渇き(再録)

 ひたすら喉が渇いていた。

 古いから、という言い訳がつくらしい。高校の冷房設備のほとんどが扇風機だ。校舎の中に入ればぬるくなった空気が肌に絡みついて嫌気がさすし、三年かかってもついに慣れることはなかった。だけど担任の話いわく、作並たちが三年にあがる頃にはクーラーを完備させる計画らしい。少しだけ悔しさを感じる話だ。
 夏休み中に入った今、校舎には当然のことながら人の姿は見当たらない。だけど外や体育館の方から声がするから運動部は休み云々関係なく通常営業中なのだろう。その中にバレー部ももちろんいる。汗の滲む肌が気持ち悪くて、俺は腕をごしごし擦りながら部室に向かった。

 インターハイを敗退して俺たち三年は引退した。引継ぎに必要なものは全部渡した、はずだけど後輩はしょっちゅう「遊びに来てください」とか「練習付き合ってください」とか言って俺たちを体育館に引きずり込もうとする。声をかけられるたびに、もう代替わりしたんだからちゃんとしろとたしなめたい気持ちと、やっぱり先輩として頼られるのは嬉しいし後輩は可愛いという気持ちと、こうして声をかけられるのが徐々に少なくなっていくんだろうと考えるとちょっと寂しくなる気持ちと、色々なものが胸で入り混じる。でも、やっぱり密かに嬉しい気持ちが勝ってしまうからこうして足を運ぶのかもしれない。茂庭さん、と光が多く入った後輩の目を思い出す。
 着替えの入った鞄が肩に圧しかかって煩わしい。それよりむしむしした暑さとまとわりつく空気のせいですごく喉が渇いた。でもボトルは着替えと一緒に突っ込んでしまったせいで取り出すのが面倒だ。まず水分補給だ、そう思いながら部室のドアを開ける。
「あ」
「あ、茂庭さん」
 ドアを開けてまず目があったのは古ぼけたすりガラスの窓でもその下にある汚れた網戸でもなく二口だった。今体育館にいるはずの二口がなぜかそこにいた。思わぬ出来事に身体が少し退く。二口は俺の様子には気づかないまま首にかけているタオルで乱暴に顔を拭いた。
「思ったより早かったですね、今さっき休憩入ったんです」
「え、でも二口なんでここにいんの」
「ボトルここに忘れちゃって」
「おいおいもっとちゃんとしろよ、もう主将だろ?」
 俺が主将という言葉を口にすると二口は拗ねたように顔をふいと逸らす。今もまた俺から顔を逸らして「そうですね」とだけそっけなく答えた。その様子に苦笑いが漏れてしまう。二口は主将を引き継いでから確かに成長しているのに、その根幹がまるで変わらない。気に入らないことがあれば顔に出すし気に入らない相手には変わらず容赦のない言葉をぶつける。見せる仕草が時々ひどく子供っぽいから、俺は二口がなんだか放っておけなかった。
「どうよ、調子は」
「どうもこうもありませんよ、黄金川は戦力にはとてもなりません、茂庭さんあいつにセッターとは何か教え込んでください」
「うーん、確かに黄金川は技術はまだまだだけど…でもタッパあるしこれからぐんと伸びるよ」
「背はもうあれ以上伸びちゃ困りますけどね、知ってますか? 試合中たまにあいつと激突するんですよ、でけぇのにめっちゃ素早くてほんと信じらんねぇ」
 とても大きな身体を持つ黄金川がとても大きな二口にぶつかる図を想像して笑いながら着替えるために服を脱ぐ。汗の染みこんだティーシャツは家に出る前着たときよりも少し重くなっている気がした。部室は換気が最悪で空気がすぐ籠るから外のよりも蒸した空気が肌に張りつくみたいだ。不快な感覚に、あついという言葉が自然と口からこぼれた。
「暑いですね、ここもクーラー欲しいです」
 二口は俺の独り言へ律義に返事をし、ボトルへ口をつけて一気に傾けた。
 あ、と浅ましい息が漏れそうになる。飲む動きに合わせて二口の汗が額から顎へ輪郭を伝って落ちる様を俺は息を忘れてじっと見つめた。外では蝉がうるさくて仕方がないのに、飲み物を飲みこむゴクリという音がそれに紛れて聞こえてきそうで俺は若干くらくらした。二口の少し出っ張った喉仏が上下に動く。なんだかとても出来のいいアニメーションみたいだ。すっきりとした横顔を見れば、睫毛に汗のしずくがついている。睫毛ちょっと長いんだなと思うのは初めてじゃなくて、もしかしたら三回目くらいかもしれない。じわりと湿った気持ちが胸の中に染みわたった。こういうときの俺は、ひどく汚い生き物に成り下がったようだ。
「…どうしましたか」
「え?」
「なんかぼーっとしてるから。熱中症ですか?」
 大丈夫ですか、と二口が腕を伸ばす。俺の肌色より少し黒いのは外に出る時間が長いせいだろうか。そんなところまで目に入ってしまった自分が本当に愚かだと思うけれど、それどころじゃない、見ていたことがバレてしまった。どうしようどうしよう。焦りでパニックに陥った頭で俺は逃げ道がないかを考える――二口以外に目に入ったものをとっさに指さした。
「あ、あみど」
「網戸?」
「せ、蝉…」
 せみ? と二口が訝しげに振り返る。網戸にはジリジリと鳴いている蝉が二匹も張りついていた。俺が入ったときにはいなかったのにいつの間に、と言えば二口はあまり楽しくなさそうな顔で蝉の裏側ってグロいッスね、と唇を歪ませた。二口の腕と身体が遠ざかる。力が抜けるのを感じながら俺は心底ホッとした。大事なことがバレなくて良かった、ただそれだけの感想を抱く。
「練習そろそろ再開するんで、着替え終わったら来てください」
 ボトルを持った二口がそう告げて出て行った。バタンとドアが閉じる音に続いて、汗が今までとは比べ物にならないほどドッと溢れる。練習用のティーシャツに中途半端に着替えたままの俺は、脱力感からの眩暈に耐えきれずにふらつく。バレたときの言い訳なんて何一つ思いついていないのに、二口を視線で追ってしまうことはどうしてもやめられない。これが部室から足が遠ざかる理由の一つでもあった。
 口の中がカラカラに乾いている。ごくりと唾液を飲みこむと、喉の渇きをひどく意識した。

