ラヴ・イン(再録) - 1/2

「ただいま…疲れた…」
 帰宅して早々、俺がおかえりと声をかける暇もなく二口はそんな文句を言いながらだらしなく玄関先の床に倒れ込んだ。何やら呻き声をあげながら大きな身体をぐぐっと伸ばす姿を見て、俺は何とも言えなくなる。だって、涼しげな目の下に浮かぶクマは見るごとに濃くなっている気がするし、少しだけシャープになった輪郭が、ただでさえそんなにあるわけではない体重が少し減ったことを表していた。俺は床に倒れ込んだ二口の側にしゃがんで、袖が捲られて露わになった筋の浮いた腕をそっと撫でる。この時期の外の冷気を存分に浴びているせいか、腕は冷えていた。
「今日も仕事お疲れさま。ご飯もうできてるよ」
「ありがとう茂庭さん…じゃなくて! 今日はね!」
 急に二口がガバッと勢いよく身体を起こしたものだから俺は驚いて尻もちをついてしまった。なんだと思う隙もなく二口のきらきらとした瞳と満面の笑みが視界に広がって、俺はますますビックリして少しだけ後ずさりする。二口は笑みを崩さずに大きな身体を揺らして笑い出す。ここのところ帰宅後口をきくのも面倒そうだったのに、今日はなんだかとっても楽しそうでむしろ心配になってきた。疲れのピークを越えてどうにかしちゃったのだろうか。
「ふ、二口どうした? 疲れてんのか?」
「ふっふっふ…疲れてるっちゃ疲れてますけど…」
 次の瞬間、ぎゅっと力強く抱き寄せられたことを認識するまでに数秒かかった。疲れ切っているはずの二口の身体はどこか固くて、でも温かい。戸惑いながら背に手を回すと、二口がたまらないという風にさらに力を込めて抱き返してきた。そして、俺の耳元で秘密を教えるようにそっと囁く。
「今日で仕事、ひと段落したんスよ」
「えっ本当?」
「ほんとです、もうマジでつらかった…」
 その声色がなんだか泣いてしまう前の弱々しさにそっくりで、俺は一瞬言葉を失ってしまう。本当につらかったんだろう。痩せた身体に悪い顔色を思い出して、胸がぎゅっと苦しくなる。
 俺、しばらく帰るの遅くなりそうだから茂庭さんは先に寝ててくださいね。そう告げられたのはもう数週間も前の話だ。俺大丈夫だよ、起きてるよ、待ってるよと言ったのに、二口は怒った顔で、茂庭さんまで夜更かしされると困るんですよ、そう俺に念押しして待つことを許してくれなかった。そのせいで、この数週間、朝に時々顔を見るくらいだけのすれ違いだけの生活だった。それが終わるのは俺も嬉しいし、何より疲労困憊した二口を見続けるのはかなりつらいものがある。
「良かったな、明日は休みとか?」
「あ、先に言われた。そうです、明日は久々に丸一日休みです」
 俺から身体をゆっくり離すと、二口は疲れた顔にいっぱいの笑みを浮かべて俺の頭を優しく撫でると、俺の額にキスをした。音も鳴らないような、乗せるという感じの軽いキスだったけれど、それすら随分と久しぶりで俺は身体を固くしてしまう。
「茂庭さんは明日お休みですか?」
「あ、あぁ、俺も休みだよ」
「そうですか…」
 顎を乗せられて、二口の声が頭上を通して震えて響いてくる。そこで言葉が止まったから、何かを言い淀んでいるのかと思って俺はますます身を緊張させた。明日は土曜、俺は今の時期仕事は忙しくないから普通に休みで、二口は久しぶりの休み。二人の休みが重なるのは本当に久しぶりだ。つまり明日は二人とも寝坊しても誰も咎めない日なのだ――もしかして、「そういう」話になるのかと思って次の言葉を待つ。…別に俺は良かった、「そういう」話になっても。二口の疲れがそれで少しでも満たされるんなら、俺だって甘んじて受け入れる覚悟はできている。久々だから、少しだけ怖いけれど、大丈夫。
 それなのに、二口はフラフラと立ち上がった、と思えばよろよろの足取りでリビングへと向かう。へ? 思わずそんな間抜けな声が出てしまったけれど二口に聞かれてないだろうか。遠くから二口の鼻歌が聞こえてくる。そのあとに、あっ今日は肉じゃがなんだという能天気な声。玄関先に取り残されたのは、固まったままの俺。あれ、思っていた反応と違う、んだけど。
「茂庭さん、ビールあけてもいい? …どうしたの」
 戻ってきた二口に怪訝そうな顔をされてるのに気づいて、俺もようやく我に返って慌てて立ちあがり、いいよ全然と返事をした。少しだけ早口になってしまったのが憎らしい、我ながら。

