Prayer

 春の涼しく穏やかな風が彼の肌を撫ぜる。その心地良さに美作は一瞬目を閉じた。それでも彼の身体から次から次へと汗が流れるため、美作はジャージの裾で適当に肌を拭った。しかし吸水性のない生地では肌の上に汗が広がるばかりであまり意味がなく、不快感が募っていく。
 いつも走っているコースの、ちょうど小さな公園に差しかかったところ。美作は休憩しようと半ば吸い寄せられるようにベンチへ近づき腰かけた。

 うなだれるように腰かけながら、ルーチンワークに組み込まれているランニングでどうしてここまで疲れるのかを美作は考えていた。正解はすぐに思い当たる。単純な話で、美作はここ数日コースを走っていなかった。ランニングどころか余程のことがない限り怠らない日頃の鍛錬を、彼はまるでそんな習慣などなかったかのようにすっぱりとやめてしまっていた。
 では今まで何をしていたのか。久々の運動に酸素を急速に欲する頭で美作は考える。眉間に皺を刻み険しい表情を浮かべながら、しかし彼の胸の内は驚きと戸惑いに溢れていた。それもそのはずで、美作は何も思い出せなかったのだ。この数日間、自分がどのように過ごしてきたのかを彼は思い出せずにいた。
 しかしそれは具体的な行動といった記憶の内容の話ではなく、自身がどのような「意味」を持ちながら日を過ごしたのかが分からないということだった。日頃の鍛錬は彼にとって最も強い者になるという意味がある。それを怠ることは――美作にとって目的の否定に繋がった。そのことに思い当たったとき、美作は思わず自分でかぶりを横に振った。

(俺は…諦めたわけじゃない)

 自身に言い聞かせるように頭で反芻し、強く目を閉じる。無意識のうちに組まれた彼の手には力がこもり、誰かが止めなければそのまま爪が食い込んでしまいそうなほどだ。
 美作は何の意味もなしに鍛錬を怠った自分を許せなかった。空白の日を埋める努力が必要だと彼は考える。原因は――なぜこの数日間鍛錬に励むようなことを何もしなかったのか。美作はいつから鍛錬を怠ったのかを思い返して――「あの日」からだと気づいたそのときだった。

「こんなところで奇遇だな」

 美作が顔をあげると、彼の視界にまず赤い髪の毛が入り込んだ。そのまま視線を移すと、彼を見下ろす黄色の双眸と目が合う。薄い唇を笑みの形に広げ、三条はにこやかに美作に話しかける。

「おれのこと覚えてるかい?」
「あぁ。俺は一度会った人間は忘れない」
「なら良かった。知らないって顔されたらどうしようかと思ったぜ」

 お互い既知の仲であることを確認すると、三条は安心したのか肩の力を抜き美作の隣に腰かける。美作は再び眉間に皺を寄せた。三条が何の用で自分に声をかけたのかを理解しかねていた。その表情を察してか三条は再び笑う。今度は確かな笑い声を伴っていた。

「なんだよ、そんな顔しなくたって良くないか」
「何の用だ」
「そんなたいした用じゃないって。いたから声をかけただけ。お前は?」
「…俺は」

 今何をすべきか自分の中で答えを見つけている最中だった美作は言葉を止める。迂闊だったと気が抜けてばかりの自分を責めずにはいられなかった。立ち上がりランニングを再開しようとする。美作の中には確かな焦りがあった。言葉も途中にその場を去ろうとした美作を三条は慌てて引き留めた。

「おい待てよ、急いでんのか?」
「…俺にはやらなきゃいけないことが山ほどある」
「何だそれ。…それって」

 絵とか? 三条がなんとなしにかけた言葉に美作はぴくりと反応した。振り返った自分がどんな顔をしていたのか美作には分からない。ただその顔を見て三条も驚いた顔をした。顔色を窺いながら、気まずそうに頬を掻いて三条は美作におずおずと尋ねる。

