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次の日の夜。
風呂からあがって傷みまくった髪に安いトリートメントオイルを気休めに擦り込む。そういえば頭もプリンを通り越したひどい状態だ。職安に行くなら色を入れるべきだろう。
恭ちゃんの部屋をノックしたら「どした?」と戻ってきたので開けると、先に風呂を済ませた恭ちゃんはベッドに横になって雑誌を読んでいたようだった。
「ごめん、もう寝るとこだった?」
「いや、まだもう少し夜更かしするつもりだった」
「何読んでたの?」
「うちの製品カタログ」
よく見ると雑誌じゃなくて、恭ちゃんの会社の名前が表紙に大きく載ったカタログだった。勉強の邪魔をしちゃったかもしれない。やっぱ明日の朝にでも言おうと思ったけど、恭ちゃんが起き上がって「入れよ」と笑ってくれた方が先だった。
お言葉に甘えてオレはベッドのふちに腰かける。そういえば、最近は朝食のときに向かい合って食べるくらいしかできないから、こうやって隣に座るのは久しぶりだった。恭ちゃんはやはり横顔まで品があって頭が良さそう。
「どうした?」
「うん。オレやりたいことがあってさ」
ぴくり。なぜか恭ちゃんの身体に少しだけ力が入ったのが伝わった。どうして、とすぐに聞いてみたくなったけれど、一旦様子が見たくて話を続ける。
「やっぱりこのままなのも良くないと思ってさ」
「よ、良くないんだ」
オレと目線を合わせず、膝の上で組んだ指をせわしなく動かしている。顔色は変わってないけれど、耳のふちが少し赤い。
どうしたんだろう? 話し始めたばかりだけど恭ちゃんの方が心配になり、自分の用件をさっさと済ますことにした。スウェットパンツのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、さっきまで開いていた画面を見せる。
「ほら職安……というよりハロワの方が聞いたことあるかな?」
「――え?」
「新しい仕事探したいんだ。単発の仕事よりもっと安定しているやつ。職業訓練もあれば受けてみようかなって。……恭ちゃん、何か言いたいことあるんじゃない」
事実、恭ちゃんは「へえ」とか「そうなのか」とかひとまずの返事をしないどころか、オレが見せている職安のWEBページをちらりとも見ずにオレを凝視している。
その顔がたちまち赤くなったかと思えば、顔を勢いよく背けられた。
「あ、そ、そうなのか……。いいこと、だと思う」
「……」
スマホを適当に投げ捨てると、床に当たったらしくて硬くて少し派手な音がした。両手で恭ちゃんのほっぺを挟むと、熱があるわけじゃなさそうだけどオレの体温より高く感じる。
眼鏡越しに恭ちゃんの瞳が一瞬大きく揺れた。ちょっと溜め息が出そう。いくらなんでも隠し事が下手すぎる。そこもオレから見れば美点だけど、思っていることは正直に伝えてほしかった。
「オレに言いたいことあるでしょ。顔に書いてある」
「うぅ」
ほっぺをむにむにと動かすと、誠実さに満ちた恭ちゃんの顔がぐっと幼く見えて少し気が抜けた。こうやってからかうと、いつもなら照れたり呆れたりしながら抵抗するのに、恭ちゃんは眉尻を下げてオレを見つめ返すだけだ。
「やっぱり家のことやった方がいい? 恭ちゃん、今は特に忙しそうだから」
「ち、違う! 渚はどうして新しい仕事を増やしたいって思ったんだ?」
両手に彼の手が重なって剥がされるけど、そのままゆるりと指同士が絡まった。まだ恭ちゃんの答えは得られていないけれど、確かにオレの話も急だ。
「彼氏が仕事頑張っているのに感化されました」なんて、今の状況になるまでそう思わなかったのかって自分でツッコミを入れたくなって急に恥ずかしくなる。でも本当のことだから正直に伝える。
「恭ちゃんが引っ越したばかりなのにもう新しい仕事頑張ってるだろ? オレだけそのままなのは嫌なんだ」
「渚……」
「今までできないことばっかだって思ってきたけど、そんなの探さなきゃ分かんないよなって」
