どうやったって春は来る

 春の初めに吹くぬるい風が宮城と安田の汗を冷やした。安田が小さくくしゃみをするのを横目に、宮城はスポーツドリンクを勢いよく飲む。五〇〇ミリリットルのペットボトルはあっという間に残り少なくなった。
 春休みが明けたら中学三年生になる生徒たちは、受験に備えて学習塾に通う者もいれば、最高学年の実感から逃れるように友人たちと遊ぶに出かける者など、各々の思うように過ごしていた。
 二人はどちらかというと後者で、バスケへの欲求が背中を押したのもあり、部活のない暇な休日に宮城が誘えば安田は二つ返事で乗った。
 一緒に昼食をとったあとはゲームセンターで暇を潰していたものの、最終的に行き着く先はバスケットゴールのある小さな公園だ。示し合わせたわけでもないのにボールを持ってきていた二人はそこで1on1に没頭し、息を切らす頃には陽も既に沈みはじめていた。
 風に乗って桜の花びらが周りのあちこちから舞って、春の空気を撫でていく。数日前に満開を迎えた桜並木は、宮城たちが最高学年になる頃には何割か散っていそうだった。
「リョータのスピードにはいつ敵うんだろう」
 汗を袖で拭きながら安田は笑う。ディフェンスを何度も突破されたにもかかわらず、その顔はむしろ晴れやかだった。宮城がボールを華麗に操って自分をすり抜けていくのを、心から楽しんでいるような。
「何回も言ってんだろ。そう簡単に止めさせるかよ」
 宮城は肩頬を吊り上げて強気に微笑む。手のひらにあるボールは身体の一部みたいによく馴染んだ。
 心地よい疲労と共に二人は、しばらくコートに伸びる長い影を眺めていた。言葉はないが、決して苦痛ではない。景色のあちこちは夕陽の色に塗りつぶされていて、子ども二人はもうすぐ家に帰らなければならない時間なのを示唆している。
「……あのさ」
 ――ふと、宮城は口を小さく開いた。服もボールもいつも通りなのに、たった一つ、強い存在感を放っていたせいでずっと意識させられたものを鞄から取り出す。
「これ」
「ん? 何これ?」
 運動部の生徒御用達の、地元のスポーツショップのロゴが印字された袋を突然押しつけられた安田は困惑する。宮城はこめかみをかきながら、なんだか居心地が悪くて安田と目を合わすことができない。
「ヤス、明日誕生日だろ? だから」
「え、これ誕プレ?」
「そう言ってんじゃん」
 ぶっきらぼうな宮城の態度とは反対に、安田はみるみるうちに破顔し、息があがって紅潮していた頬をますます赤くした。
 自分でプレゼントしておいて、素直に受け取って喜ぶ安田を直視するのは照れ臭く、横目で見ながらも宮城は唇同士をこすり合わせてほんの小さく笑った。よかった、喜んでくれて。
「あ、タオルとリストバンド! 部活用のタオル、いい加減古いなって思ってたんだ」
「そうか」
「リョータ、マジでありがとう! てかよく覚えててくれたね」
 少し大げさなくらい胸にプレゼントを抱えてヤスは笑みを絶やさない。幸せそのものみたいな表情に、宮城の視線は一瞬釘づけになり、また視線を逸らす。
 誕生日を覚えるのは苦手ではない。神奈川に越して初めてできた友達のものなら尚更だ。それに、以前誕生日の話になったときに安田が話していたのだ。
「俺の誕生日、春休み真っ最中だろ? だから当日友達に祝ってもらえるのって貴重なんだ」
 そのときと同じことを言って安田は苦笑した。それも含めてしっかり覚えていた宮城は、せめて春休み中に祝えればと思ったのだ。遊びに誘いに電話したとき、自分の意図がばれるのではないかと内心ヒヤヒヤしていたけれど。
 もう一度「ありがとう、リョータ」とお礼を伝えてからカバンにプレゼントをしまった安田は、ほんの少しからかうような口ぶりで尋ねる。
「でも、渡すの明日じゃないんだな?」
「明日は用事! 俺はそんな暇じゃないっての」
「ふふ、冗談。ありがとな」
 つっけんどんな宮城を特に気に留めず安田はそこで話を終わらせたので、彼は内心胸をなでおろす。
 明日が用事だなんて嘘だった。予定もないし、勉強なんてせずにバスケットゴールへ足を運ぶだろう。最初は安田の誕生日である明日に誘おうかと思って、すぐにその考えをやめた。