「もしかして人に知られたくなかった?」
「いや。ただ、…驚いただけだ」
「そう。でも別に不思議なことじゃないぜ」
「…なぜ」
「知りたいかい?」

 やや意地悪そうな笑みを浮かべ、三条は美作を見た。美作は正体不明の危機感を抱きながらも、その視線を決してそらすことなく三条の情報を思い返していた。
 最後に三条と会ったのは、少し古びたビルの中にある事務所のオーディション会場であり、彼はそこで確か元保育士と言っていたはずだった。聞いたときは何の感想も抱かなかったが、こうして近くで対面すると、話し口調や纏っている雰囲気で人を懐柔することに長けていそうだと美作は感じた。その感想から美作の中で警戒心が発生したのを三条もなんとなく感じとったのか、先程まで美作が座っていたスペースを軽く叩いて彼を促す。

「そんな長話するわけじゃない。ここで遇ったのも何かの縁だ、まぁ座りな」
「……」

 睨むように三条を見据えながら美作は三条に促されるままに再びベンチに腰かける。三条は自分の眉間を指さし「皺すごいぜ」とからかうような口調で言ったあと、顔の力をほどく。

「そんな難しい話じゃない。お前がここでスケッチしているのを見たことあるんだ。日本画が趣味なんだろ?」
「……」
「おれ、前は保育士だったのは覚えてるかい。今まで面倒見た子どもはみんな覚えてる、ご両親の顔と名前も。…人のことをよく見るのは職業柄かな」
「…そうか」

 会話が途切れるその瞬間を狙ったかのように、二人の間を抜ける強い風が一瞬吹いた。三条はばらばらと靡く髪を押さえて目を細めながら隣の美作に視線をやる。美作は服や髪が乱れるのに構う様子も見せず宙を見据えていた。
 木が揺れて葉が擦れる音が妙に三条の耳につく。第一印象から変わらず、三条にとって美作は静かな男だった。ただ、こうして近づいて思ったことが一つ――言葉にしないだけで、美作は恐らくじつに多くのことを考えているらしい、ということだった。今虚空を睨んでいるその視線も、三条からすれば、わざわざ言葉にしなくたって伝えたいものがこんなにも多いことを、丁寧なことに美作の方から示しているように感じられた。

 美作が今何を考えているのか。三条にはなんとなく分かるような気がしていた。三条にとって美作と自分は、性格も境遇もまるで似つかないものの、今となっては置かれている立場はほとんど同じであるためだった。

「…絵はクレヨンと色鉛筆くらいしか使わないから詳しいことは知らないけど、日本画ってそれ用の絵の具とか使うんじゃないのか」

 なるべく相手が警戒しないように、冗談めいた軽い話し口調で三条は話を進める。美作は視線に籠められた力を少しだけほどいてから静かに、一つひとつを選ぶように話し始めた。その様子に三条はやや安堵を覚える。

「洋画も日本画も最初の過程はそこまで大差ない。俺の場合はスケッチから線画におこす作業からだ」
「へぇ。じゃあここで美作を見かけたときはまさに最初の最初だったのか」
「そういうことになる、…お前、そういえばいつ俺を見かけた」

 鋭い視線は三条に向けられる。ようやくおれを見たな。三条は美作の確かな変化に手応えと充足感を覚えて背もたれに身体を預ける。気の抜けたような態度に美作は首を傾げた。
 ゆるく閉じられた三条の瞼から、美作は正体の掴めぬ余裕のようなものを感じ、それが三条の答えを知りたいという急いた感情へと繋がっていった。それを読んだように三条がひらひらと手のひらを振る。

「美作は絵が好きなのかい」
「…絵は集中力の鍛錬に繋がるかと思って始めたものだ」
「本当に? そういう理屈だけ?」
「何が言いたい」
「この公園、いいところだよな。小さいけど周りは緑で車もそんな通らないし、子どもたちも安心して遊べる」

 再び黄色の双眸と目が合ったとき、美作はほんのわずかに身体を硬くさせた。以前にこの公園で見られたことと、この会話のみでなぜだか自身の内側を隅まで覗きこまれたような、そんな危機感を覚えたのだった。

「そろそろ教えてあげよう。…美作を見かけたのはつい一昨日。そのときおれは散歩していたんだけど、ここを通ったのは初めてだ。なんでだと思う」
「……」
「本当は散歩なんて柄じゃないんだぜ。そんなことしている暇があればもっと有意義なことに使うさ。だけどおれはぶらぶら歩いていた。なんだろう…何も考えたくなかったんだ、いや」