絡めている手のうち、左の方に力を籠める。へにゃへにゃで虫も殺せなさそうだけど、自分に対する怯えを通り越した挑戦への欲が勝っていた。
恭ちゃんは右手をほどいて、両手でオレの左手を包んだ。温かくて、金属ばかり触ってきたオレのものに比べたら手のひらはずっと柔らかい。ぬくもりに優しさが乗っかって伝わってくるようで、心地よさに目を細める。
「渚がそうしたいなら俺は応援するし、できることは何でも手伝いたい」
「ほんと?」
「当たり前だろ。渚が何かしたいって思うの、なんだかすごく嬉しい」
顔は赤いままだけど、恭ちゃんはゆっくりと微笑んだ。薄い唇が開いてきれいな歯並びが覗くと、この笑った顔がめちゃくちゃ好きなのを痛いほど実感して胸がぎゅうと締めつけられる。
良かった――初めにそんな言葉が浮かんだ。そのあとで、恭ちゃんなら賛成してくれるはずだとどこかで信じていた自分に気がついた。
恭ちゃんは、自分がやりたいことを馬鹿にせずに応援してくれる。間違えていると思えばちゃんと言ってくれる。逃げ出したくなったら追いかけてくれる――世界の端っこみたいな海辺にまで来てくれる。
今までずっとそうだった。だからこうして深刻に相談することもなかったのだろう。オレはずっと、その優しさに甘えっぱなしだ。
「……ありがと」
「お礼なんて言うことない。でも困ったときはすぐに言ってほしいし、無理はしないでくれよ」
「うん。……」
「お、おいおい。どうしたんだよ」
たまらず恭ちゃんの背中に腕を回して抱き寄せた。温かくて、かすかに鼓動が聞こえてオレの身体に響いていく。
ずっと欲しかったこの人を腕の中に収めながら、これからの挑戦を夢見ていられる。この瞬間に、奇跡以外の名前があるのかを知らない。
欲しかったものは全て手からこぼれ落ちて、やがて幸せを受け止める手すら壊れてしまう。そんな人生しかオレには待ち受けてないと、少し前まで本気で思っていたから。
「恭ちゃん、大好き」
「……知ってる」
言わずにはいられなくてそう告げれば、とても小さな声で返事が来た。この返事をもらえるのが、オレにとっては一番の奇跡だ。
――しばらくベッドの上で互いを抱き締め合っていた。オレはけっこう強く、恭ちゃんはおずおずとオレの首に腕を回して。あまりに素晴らしい夢見心地にずっとこうしていたくなる。
恭ちゃんは眠いのだろうか、体温がほんの少しだけ上がった気がする。そう、彼は明日も仕事なのだ。細かい話はまた明日話そう。名残惜しいながらも身体を少し離して、そしてぎょっとする。
「え、めっちゃ顔赤いよ!?」
「……」
見たことないくらい恭ちゃんのほっぺも耳も赤くて、思わず額に手を伸ばす。やっぱり熱はないようだ。
だけどオレが話を持ち出したときに様子が変だったから、心配になって恭ちゃんの肩を掴む。
「マジで大丈夫? オレに言いたいことあるんだろ?」
「いや、あの……」
「――こうやってくっつくのイヤ?」
真っ赤な顔で眉間に皴を寄せていると、気まずさをどうにかしようと悩んでいる表情にも思えて、なんで今まで気づけなかったのかとショックを受ける。
恭ちゃんと付き合えてからオレはずっと天国にいる気分だったけど、彼はこういった恋人っぽい接触がダメなのかもしれない。まだ一回しかしていないけど、キスだって息継ぎがうまくできないくらいなのに。
でも、そんなことオレに言いにくいに決まっている。馬鹿みたいに浮かれている様子を見ていればなおさらだ。
「ごめん、気づかなかった」
「え」
「次から気をつけます。ほっぺにチューも一日一回にします」
なるべく後に引きたくなくてふざけてみせたけど、内心オレもショックを受けていた。
恭ちゃんの言いにくい悩みに気づけなかったことと、当面は恭ちゃんに恋人っぽくくっつけない事実の両方にダメージを受けたけど、二つの気持ちのすさまじい矛盾っぷりにオレ自身が一番自分にドン引きする。一緒に暮らせるだけで満足だったあの頃の謙虚な思いは散ったのかよ。
「そ、そろそろ寝ようかな~ハハハ」
「違う! お前、なんかすごい勘違いしてるぞ!」
「え――」