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 こうして目の前にいてくれることの幸せを、ここで噛みしめることになるなんて。
「ひくひゃがおいひいれす」
「分かった、分かったから噛んでから話せって」
 ビール片手に心地良さげに酔いながら、二口は幸せそうに俺の手製の肉じゃがを頬張っている。初めは料理が下手だった俺でも、ここ最近でようやく人並みに上手くなってきたと思う(凝り性のある二口には敵わないのだけど)。作った料理を美味しいと食べてもらえるのは嬉しい。二口が食べているところを見るのはけっこう好きだ。でも、今は、ちょっと。アルコールでほんのり赤くなった顔色だと、むしろ目の下の青黒いクマが強調されたようで、見ていて少しだけ苦しくなる。さりげなく目を伏せて、おかわりしてもいいよ、と告げると、二口は少し悩んでから、今度はきちんと飲みこんで、でも眠いんですよねぇ、とヘラヘラ笑った。なんだか、もはやものを深く考えられるような状態じゃなさそうだ。
「仕事、そんなにつらかった?」
 意図せず声が小さくなってしまって、俺は自分自身に驚いて顔をあげた、でも二口は気にせずに相変わらず緩い笑みを顔に浮かべながら溜め息をついた。
「そりゃあしんどかったッスよ~よりによって上司が致命的なミスしたりとかしてホント戦争でした」
「そう、大変だったな」
「でも」
 不器用な手でもって切られた大きなじゃがいもの塊を箸で掴んで、二口は悪戯っぽく目を細める。
「これも俺と茂庭さんのためだって思いながら頑張ったんですよ?」
「…そっか」
 そっけない俺の反応に二口は、真剣なんですけど! と、子供みたいに唇を尖らせた。分かってるよ、そんなの。俺は分かってるんだよ。でも、上手いこと言葉が出てこなかった。胸に澱のようにしんしんと溜まる気持ちを隠して、料理とは違って、今でも上手く取り繕えぬ笑みを浮かべてはぐらかす。

 確かに生活がすれ違うことは多い。でもこんなに長い間二口とまともに会話すらできなかったのは同棲してから初めてだった。そして、すれ違うことは多くても、一人で過ごす夜の寂しさに慣れることはない。俺はもう二口と同じ場所で寝ることに慣れすぎていて、常に温かいその体温が側にないと、布団の中はいやに寒かった。二人で同じ寝室にいると、狭いッスよ、お前が縮めばいいんだよ、なんて軽口を叩き合っていたのに、一人だと窓の外で吹き荒れる風の音しか聞こえてこなくて、その音が耳に触れるたびに俺は身震いした。その音すらも寒くて寒くて、とにかく無性に寂しいんだ。
 随分前のある日、二口に、一緒に寝ているとき、茂庭さんの側からふざけて離れたことがあるんですよ、と話されたことがある。
『そうしたら茂庭さん、なんかむにゃむにゃよく分からないことを言いながら、俺の寝てた方に向かって腕を伸ばしたんですよ。可愛かったけど寝言が何言ってるのかさっぱりで面白かったです』
 二口はそう語ると、その場面を思い出してかケラケラ笑いだして、俺は寝ている間もからかいやがってと怒った気がする。
 でも、二口のいない夜を何度も越して俺は納得した。二口の存在全てを、毎日こうも感じていたことに。失敗した俺の料理をからかう笑みや、一緒にホラー映画を見ているとき、俺の服を掴む緊張した手、ドライヤーで乾かしている髪の揺れ方、部屋着のスウェットから見える脚、ゆっくり抱きしめてくれる体温。どうして目の前からなくならないと、それが持つ価値に気づけないのだろう。今、こうして俺の作ったご飯を食べている姿だって俺がずっと焦がれていたものだ。それを見て、胸の奥からじんわりと安心感が広がるのを自覚して、俺はやはり目を伏せてしまう。
 二口は――この数日間どう思っていたのだろう。俺と同じくらいか、それ以上の寂しさを感じたりしたのだろうか。それとも仕事に忙殺されて、俺のことを考える暇などなかったのだろうか。さっき、俺と茂庭さんのためだと思いながら頑張ったと言っていたけれど、その言葉にどれほどの重さがあるのだろう。アルコールと疲労に浮かれたその表情からは細かく読み取ることなんてできない。目線を下にやると、俺の指先が視界に入る。二口はこの指先を一瞬でも思い出したこと、あったのかな。俺は二口のいない隙間を埋めるように何度も二口のパーツを思い出して、記憶の中の二口の姿かたちを何度もなぞっていたのだけれど。

