僕の心は折れそうだ

 大学生の頃、医者になるうえでの心構えを教授に伝えられた。
『失われていく痛みの分だけ、得られる人になりなさい』
 医者として生きる以上、死別は避けては通れない。生死の話ではなくても、医療の進歩とは過去の技術の否定を意味する。
 大切な人、大切にしていた信念。それらに背を向けるのは、胸をひどく掻きむしられるような想いをすることだってある。
 だから、僕たち医者は失われていく痛みにふさわしいものを得ていかなければならない。
 感情に引きずられず、経験を糧にする。医者の生き方とは、自分が明け渡したものと引き換えに誰かを救い続けるようなものなのだと。

 僕に失うものなど、残っているのだろうか。
 この話を聞いたとき、まず思ったことだった。それから少し考えて、これからの僕は得るターンなのだと気づいた。
 声変わりが始まる前にはもう、何にも代えがたいほどの存在はこの手からすり抜けていった。あのときに、医者になるための痛みを全部受け取ったのだろう。
 いくら時が経とうが、悲しみも後悔も未だに癒える気配がない。だから、失った存在のために僕は得るのだ――知識を、技術を、経験を。しかしそれ以外は不要だった。大切なものを失くしてできた隙間は、それを救うためのもの以外で埋めたくなかった。
 友も栄光も、何もいらなかった。医者として生きられればそれでよかった。この有り様を孤独と誰かが呼んだとしても、その孤独と引き換えに成熟した医者になれるのなら僕は喜んで受け入れた。本当に、それでよかったはずだった。

 今、僕の手の中には馬鹿みたいに大きな花束があり、歩くのに邪魔なほどだった。
 ブーケに包まれた赤や黄、青の鮮やかな花々の向こう側には、馬鹿みたいに笑った男たちの顔が見える。
「ちょっと盛りすぎたな!」
「あはは、薫さんすみません……オーダーしてるうちに楽しくなってしまって」
 柏木は一応きまり悪そうな顔をしてみせるのに、隣にいる天道は謝ることなど何もない、といったように満面の笑みを浮かべている。
 少し身じろぎするだけで、甘い花の香りがいやでも花をくすぐる。これが花屋と組んでつくったものと聞いてなければ僕だって黙っていなかった。
「みのりさんがアレもコレもって言う花が全部よく見えたから、全部入れてブーケにしたんだ」
「これだけの量、持ち帰ったあとどうしろと言うんだ。僕の部屋に花瓶はない」
「大丈夫、プレゼントの中に花瓶も入れてやったからよ! あの殺風景な部屋も少しは明るくなるだろ」
 天道は一度しか入っていない僕の部屋を、殺風景だの色がないだのいつまでも言ってくるのがやかましく、そして腹立たしい。余計な物をあまり持たないようにしている自室に、文字通り華美極まりないこの花が飾られているのを想像するだけで目眩を覚える。
 花越しに二人を見れば、僕宛てのプレゼントが入っているらしい紙袋を柏木が両手に持っている。天道も携帯をいじりながら、もう片手に袋を持っているから、一体何をどれだけ用意したのか計り知れない。
「もう少しでタクシー来るってよ。期待しろよ、腕によりをかけて作った特製ディナーコースだぜ」
「わぁ、輝さんのご飯いつもおいしいから楽しみです」
「おいおい、翼。嬉しいけど今日の主役は桜庭だからな」
 これから天道の家に行くことになっている。プレゼントの他に、彼の料理を馳走になるのだ。この花束にこのプレゼントの量を見て、今ですらなんだか胸焼けしたような居心地なのに、これから手料理が来る。
 ブーケを横に少しどかしてまで、天道は僕の顔を覗き込む。唇を尖らせてやや不満げな表情だった。
「いつまでそんなムスッとしてんだよ、機嫌直せって。この花束だって見事じゃねえか」
 いろいろな人間の手がかかっている以上、邪魔の一言だけはなんとか言い留めているが、同じく僕の顔を見た柏木が「輝さん……」と何やら怯えた声を出しながら天道の後ろに隠れる。
「来年はもっとコンパクトなやつにしてやっから!」
 「来年」という言葉を、天道が事もなげに口にする。
「はい、来年はちゃんと薫さんのリクエスト聞きますね。でもオレたちの他のプレゼントもいいものだと思います!」
 今しがたの怯えはどこへやら、紙袋を掲げた柏木が楽しそうに笑った。
 花束が腕から滑り落ちそうになり、なんとか持ち直す。この甘い香りを漂わせる花々がそれぞれ何という花なのか、僕は知らない。
 ――アイドルになって、失うことが途端になくなってしまった。
 ここには誰かの泣き声も、生死をさまようバイタルサインも、常にうっすら漂うエタノールの匂いもない。あるのは誰かの笑顔と、あふれるほどの花と、山積みのプレゼントだ。
 自分の腕ではとても抱えきれないほどの物を見て、ふとあの言葉が蘇る。
『失われていく痛みの分だけ、得られる人になりなさい』
 医者になってからは教授の言葉に従うような出会いと別れの繰り返しだったのに、この道を選んでから、僕は出会ってばかりだった。
 いつも喧しい天道に、目をむくほどの大食いの柏木。最初はこんな奴らと組むくらいなら一人でいいと思ってばかりだったのに、この二人は来年も僕の誕生日を祝う気でいて、――来年もどんな迷惑をかけられるのか、などと考える自分がいた。
 過去の大きな喪失が、医者とは違うものでどんどん埋まっていく。
 もし、この隙間が広がることがあったとして――僕はドラマチックスターズを、この二人を失うことなどできるのだろうか。必要な痛みだと自分に言い聞かせる真似を、自身に許して前に進めるのか。

 何かを救うためなら、自分の持つものを犠牲にしたってよかったはずだった。
 それなのに、今の僕はその考えを許せずにいる。得られるものは全部この手に入れて、手放す気など全くない。例え何かを引き替えにもらえるとしても。
 自分が強欲になったのか、それとも何かを失うことに対して恐れを覚えるほど――僕が弱くなってしまったのだろうか。
「こんなには、必要ない」
 有り余るほどもらいすぎると、どうしていいのか分からなくなるから。
 花びらに鼻の頭をごく軽く押しつけると、香りは一層強くなる。胸焼けに近い気持ちは苦しいほど満ちて、どこかからあふれて出てきそうだった。
「だから来年はもうちょっと考えるっての」
 僕の言葉を受けた天道は拗ねたようにそう答えて、それから軽く笑ってみせた。

《了》