのだけど、輝さんはそういうわけにもいかないようだ。
「翼は今でも空が好きで、パイロットだって翼の夢だったんだぞ。今はアイドルだからって言われればそれまでだけど、だからって過去のことを適当に書いていいわけじゃない」
「輝さん」
「だいたい俺たちなんてさぁ、過去があって今があるようなもんなのに、…はぁ、分かってるよ、俺がここで怒ったって意味ねぇけどよ。でもそれだってつい最近のことだったから…」
 言葉を曖昧に濁して、お冷やをぐいとあおると上下に動く喉仏が薄明りに露わになった。あぁもうほんと嫌になるぜ、と不機嫌そうにカウンターに頬をくっつけて突っ伏した輝さんはグラスをからからと揺らす。目の奥もゆらゆらと揺れているのは、酔いだけだろうか、それ以外の何かの感情があるのだろうか。グラス越しに透けて見える赤い頬に、今すぐにでも唇を寄せてしまいたかった。

 ふとした瞬間に自分は何なんだろうという気持ちになる。パイロットを当たり前のように考えていた過去の自分と今のアイドルとしての自分。
 夢って、何なんだろう。叶わないから夢というのだろうか。翼ってすごいんだね、という友人からのかつての言葉に、どこがだ、と吐き捨てて俯いて、途方に暮れていた挫折した自分が蘇るようだった。俺の大半を構成していたものがごっそりと抜けてしまって、歩き方すら思い出せないような、悲しみと諦めに満ちた自分が、あの頃ずっとその場で動けず立ち尽くしていた。
 アイドルになりたての頃、そのときのことを思い出すだけでもとてもつらくて、記憶の底にわざと封じ込めるようにしながら仕事に励んでいたところもある。今の俺は違うと言い聞かせていた部分もあったのも否定できない。
 だけど、今なら。大丈夫、向き合えるはずだ。
 今の俺は、縋るように未来を見つめていたあの頃の俺と、真正面から目を合わせることができる。
 あれから色々なことがあった。新たにつらかったことも悲しかったことも。
 だけどあのときの自分がいなければ、俺は今のこの瞬間、何をやっていただろう?
 こっちを見てみて。
 俺の隣には今、こんなに素敵な人がいるんだよ。
 そこにいる俺からは見えるかな。
 空と飛行機を失って、呆然とその場で立ち尽くしている俺が疑惑に満ちたまなざしで、本当に? と言いたげにこちらを試すように見返す。その視線とぶつかったとき身体が動いて、カウンターテーブルの下で輝さんの手を握っていた。
「翼、お前」
「だったら、二人きりになれるところ行きませんか?」
 会場は盛り上がりきって、みんな音楽とお酒に楽しく酔って頭が痺れてしまっている。ここからは誰がいなくなろうが増えようがきっと気にしないだろう。俺たちがいなくなったところで話のタネにもならない。俺たちのことは、案外誰も見ていないものなのだから。
 輝さんの腕を引いて、明日も仕事でこれ以上は飲めないからと、以前とは違ってとても楽しそうに酔っぱらっている女優さんに簡単な断りを入れて、逃げるように会場をあとにした。