 本当に、その存在の大きさを実感したんだ。本当に好きなんだよ、二口のこと。そんな言葉が喉の奥に引っかかる。どう伝えていいのか分からない。下手くそな言葉でどこまで伝わるんだろう。俺はどこまでも我儘らしい、寂しかったことと二口をこんなにも好きであること、どっちもこんなに理解してほしいだなんて。

「茂庭さん?」
「…え?」
 二口の声で我に返る。目の前の皿は既に空になっていて、心配そうに二口が俯いた俺の顔を覗き込んでいた。明るく茶色い瞳とぶつかるように視線が合う。目元が内側から滲みだすように赤く染まっていて、首を傾げるのに合わせてサラサラの髪が流れるように揺れる、その様。二口の顔をこんなに間近で見るのが久しぶりすぎて、こうも目の前にハッと現れてしまうと、俺は今までどうやって二口の姿を見ていたのだろう。うまく思い出せなくなる。
 あれ――肩に圧しかかるような沈黙に、俺はタイミングを見出そうとする。今なら…今なら言えるんじゃないか? お互いが黙ったこの瞬間だからこそ、切り出せるはず。ずっと、ずっと我慢してたんだ。二口、俺、すごく寂しくて――胸につっかかる言葉をようやく吐きだせると思った、けれど、二口が先に口を開いて、ついでに言葉も先を越される。
「…そういえば」
「え」
「こうして茂庭さんの顔をじっくり見るのも久しぶりですね」
 本当に忙しかった。ポツリ、独り言のようにそう呟いた。伏せられた瞳、二口の長い睫毛がクマに重なる。それを見て――堪らなく、苦しくなる。本当に、久しぶり。胸に押し寄せる感情に、心が一気に壊れてしまいそうで俺は息を詰まらせた。身体中の血液が一気に熱くなってしまったようにドキドキとして、ただ二口への感情が強くなってゆく。
 同じだったら嬉しいな、俺もだよ、俺もなんだよ二口、俺、ずっと会いたかったんだよ。そう言おうとして、同時に、ずっと触れたかったその髪に手を伸ばす。でも、二口が席を立ったから――手はサラサラの手触りどころか何も掴まずに空振りした。
「お風呂、入ってきてもいいですか?」
 俺ちょっと眠くなってきて。今さっきの表情など全く自覚にないらしい、ゆるりとした笑みを浮かべている。
 あぁ、どうしてこうなるんだろう!――鮮やかなほどの空振りに、俺は空で持て余した手を握りしめて俯いた。なんて間の悪い、せっかくチャンスだと心が高揚したのに。水のように冷たい失望感がじわじわと胸の内に広がって、体温が少し下がったような感じがした。俺はまた下手くそに笑って、食器は片づけとくから早く入っておいで、とそれだけ告げた。あぁ、せっかく久しぶりに会えたのに、でもまぁ明日は俺たち二人とも休みだから、気持ちを伝える時間はまだまだあるはず。今は二口をゆっくり休ませて、うん、そうして――自分に言い聞かせるようにそんな言葉を頭の中に浮かべて、食器を片手に持つ。
 食器を洗って、二口が風呂からあがったら俺も風呂に入って寝よう。久々に二人きりで寝られるんだ、嬉しいじゃないか。ねぇ、素直に喜んでくれよ俺――二口休みたがってるだろ、どうしてまだ胸がこんなに熱いんだよ、あと顔も! 食器を持つ手が震えて、ガチャリと思ったより派手な音が鳴った。
 皮膚を刺すような気まずい沈黙でいっぱいのリビングに、シャワーの音が聞こえてきた。二口が浴室でシャワーを浴びている、たったそれだけのこと。でもそんな音ですら久しぶりで、顔と胸に血が集まるのが分かる。シャワー、俺も浴びなきゃ。それだけ、それだけのこと。あぁ、でもどうしてだろう――一緒に酒を呑んだわけでもないのに顔が熱くて仕方がない。胸がドキドキして苦しい。どうしてだろう、だって、するわけでもないのに。いや、するとしても、こんなに胸が高鳴るようなこと、ここ最近じゃ経験しなかった。確かに「する」ってなったときは、少しの緊張はあったけれど、それすらもはや楽しめるような、そんな心地よい慣れを俺は覚えていた。
 だけど、今は違う。全然違う、身体中も、顔も熱い。血液全部が熱くなってしまったようで、身体がふわふわしてしまいそうな高揚感がおさまってくれない。すぐ側に二口の存在を意識するだけで、こんなにも――。こんな気持ち、初めて…いや、初めてじゃない。少しの既視感に、俺は記憶を探る。答えはすぐに見つかった。そしてまたもや食器が、俺に「ご名答」とでも言うように大きな音をたてた。

