『ドント・フォゲット・リグレット』
電車の窓からは麗らかな陽が差し込み、椅子に凭れてうとうとと船を漕ぎたくなる。しかしあと数駅で降りなければならないから、絢希(あやき)はなんとか姿勢を保ちながら到着を待つ。
車内には自分と同じ大学の新入生を何人か見かける。手にぶら下げている袋には大学名がハッキリと印字されているから、今日の入学式前オリエンテーションを終えた者であるのはすぐ分かる。
合格通知を受け取って以降初めて大学へ行く日だったからか、誰も知り合いを連れていない。車内に同じ大学の者がいることをなんとなく意識しながら、各々の時間を過ごしていた。
しかし先日、新入生を対象にしたウェルカムパーティーがあったらしい。同じ科の学生で集まり、入学式前の友人づくりの機会になるほか、先輩が大学紹介を兼ねたレクリエーションで盛り上げてくれるものだ。だから今日のオリエンテーションも新しくできた友人と共に参加している学生もちらほら見受けられた。
しかし絢希はそんなものに出る気がなかった。それどころか、四年間毎日こうして一人電車に揺られてもいいくらいの気持ちだった。
他人はまるで信用できないから、馴れ合うつもりも毛頭ない。もしかしたらこの車内に、絢希と同じ経営学科の者がいるかもしれないが、それも絢希にとっては全く関係のない話だった。
あとどれくらいで到着するだろう。通い慣れない路線だと一駅あたりの時間が想定できない。絢希は画面に触りすぎて指紋でテカテカしているスマートフォンを取り出して所要時間を調べようとした。
「ったく、いいご身分だなぁッ!!」
――こんな気持ちのいい春の日に全く相応しくない怒声が響いて、絢希は肩をびくりと震わせる。勢いあまって手に持っているスマートフォンを落としかけた。
車内の視線は一気に優先席へ集まる。絢希も怒声の主と目が合わないようにちらりと横目で見てみると、どうやら中年の男が、目の前の優先席に腰かけている女性に絡んでいるようだった。カバンに赤いヘルプマークをつけている女性はすっかり委縮して、怯えた表情で俯いている。
「年寄りに席を譲ろうともしねぇか!」
少しアルコールも入っているのか、赤らんだ顔で中年は女性に詰め寄る。ヘルプマークは持病を抱えているなど、何かしらの援助を必要とする人がつける目印だ。それをこの男は知らないのか、知っていてなお罵声を浴びせているのか、いずれにせよ不快で絢希は眉間にしわを寄せる。
しかし、少し混みあっているくらいには人がいる車内であるにもかかわらず、中年に注意しようとする者は誰もいない。それどころか、自分に火の粉がかからないようにサッと視線を逸らして俯いてばかりだ。
苦い不快感を確かに抱いている絢希もその一人だった。どうせもうすぐ降りるし、自分が注意に入ったら何をされるか分からないし、関係ないし。自分が動き出さない言い訳を次々と思い浮かべたあとは目をぎゅっと閉じて、ただ時が過ぎるのをひたすらに待つ。
「だいたいよぉ――」
「あの、おじさん」
第三者の声が入り、視線は再び優先席に注がれた。
勇気を出した青年が、緊張した面持ちで中年と対峙する。絢希はその姿を見てぎょっとした。手には自分が持っているものと同じ、大学名が入った袋をぶら下げていた――彼も新一年生だ。
「そういう迷惑行為って犯罪らしいぜ」
「あ? んだぁ、このガキぃ!」
犯罪というワードに触発されて、中年のターゲットがその青年へと移り、前のめりで大声を張り上げる。青年は一瞬怯んだものの、すぐに立ち直ってキッと中年を睨みつけた。
そして腕を掴みあげ、中年と吊り革を無理やり引きはがす。これには中年も面食らったらしく、「何すんだよ」と先ほどまでの威勢を削がれた声で抵抗する。青年は肩で深呼吸をすると、きっぱりと言い切った。
「次の駅で駅員呼ぶから」
「はぁっ!?」
「お姉さんも、すいませんがいいですか?」
「あ、えと、はっはい!」
青年がヘルプマークの女性に声をかけると、タイミングを見計らったように電車はゆるやかに減速し、ほどなく駅に到着した。
「あっおい、待て!」
ドアが開くと、腕を無理やり引っ張られて狼狽した中年の声がどんどん遠ざかっていく。二人の後をついて降りていった女性の後ろ姿を絢希が確認したのを最後に、ドアは何事もなく閉じていった。
中年の怒鳴り声がキンキンと響き渡っていたからか、車内に戻ってきた沈黙はいやに際立って感じる。
絢希は自分の身体がかなりこわばっていたことに今更気がついて、長く小さな溜め息と共に力をほどいていった。手のひらにはじんわりと汗が滲んでいる。
春ののんびりした空気が再び車内に満ちる。そんな中で、絢希の隣に座っていた二人組がふと口を開いた。会話が勝手に耳に入り込んでくる。
「さっきの子、勇気あるわねぇ」
「H大らしいわよ」
「嘘、なんで分かったの?」
「あの子の持っていた袋に書いてあった――……」
絢希はいたたまれなくなり、自分の持っていた袋を隠すように抱える。目的である次の駅に着くまでまだ少しかかるが、立ち上がってドアの方へ向かった。
かけていた眼鏡のブリッジを押して位置を整えると、ちょうどガラスに映った自分が見えた。吊り上がった細い眼はやや三白眼であるうえに、眉間に皺を寄せるのが癖になっているせいで、親にも無愛想だと揶揄される自分の顔。こうして意図しないタイミングでふと向き合うとつい舌打ちしたくなるのをぐっと堪える。
ドアが開くと、絢希は逃げるように降りた。早足で改札まで向かい、ポケットに入れていたICカードをやや乱暴に叩きつけてさっさと駅を出る。
オリエンテーション自体はすぐに終わったから、まだ昼下がりだ。おやつ時だからか、駅前のチェーンの喫茶店は客がある程度入っているようだった。しかし今の絢希は、さっさと早く帰りたくて一瞥するだけに留める。
駐輪場から自転車を出して資料とカバンをカゴへ乱暴に突っ込むと、絢希は力任せにペダルを漕ぎ始めた。春の陽気でぽかぽかと暖かいが、耳だけが不自然にカッカと熱い。きっと今の自分の顔は意味もなく赤いのだろうと思うとなおさらイライラしてきて、絢希はまたしても眉間に険しい皴を刻む。
先ほどの青年の姿が目の前にちらつく。同じ大学の、自分と同じ新入生。
ずいぶん緊張した面持ちだった。どうしようか考えて、注意すると決めるまでに躊躇もあったかもしれないが、あの青年は実行した。対して自分はどうか。どうせすぐ降りるし無関係だからと、すぐさま自分の保身に走ったではないか。
――自分があの女性の立場だったとしたら、絶対に助けてほしいはずなのに。
これ以上積み重ねようのないはずの自己嫌悪がますます募り、自身への攻撃感情はやがて方向を誤り、あの青年へのやっかみへと形を歪ませていく。
(なんだよ、あの偽善者。大学のアピールのつもりか? 俺はこの大学しか受からなくて親はガッカリしていたぞ、大学名を出すのだって恥ずかしいのに……)
がむしゃらにペダルを漕ぎ進めて家へ向かう。顔が熱い。惨めな思いがふくらんでいって胸が腐りそうだった。絢希は唇を噛み締める。荒れた皮に歯が引っかかって血が滲んだ。
《続きは同人誌で》