 人混みを切り抜けるように輝さんの腕を引っ張りながら早足で歩く。どこにしようか、と逸る気持ちを抑えて辺りに目を配って選んだのは、さっきまでの会場からしばらく歩いて見つけたぽつんとした地味な感じの、夜の暗さに紛れて消えてしまいそうな小さなホテルだった。
 チェックインを済ませて部屋までのエレベーターに乗り込むときも腕を離さなかった。いいよ、翼、もういいから、と腕を押しのけようとする輝さんにも構わない。離したくなかった。くっついているこの距離を遠ざけて、湧き上がるようなこの気持ちが少しでもこの人から離れてしまうのが嫌だった。
「ん、ん、ぅう」
 ドアが閉じてオートロックの閉まる音ぐらいはきちんと聞き届けて、コートを脱がしながらいつもより少し赤くひび割れた唇に食らいつく。舌で唇をなぞって開かせてその中に入り込むと、つんと鼻を抜けるようなアルコールの香りがした。輝さんはそんなに飲めないのに度数の強いお酒をよく試すのが好きだった。
「ん、ぅ…っん」
 離したくない。離れたくない。そのことばかりが頭に浮かぶ。いつもだったら絶対しないけれど、質の良い輝さんのコートを椅子の背もたれにばさりとかけて、きつく抱きしめて、そのまま唇をほとんど離さぬまま身体を押し込んで半ば無理矢理ベッドまで移動する。
 値段が下から数えた方が早い部屋に通されたからか、押し倒すとベッドのスプリングがぎいと鳴き声みたいに軋んだ。顔を離すと濡れた唇をほうと開いた輝さんの浮かされた表情と、さっき薄明りのもとで露わになった喉元がくっきりと見える。高低差のはっきりとした喉仏を視認した瞬間、強いお酒を一気にあおったかのように頭がぐらりとした。この感覚を充分知り尽くしている。輝さんと身体を重ねるようになってから知ったものだった。
「ん、つばさぁ、シャワーくらい、な?」
「輝さんごめんなさい、我慢できません、って言ってもいいですか?」
 急くに急いて既に輝さんのジャケットはもう脱がして床に投げ捨ててしまったし、中のブラウスのボタンだって今すぐ全て外してしまいたい。輝さんは唇を噛んで眉間にぎゅうと皺を寄せたあと、ふっと顔の力を抜いて腕を伸ばすと、俺の髪をわしゃわしゃと犬にするみたいに乱暴に掻きまわした。
「ほんと今日のお前、しょうがねぇよ、翼」
 しょうがねぇ。輝さんの口から出るとなんていい響きになるんだろう。片手で頬に触れると、その頬はちょっとやわらかくてとても熱い。ずっと触っていられるのだと本気で思った。啄むような唇を軽く吸うキスを繰り返しながら、もう片方の手でブラウスのボタンを解いていく。カジュアルな着こなしでもきちんと様になるほど似合っていたし、俺が選んだものをこうやって脱がすのはもったいないなぁと思いつつも、胸は正直な、嬉しい色に染まった独占欲でいっぱいで震えそうだった。
「っはぁ…あ、ぁ」
「はぁ、輝さんの身体…すごく、すごく熱いです」
 輝さんの呼吸に合わせて汗で少ししっとりとした胸の皮膚が波を打つ。頬を経て唇を滑らせて、さっきの場所にいたときからそうしたくて堪らなかった喉元に噛みつく勢いで口づける。
 輝さんの喉元あたりが俺はいっとう好きだ。輝さんのお気に入りの整髪剤の匂いや柔軟剤の匂いと輝さん自身の匂いが混ざって、あぁ俺は今まさにこの人の側にいるのだという気にさせられて言いようがないほど幸せになる。輝さんもこのあたりに触れてもらうのが好きみたいで、表面を軽く舐めるとびくびくと震えがくっついている部分全てに伝わってきた。
「あっぁ、つばさ…ぁっ、んぅ…!」
 ついにブラウスを完全に脱がすと、形良く腹筋の浮いたお腹が見えた。手のひら全体を余すことなく使うように締まった脇腹を撫でれば、輝さんの腰がびくびくと逐一反応する。身体をずらして胸やお腹にもたくさんキスをしながらベルトに手をかける。
 初めての頃は慣れていないのもあってベルトがただカチャカチャ鳴るだけで全然外せなかったっけ。それを輝さんによく笑われて、結局輝さん自身に外させてたんだ。その様子がすごく恥ずかしそうだったからなんとか器用にならないものかと思っていたのが、こうやってするりと自分の手で外せるのを目の当たりにするとすごく昔のことのように思えた。
「つ、つばさ、もうちょっと、ゆっくり…」
「ほんとごめんなさい、でも、もうけっこう苦しそうですよ?」
「ぅあ…、っ言う、な…!」
 ボクサーパンツ越しに撫でれば既に湿り気を帯びているそこが熱を訴えていた。輝さんは震える手で俺の腕にしがみつくけれど、それを気にせずズボンと合わせて一気に脱がせる。片足を完全に脱がせたところで輝さんがちょっと、と肩をぐいと押してきた。
「お前も脱げよ、俺ばっかり恥ずかしいだろ」
 拗ねたように唇を尖らせるものだから、それが可愛くてつい頬を緩ませてしまいながら脱がしてくれますか? とお願いすると、輝さんはホテルに入ってから初めてようやく微笑んで俺の着ているジャケットに手をかけた。輝さんの手にあわせて自分も軽く動くと、するするととても簡単に脱げていく。上が完全に脱げたところでたまらず一度輝さんを抱きしめた。露出した肌と肌が汗を伴ってぴたりと吸いつく。
「輝さん」
「翼、苦しい」
 楽しげな声の調子なのに、その声を聞いただけで胸の内で渦巻く欲望が素直に反応してしまって身体が熱く重くなっていく。輝さんの首の後ろに回していた手をずらして、そのまま一直線に輝さんのそこへと触れる。途端に嬉しそうだった輝さんの表情がとろりと崩れて鼻にかかった甘い声があがった。
「っぁ、ん…ふ、ぅ、う」
「輝さん、気持ちいいですか?」
 うんうんと必死に頷いているのが見える。慎重に触れて軽く上下に扱くと充分ぬるぬるしていて、このままの弱い調子で触っていてもすぐにでも達してしまいそうだ。気持ち良くさせてあげたくて指先や手のひらで方法を変えながら愛撫を続けてみると、一際甘くて掠れた声がひっきりなしに聞こえる。
「はぁ、あ、あ、あ、つばさ、ぁっ」
 行き場に困った手がシーツをぐしゃぐしゃの皺になるほど強く握り締めているのが見えた。この声を聞くたびに、さっきの会場で飲んでいたお酒なんてほとんど比較にならないくらい頭の奥がじんじん痺れてふわふわと気持ちの良い眩暈が襲ってくる。逸る本能と相手への思いやりがぐちゃぐちゃになってまとも思考がほとんどできなくなりそうだった。
 本当はもう一刻も早く輝さんの中に入りたくて仕方がない。だけど輝さんにだって準備が必要だから。指を滑らせていつも俺をやわらかく受け入れてくれる箇所の近くをそっと指先でなぞると輝さんの身体に力が入る。
「っあぁ…!」
 指を先へ進ませて沈ませていくと、思っていた以上に滑らかに進んでいく。――この感じだったらもう少し進んでも大丈夫だろうか。指を軽く動かしてから先走りを掬ってそのまま二本にまで増やしてみると、輝さんの内腿がぶるぶると震えた。中はすごくあたたかくて、指をそのまま奥へ奥へと導いていく。さすがにもう大丈夫だろうと確信を得て抜き差しをゆるく繰り返していると、輝さんはシーツの代わりに俺の手をぎゅうと爪が軽く食い込むほどに強く掴んで動きを止めようとした。
「つばさぁ、もういいっいいから、いれてくれ」
「輝さん? でも、もう少し慣らさないと輝さん痛いんじゃ――」
「いい…っ、いいから、ぁっ!」
 悲鳴にも似ている声をあげて、耐えられないとでも訴えるように目からぼたぼたと大きな粒になった涙をこぼす。腰はゆらゆらと俺が慣らした場所へ誘うように揺れていて、肌全体を覆う汗は空気に触れて冷たくなっているのに、輝さんにくっついている部分はひどく熱くて息をするのも苦しいくらいだ。