「嘘だろ」

 人の心はこうも単純なのか? 二口の気配を感じる空気が少し恐ろしくなり、背が一瞬大きく震えた。世界が色を変えてしまったようなこの感覚。
 俺は、しばらく会っていなかった恋人の二口に、もう一度恋をしてしまったようだった。

♡♡♡

 久々に茂庭さんの待つ部屋に帰ってきたとき、胸に何とも言えない安心感が広がった。それまでもこの部屋には帰っていたけれど、帰ってきたというよりただ寝に来ていた。俺がそう頼んだってのもあるけれど、帰ってくると茂庭さんは俺より必ず早く寝ていた。俺と同じ時間まで起きてるなんて不健康な真似は避けてほしかったから、その対応は正しいんだけど、でもやっぱり少しだけ寂しいと思う気持ちは拭えずにいた。

 もう顔をあわせる時間すらほとんどなくて、忙しさに心が挫けそうだったある日、一度――一度だけ、茂庭さんの寝室にこっそりお邪魔したことがある。人は疲れると寂しくなるのだろうか、どうにも耐えられずにその顔を見たいと強く願っていた。最後に茂庭さんと一緒に寝た記憶がうまく思い出せなくなった夜、俺は茂庭さんの寝室のドアをそっと開いた。
 茂庭さんは寒いのか、少し身体を縮めるようにして寝ていた。既に熟睡しているようで、すうすうと静かな寝息をたてている。全身を覆うようにすっぽり被った布団から、少しだけ顔が覗いて見えた。なるべく音をたてないようにベッドの側にしゃがんで、その顔を見つめる。一緒に寝るときは間近でこの顔が見れるんだよな。そのあたたかい幸せが恋しいのと、今目の前にある寝顔が可愛らしいのとで胸が締めつけられるように苦しくなる。でも、不思議と疲れがいくらか身体から抜けたみたいだった。茂庭さんを起こさないようにふわふわの髪の毛に触れてみる。俺と同じシャンプーの匂いがかすかに漂ってきて、それだけでなんだかひどく満たされたような気になった。
 なんか…この人を思えばまだ頑張れそう。その満足感に溜め息をつく。とりあえずいつ仕事が終わるかだけど、それはまぁ考えないようにして…そういえば。あることを思い出してついつい笑いそうになって息が漏れそうになるのを俺は慌てて堪えた。