 何も考えられなかったんだ。
 三条の種明かしは美作の腑に落ちるようなものであることに美作自身が驚いていた。何も考えられなかったのはまさしくこの数日の自分だったのではないか? 集中力の鍛錬になるとはいえ、肉体に直結しない日本画制作に没頭していたのも、ただ無碍に日を過ごしていたのも、誤魔化しきれない虚無感が美作を支配していたからであった。

「美作には悪いけど、おれは自分がオーディションに勝ち残っているもんだと思ってた。人を好きになるのも好かれるのも得意なんだぜ、なんてな」

 三条はそう言い笑みを浮かべて悪戯っぽく目を細めるが、美作の耳には冗談に聞こえず彼の身体は再びわずかに硬直したようだった。三条はその様子には気づかず、頭を乱暴に掻いて大きな溜め息と共に言葉を吐き出す。

「だけど落選だもんな。自惚れていたんだってそこで初めて気づいた」
「…落選は事実だ。取り消せるものではない以上、どんな結果も真摯に受け止めるべきだろう」
「分かってるさ、そんなこと。負けって言われたらそれまでだ。だけど美作、悔しくないのかい?」
「……」
「悔しくないなんて言わせないぜ」

 三条は美作の碧眼を覗きこむ。彼の中に言いようのない激情が渦を巻いているのを三条は確信していた。

 その脳裏で思い返すのはスケッチしていた美作の表情だ。趣味に没頭している、集中しているのは伝わるものの険しさとは無縁のその表情は三条がオーディション会場で見たものとは別物だった。美作の、腹から出された声での意思表示を思い返して、そこからスケッチの現場と比較して、写実性を求められる行為の割に伏せがちになっている目線に――彼もまた自身と同じ心境なのだと思ったのはほとんど直感のようなものだった。 
 単に趣味の時間を過ごしていただけだと思おうとも、一度確信めいたものを抱くと否定しづらいのが三条の感想だった。こうして再び会えることも、狙っていたと尋ねられれば完全に否定することは彼には難しい。だからこそ三条はもう一度得られたチャンスを逃す手立てなど毛頭なかった。もし美作の抱いている虚無感が自分の抱えているものに似ているのであれば――共有したかった。しかしその理由までは三条にはうまく説明できなかった。

 美作は三条から目を逸らすことなく、ただゆっくりと呼吸をして鼓動を落ち着かせていた。思い返したのはこの数日間のことだ。
 落選を告げられ、自身の求める最強から道が遠ざかったあの日から、美作の胸には厳しい鍛錬では埋められようもない隙間が空いた。目を逸らし忘れることは愚直なまでにストイックな美作にとっては困難なことであり、ただ戸惑いばかりが溢れて彼の動きを止めていた。そこに今、三条が容赦なく入り込んでくる。なぜ三条にはそれが可能なのかを美作はこの瞬間理解した。
 美作にとっても三条にとっても落選は拭いようもない事実だった。だから。

「悔しいに決まっている。だから俺は同じことは繰り返さない」

(…あぁ、その目だったな)

 オーディション会場で見たのは。三条は満足げに微笑んで、わずかに顔を美作の方へ近づける。美作はぴくりとも動かない。美作は三条の眼の色が確かに変わったのを見届けていた。今目の前にあるのは、あのとき事務所で見かけたような、不敵な彼の表情だ。

「負けを知ったおれはもう今までのおれじゃない。次は――勝利をいただくぜ」
「勝つのは俺だけで充分だ」

 その言葉に三条はあくまで楽しげに笑みをこぼし、喉の奥で笑い声を抑えた。その様子をさして気にも留めず美作は立ち上がった。後ろ姿に三条はやや目を細める。三条にとって美作は変わらずに言葉数の少ない男だった。ただ、姿と目線はあの場にいた誰よりも雄弁であることに三条は気づいたのだった。
 走り去ろうとする後ろ姿に、そうだ、と三条は最後の言葉を投げかける。

「次会ったときには日本画、写真でもいいから見せてくれ。美作の描く絵がどんなものか気になるんだ」
「…覚えていたらな」
「絶対、覚えてるだろ」

 美作は返事をせずに走り出す。その態度に軽い溜め息をつきながらも――最後にちらりと見えた表情に、三条はひどく満ち足りたような気持ちになり、地面を軽く蹴って立ち上がった。

《了》