 あぁ、輝さん。気づいてますか、俺も、すごくすごく苦しくて熱いんです、熱くて仕方がないんです。
 心臓がばくばくと動いて、その音が輝さんにも聞こえているんじゃないかと不安になるくらいだ。
 俺も最後まで身に纏っていたものを自分で脱ぎ捨てて、輝さんの声や温度を感じ取っていただけでたちあがりきったものをあてがうと、輝さんがまた一粒涙をぽとりとこぼして俺を見た。
「ん、ん、つばさ、ごめん…」
「え、どうして謝るんですか?」
「なんか、こんな風にせかしてさ、おれ、なんもしてない…」
「何言ってるんですか、俺はもう充分すぎるくらいですよ」
 本当のことだった。こんなところを目の前で見せられて正気すらも消し飛んでしまいそうなくらいなのに。余裕なんてきっと、どちらも同じくらいないのだろう。そのことが快楽をイーブンに分け合えているようでちょっと嬉しかった。
 最低限は慣らしたつもりだけれど、それでもまだ少し不安を覚えながらゆっくりと押し込むようにして入り込んでいく。
「く、…っあ」
 その瞬間、呻いたのはどちらの声だっただろう。待ちわびていたのだと叫んでいるかと思うくらい、輝さんの中は熱くてやわらかくて目の前が一瞬の間だけ白くなる。ぎゅうと手を握り締めてくる力に負けないくらい中も締めつけてくるから、思わず輝さんの目を覗きこむと、輝さんは分かったから待ってくれと言いたげに吐息をふうとゆっくり吐いた。
 あぁ、そうだ。そうなのだ。
 俺たちは言葉だけじゃなく、目線と吐息でも気持ちを通わせられるんだ。
 それくらい、何度も身体を交わす時間が積み重なったんだ。
「あ、あ、あ、あっ! つばさぁっあ、んぅ…もっと」
「てるさん、てるさん…本当に、ほんとにかわいい」
「あぁっ、あ、つばさぁ、深い、…んっぁ!」
「んぅ、ん、てるさん…っは、ぁ」
「つばさ、つばさぁ…! あ、はぁあ、つばさ…っ」
 絡みつくみたいに首の後ろに手を回される。くっついていない部分なんてないくらい、いや、ここまでくると温度も体液も声もどっちのかあまりよく区別ができなくなるほどくっつきすぎて、一つのものとして溶けて混ざりきってしまいそうなほどだ。
 身体と心が同時に輝さんの一番奥で出すことを強く求めているから腰が止まらない。輝さんが俺の襟足を引っ張るように握った。背中の端っこあたりに爪をたてられているし、耳元では弾んだ息と甘い声が混じっている。俺の持っているたくさんの感覚が全部輝さんに向かっている。それもものすごいスピードで。
 肌がぶつかるたびにばちんと大きな音が鳴って、輝さんに肌と内面で包み込まれているのが分かる。本当に、言い尽くせないほど幸せなのに、幸せの大きさを噛みしめる余裕もないほど頭の中が白く染まっていく。
「あああぁぁあっ」
 絞るような、余韻を思わせる声。額から汗が滲んで、すっかり赤く滲んだ輝さんの頬に落ちていくのがかろうじて見えた。