 彼はきっと大切な家族に祝われるはずだから、そっちを優先してほしかった。
「もう三年生だね」
「あぁ」
「リョータは高校どこ受けるの?」
 最高学年にあがるまで、あと一週間もない。ずいぶん前から勉強に打ち込んでいるクラスメイトも見ているのだ、進路の話があがるのは自然だった。
 しかし、宮城はいよいよ口を閉ざしてしまう。
 進路のことがどうしても頭をよぎるからこそ、なるべく考えないように他のことへ逃げていた。勉強は厳しいが、冬までの猶予でなんとかするつもりだ。
 ただ、心に引っかかってどうしても無視できないのは。
 隣の安田と目を合わせられないまま宮城は俯く。
「……そういうヤスは?」
 尋ねたけれど、返事は聞きたくなくて、宮城はこの場から逃げ出したい思いに駆られる。
 大切にしていた人たちから切り離された自分には、新しい地でもう仲間なんてできないと思っていた。家族との溝を埋められぬまま、一人でバスケットボールを追いかけるだけなのだと。
 しかし、友達ができた。自分と同じくらいバスケが好きで、自分とは正反対な性格の、ひどく穏やかで、意外なほど度胸のある彼。初めての友達は、一緒にいるとそこがコートの中でも外でも、宮城はやわらかな膜に包まれているような安心感を覚えた。
 ずっと一緒にいたい。この先も一緒にプレイしたい。
 しかし信頼が当たり前になろうとするたびに、開かれた宮城の心を荒れた海がさらっていこうとする。その人だってきっと、自分から離れていくぞと暗く沈んだ声で囁くのだ。
「俺? 俺はね――」
 安田が答えようとする。答えないでほしいという否定が、結局安田もこうなるか、という諦念が覆ってしまうから、宮城は目を閉じて時を待った。
「湘北!」
「――え」
 閉じていたまぶたを、驚きのあまり大きく開いて安田を見た。安田はそんなにビックリしている宮城に驚かされたようで、同じような表情で見つめ返している。
「そ、そんな驚く?」
「え、いや……てかなんで湘北なんだよ」
「なんでって、リョータが言ってたんじゃん!」
 忘れているとしか思えない宮城を責めるみたいに、安田は少しムッと唇を尖らせて少し声を張り上げる。
「安西先生っていう名顧問がいるんだーって言ってなかった?」
「あ……」
「俺、高校でもバスケしたいからさ」
 宮城と同じように、今日バスケットボールを持ってきた安田が両手でくるくるとボールを回して、一度上へ軽く投げてみせる。空をめがけて飛んだボールは夕陽と一瞬重なって、また彼の手の中へ戻ってきた。
 宮城が覚えてなかったとしても、安田はすぐに機嫌を直した。笑みをたたえて、リョータにもう一度問う。
「リョータはどこのバスケ部行きたいの?」
 宮城がこの先もずっとバスケを続けるのをほとんど確信している聞き方だった。安田と、安田の手にあるボールから目が離せず、宮城は言葉に詰まる。
 バスケはこの先もずっと、漠然と描いている成人後の未来でも続けるつもりだった。父と兄を宮城から奪っていった運命は、バスケまでは彼から切り離せなかったから。
 バスケが好きだった。もしかしたら「好き」という言葉で簡単に括れないくらい、それこそ自分の身体のように。その思いは、恐らく安田も同じなのだろう。
 それなのに、どうして大切な友達をバスケと同じくらい「当然」にできないのだろう。心の怯えを押し隠して、宮城はなんてことのない表情を取り繕うしかない。
「ショーホク」
 宮城にとっては勇気のいる告白を、安田は当然のように受け止めて笑みを深めた。
「やっぱりそうなんじゃん。高校でも同じチームだな!」
 春を連れていく強い風が吹いて、桜の花びらは勢いを増してどんどん散っていく。夜に近づくにつれて、公園や道路、二人の輪郭がオレンジから薄紫に上書きされていく。
 時が流れれば、当然のように春が来て終わっていく。木々が新緑に染まる頃には、最初の三者面談だ。
 どんなにあがこうが、時間はどうしても止められない。それでも来年の今頃、安田の誕生日を祝いながら湘北のバスケ部について語り合う、そんな未来が当然のように来ればいいのに。暗くなるコートを見つめて、宮城は祈らずにいられなかった。

《了》