気まずすぎてのろのろ立ち上がろうとすると腕を引っ張られた。困った顔から一転、恭ちゃんは眉を吊り上げて、いかにも怒ってそうだ。
どんな罵声が飛んでくるのだろう。引っ越して以降、かなり苦手な掃除と片付けもできる限り頑張ってきた。叱られる心当たりなんて、オレが恭ちゃんにベタベタくっつく以外マジで思いつかない。
「調子に乗るな」「TPOを考えろ」「こんなことしている場合じゃない」。恭ちゃんが言いそうな叱り文句を頭に浮かべながら、怒られる心構えをする。あぁ、でも何言われてもしばらく引きずりそうだ。
「……っ」
恭ちゃんはオレのほっぺを手のひらで包んで、――ゆっくり顔を近づけると、唇同士をごく軽く重ねる。
キスのときは息継ぎしろなんて言ったのはオレの方なのに、息どころかまばたきもできなかった。目の前が恭ちゃんでいっぱいになっていることしか分からない。
彼の眼鏡がガチッと鼻にぶつかって痛みを覚えると、ようやく何が起きているかくらいは分かった。でも身体は全く動かない、というか動かせない。
「……はぁ」
キスをしてきた恭ちゃんはまたしても息を止めてしまったらしく、唇を離したあと長くて熱い溜め息をついた。そのまま額同士をくっつけてくれるけど、オレに余裕がなさすぎて甘い雰囲気どころではない。
そのまま恭ちゃんが、ぐっと険しい表情のままでまた唇を重ねようしたから、ようやく我に返ってとっさに手のひらを顔と顔の間に挟み込んだ。
「むぐ」
「おいおいおいおい、恭一さんどうしたんだ!?」
恭ちゃんの名前をフルで出したのは高校生の頃、彼の家に遊びに行ったとき以来だ。唇同士のキスは、海まで恭ちゃんが迎えに来てくれたとき以来の二回目。だけど戸惑いが強すぎて、行為への嬉しさを噛み締める余地が一ミリも残っていない。
慌てて肩を押さえて恭ちゃんの身体を遠ざけると、真っ赤な恭ちゃんが唇をムッと結びながらオレを睨んだ。その目はちょっとだけ泣いているようにも見えて、心臓がバクバクと不安でせわしなくなる。
「恭ちゃん、マジでどうしたの?」
「お前だろ……」
オレのほっぺをむぎゅっとつねった恭ちゃんは恨めし気な視線を遠慮なくぶつけてくる。
「手つないでキスしてヤり、……って言ったのは渚だろ!」
「ええ……」
「俺とそういうことしたいって思わないのか!?」
「へ? めっひゃひたいれふ」
つねられてうまく喋れないながらも、恭ちゃんにそう尋ねられて馬鹿正直に即答してしまった。
恭ちゃんを好きになって、そういった接触だって何度も想像してきた。感情的になって本人に伝えてしまった過去を消し去りたいけれど、恭ちゃんをオカズにしたことだってある。それも、本人がこの先絶対に知ってはいけないくらいの回数は。
そして今さっき、恭ちゃんはきっとそういった触れ合いが苦手なのだろうと判断したばかりだ。だけど今の行動と自分の結論が全然嚙み合っていなくてかなり混乱している。
「なのに渚は好きって言うだけで、き、キスもほっぺだけで」
「……」
「そうされてばかりで、俺……」
言葉尻はほとんど消えて、声も掠れていた。恭ちゃんがここまで勇気を持って何を伝えたいのか、さすがに馬鹿じゃないから察して、オレまでも顔に血がカッカと集まっていくのを感じる。
本当に大切で、ずっと大好きな恭ちゃん。オレとしては彼と想いが通じ合って付き合えているだけありがたくて――恋人同士の二人がする「その先」のことが頭から抜け漏れていた。
「ご、ごめん」
「いや、俺も言っておいてなんだけど、謝るようなことじゃない……と、思う……」
人生の半分以上の付き合いがある仲なのに、今まで感じたことのない沈黙が流れていたたまれなくなる。
恭ちゃんとの距離を誤らないように細心の注意を払ってきたし、オカズにするくらいたくましい想像力は働くのに、愛情を伝えるキスやハグがどんな重さを持って恭ちゃんに伝わっているかどうして考えられなかったのだろう。そう思うと、ものすごくありきたりな言葉しか浮かばない。
「恭ちゃんが大切で、こういうことするのイヤかなって思って言い出さなかったんだ」