 それはちょっと前のこと。俺は寝ている茂庭さんにちょっかいを出したことがあった。茂庭さんが大きく寝返りを打って、夜中だというのに目が覚めてしまった。初めてのことじゃないし、だいたいそれで目が覚めてもすぐにまた眠りに就くからいつもはあまり気にしてない。でも口をわずかに開いた、健やかで少し間抜けな寝顔が目に入ると――少しだけ魔が差した。
 どうなるかな、と予想をたてて笑いそうになりながらも俺は茂庭さんを起こさないようにベッドを離れる。今はちょうど肌寒くなってきた時期、ましてや俺たちは二人で寝てるから、離れたら何かしらのリアクションが返ってくるはず。俺はそう考えた。寝ている茂庭さんを起こそうとすると、時々すごく可愛くない呻き声や、頭がまわっていないのか意味を成さない言葉なんかをムニャムニャと漏らすことがある。それがちょっと…いやかなり面白いから、俺はそれを期待したんだ。
 そっと離れて床に足をつき立ちあがり、茂庭さんの寝顔を見下ろす。茂庭さんはしばらく、うぅとか、んーとか何とか唸ってまた寝返りを打った。なんかくるか? と思いながらワクワクしつつ見守っていると、茂庭さんが急に腕を伸ばした。そして手を、俺のいた今は空いたスペースを探るように動かす。あれ、もしかして普通に起きちゃったか? もしかして怒られるパターンかこれ、と思い始め一気にハラハラしたときだった。茂庭さんがピタリとベッドを探る手を止め、こちらを向いて。
「…ふたくち?」
 寝ぼけたような、甘えるような、不安を感じているような、区別のつかない曖昧な声だった。そんな声で俺の名を一度呼ぶと、もう一度手を動かす。俺の姿を探ろうとする手の動き。それに気づいて俺は慌ててベッドに戻り、ここにいますよ、と存在を表すようにその手を握る。茂庭さんは、ホッとしたように一息つくとまたむにゃむにゃ言いながら眠りに就いたのだった。その様子に俺もひとまず安心して。
「…ごめんなさい」
 いたずらのつもりがこれじゃとんだ意地悪だ。再び眠りに就いた茂庭さんの寝顔を見つめ、そっと髪を撫でると、無意識だろうにこちらの方へ身体を摺り寄せてきた。その様子に、胸が音をたてるように締めつけられる。俺、やっぱりこの人が好きだ、心底。こうしてずっとくっついていたいな、それだけをもう一度思って、額にキスをする。おやすみなさい、それだけを呟いて、俺も茂庭さんの体温を噛みしめながら眠りに就いた――。

 そんなことがあったからか、俺は茂庭さんと一緒に眠りたくて仕方がなかった。その体温が恋しい、茂庭さんが俺の姿を欲しているように、俺もいつも俺より少しだけ熱いその体温を求めていた。部屋に入ることくらい、どうか許してほしい。俺は一人で寝ている茂庭さんの頬にそっと唇をよせて、軽いキスを送った。今からでもどうか良い夢が見れますように。そう祈って部屋を出ようとした。
「……ち?」
「へ?」
 声が聞こえて驚いた。振り返ると、茂庭さんが、手こそ動かしていないものの、またもやあの曖昧な声を漏らしながら、小さな小さな、夜の沈黙に紛れてしまいそうなほどの大きさで。

「ふたくち?」

 …あぁ。俺は今度は笑って対応できた。ただ、やっぱりちょっとだけ寂しくて苦しい。俺はもう一度茂庭さんの方へ寄り、髪を撫でる。安いシャンプーの匂いと茂庭さんの匂い。それらへの愛しさにちょっとクラクラしそうになりながらも、俺は布団に手を入れて茂庭さんの手を握る。眠っているせいでいつもより格段に温かい。その手を握りしめると、お腹の底から笑みが漏れてくるような気分になれるから、この人には本当に敵わない。
「ここにいますよ、茂庭さん」
 そうとだけ言うと、茂庭さんが心なしか微笑んだ気がした。うん、まぁ、俺明日も頑張ろう。いつか終わりが来るはずだし。明日の仕事のことを考えて少し辟易しながらも、茂庭さんに対する愛しさを再確認して、俺は部屋を後にしたのだ。