 時々。ふとした瞬間に脳裏によぎることがある。
 もし輝さんに出会ってなかったら。アイドルになっていなかったら。もしあのときあの挫折がなければ。パイロットをやめていなければ。
 俺は今、どこで何をしていたんだろう。どんな夢を描いていたのだろう。

 横でうとうとと今にも寝てしまいそうな輝さんの髪を指で撫でながら明日のことを考えていた。色々な仕事が舞い込んでくるのはすごく嬉しいけれど、明日ばかりは起きるのが少しだけ大変そうだ。
「翼」
「はい、なんですか」
「俺、翼のこと本当に好きなんだぞ」
「はい。俺も輝さんのことが本当に大好きです」
 何度も交わしたやりとりだけれど、この言葉を聞くたびに胸があたたかくなって嬉しくて、俺はいつもついつい微笑んでしまうのだ。輝さんも、そんな笑顔を見るたびにいつもちょっと呆れたような顔をしてみせたあと、すぐににっこりと笑ってくれる。

「俺、もうアイドルやる前になんて戻れないです」

 なぜだろう。そんな言葉が自然と口からこぼれて出てきた。バーであんなに悔しそうな顔をする輝さんを目の当たりにしたからだろうか。自分でびっくりして思わず自分の唇に触れるけれど、輝さんはそんな俺の様子を不思議がることなく、むしろ当たり前だとでも言うように俺もだよ、と笑ってくれた。
 俺もだよ、と言ったのだ。

「俺もアイドルになって良かった。ステージでみんなの笑顔を見るのも、翼にこうやって好きって言われるのも、全部がいちいちすげぇ嬉しい。あぁ今俺の身体、このためにあるんだって実感できることが、本当に幸せなんだ」

 静かで優しくて、すっと耳になじむような。
 そうだ、俺に「しょうがねぇな」と言うときの声のようだ。

 それだけを告げると、疲れきってしまったのか瞼を閉じてすぐにすうすうと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。大音量の音楽に掻き消されることのない輝さんの声は、意外なくらい胸の奥にまで優しく刺さるように届いて、心の内側全部にまで染みわたっていく。

 もし――もし、輝さんがアイドルを選んでいなかったら。傷つきながらそれでも弁護士になることを選んでいたら。俺や薫さんや他の仲間たちと出会っていなかったら。
 夢は叶わないから夢というんだと笑う人がいる。だけど俺は、この人とだからこそ描ける夢を追いかけていたい。空に対して抱いていた強烈な憧れが、今確かに別の形をして目の前にあるのが分かる。
 時々昔のことを思い出しては悲しくなったり苦しくなったりする瞬間もあるけれど、それでも俺は、その記憶すらも未来に繋げることができるのだと、なぜだかとてつもなく大きな自信を持って言いきることができるんだ。
「おやすみなさい、輝さん」
 とても小さい声で起こさぬようにそう囁きかける。満ち足りた気持ちが苦しいほどで、一回だけ丁寧に瞬きをした。

 心地の良い静寂と確かな体温が一番近くにある、この空間の中。
 ほんの少しだけ赤い瞼の下で、輝さんは今、どんな夢を見ているのだろうか。

《了》