口にすると、あまりの響きの軽さに焦る。心からの本音なのに、ドラマや漫画なんかで聞いたことあるようなセリフって自分が使うと思った以上に説得力がない。
この先どうなるか全然予想がつかなくて内心ヒヤヒヤしていると、恭ちゃんはおもむろに眼鏡を外してベッドボードに置いた。
「渚が俺を大事に思ってるのは、充分すぎるくらい分かってるし……」
行き場をなくして所在なく膝の上に置いていた手が絡めとられる。右手の指にペンだこがある、オレとは全然違う使い方をしてきた恭ちゃんの手。
どんな意味を含んでこの手が結ばれているかをちょっと考えるだけで、耳の横に心臓が移動してきたみたいにうるさい。
「無理してるわけじゃないからな。渚と一緒にこうして暮らせて本当に嬉しいし」
「うん」
「俺、渚と、……」
「うん。ここまで言わせてごめんね、ありがとう」
清潔と誠実を絵に描いたような恭ちゃんがいよいよ口をつぐむ。
自分が藪蛇になって恋心がバレるのが嫌で、今までセックスに関する話なんてしたことほぼなかったし、恭ちゃんが他の友達とそんな話をしているのも想像つかない。
そんな彼が、進んでオレに話してくれたのだ。やっぱり恭ちゃんは勇気のある人で、オレは自分が思いもよらないところでも逃げっぱなしの弱虫だ。
だけど今なら、恭ちゃんに向き合えるはずだ。
「恭ちゃん」
何億回口にしてもずっと大好きな名前で呼んで、さっき彼がそうしてくれたようにほっぺに触れる。眼鏡を外した恭ちゃんの瞳が、一瞬大きく揺れるのがよく見えた。
だけどその目は薄いまぶたに閉じられる。緊張はあちこちから伝わるけれど、顔に籠められた力も抜けて、寝顔のようだと思った。この表情の穏やかさがオレへの信用の証だと思うと、胸の中がいくらでも締めつけられるようだった。
「大好き」
そう言わずにはいられなくて、最後に伝えると、オレの声は恭ちゃん以上に掠れていて情けなかった。
この情けなさも含めて向き合いたいと伝えよう。恭ちゃんの顔を少し引き寄せて唇を合わせる。海でしたときは寒かったしお互いそれどころじゃなかったから、恋人同士としてこの柔らかさを重ねるのは初めてだ。
背すじに強い震えが一瞬走る。そこを起点として、火のように強い熱が身体の中に灯る。
「……っ」
手を滑らせて、背に腕を回す。少しでも身体が揺れると、同じボディソープやシャンプー、柔軟剤の匂いがふわふわと鼻をくすぐる。こんなに近くで恭ちゃんと触れ合ったことがないから、それだけでたまらなくて前のめりになりそうになる。
もっと深く口づけたい。でも、まだどこかに小さな怯えがある。重ねるだけから、上唇をほんの軽く吸うところまで進めると、恭ちゃんの肩に一層の緊張が走ったのが伝わった。
「……めっちゃキスしたい」
「してるだろ……」
額と額をくっつけると、たった一回のキスだけで余裕をなくしたお互いしか視界に入らない。きっと、恭ちゃんの目に写るオレは苦しそうなのにしまりのない、ひどい顔をしているだろう。
それでもよかった。たった一つのきっかけで欲望が際限なくあふれてくる。
「もっと強いのがしたい」
「……初めからそうすればよかっただろ」
「うん。マジでそのとおり」
恭ちゃんの返事を待たないで、今度はもっと深いところまで入るつもりでもう一度唇を重ねた。
舌先で恭ちゃんの唇を撫でれば、ビクッと身体が揺れたあとにおずおずと口が開いて中へ招かれた。
初めて触れる、恭ちゃんの内側。濡れた感触を伴った熱で、舌同士がくっついたところからどろどろに溶けるみたいな錯覚に陥る。
もっと、触れたい。どんどん膨らんでいくその思いのままに恭ちゃんにしがみついて、安定を失った身体は前のめりに倒れる。
二人分の体重が思い切り乗っかったベッドはぎしりと鳴った。恭ちゃんがオレの首に手を回してくれたから、なんとか彼が潰れないように肘をマットレスについて身体を少し浮かせる。でも、ビックリするほど力が入らない。興奮で身体は打ち震えるばかりだ。
――これが初めて経験する、とっておきの触れ合いだ。
《続きは同人誌で》