 いつから二口の身体を、綺麗だなんて思うようになってしまったんだろう。
 身体だけじゃない、顔だって。練習がきつくて歪んだ表情を見せても、人をからかって笑っている少し下品な表情だって、俺はたまらなく惹かれてしまう。ずっと見ていたって平気だろう。自分でもおかしいことは重々承知している。できれば気づきたくなかった。だけど気づいてしまった。だって、二口が夢の中に出てきたから。

 夏休みに入る少し前のことだった。夢の中で茂庭さんと名を呼ぶ声は久しく懐かしかったんだ。だけど親しんだよく通る声はなぜか俺の鼓膜を撫でてから消える。声は確かに聞こえるのに、景色はなんだか薄明りでぼんやりとしていて不明瞭だった。どこにいるんだ、二口。夢の中の俺はそんなことを言った気がする。俺が呼びかけると、二口が笑った。くすくすという、嘲っているような、楽しんでいるようなよく分からない笑い声は初めて聞くものだった。俺はその響きに不安を覚えてもう一度名を呼んだ。二口、どこだと。
 すると霧のような薄明りから腕が伸びて俺の手を掴んで引き寄せる。驚いて声をあげるより先に、目の前に現れた顔が微笑む方が先だった。
『ここにいますよ、茂庭さん』
 俺はとうとう声をあげた。悲鳴にほぼ等しいもので、俺は二口の腕を振り払おうとする。だって、俺は――知らない人の顔だと思った。こんな二口知らないと脳がとっさに判断して、俺は目の前の二口に似た知らない誰かより逃げようとした。だけど俺の手を掴む二口の力はすごく強くて離れてくれない。
 目の前の二口はやっとはっきりとした笑い声をあげた。俺の知っている二口の笑い方だけれど違和感が拭えない。二口は笑顔を浮かべたまま俺に近寄る。二口の身体は靄に包まれたかのようでよく見えなかった。
『逃げないでください、どうせ逃げられませんから』
 背筋がぞくりとする声音だった。二口はあっけなく俺の手を離し、かと思えば、そのまま手を俺の身体に這わせた――信じられないことに俺は裸だった。いや、正確に言えば裸かもしれなかった。俺の身体もぼんやりとした視界のままよく見えなくて、でも伝わってくる感覚が何も身に纏っていないことを伝えてくる。
 遠慮などなしに二口の指が俺の身体を滑り落ちるようになぞる。肌がぞっと波立った。何これ、なんだこれ。分からないことばかりで頭が追いつかない。不安と怖さに目が眩む。二口が俺の腰あたりに触れた。指先のぬるい体温に声があがる。
『茂庭さん、こっちです』
 やだ、ふたくち、こわい。子供のように単語を並べて俺は逃げようとする。だけど身体がまるで動かない。眼前の二口の目を覗きこむと、二口の目は俺の全てを見通すように透き通った茶色をしていた。身体がぐらりと揺れる。二口が俺の背に腕を回して身体を支えた。近づく肌と肌の距離。ぴた、とくっつく音が聞こえた気がした。
『じっとしていてください』
 息が多くて掠れた声が耳元で聞こえる。もう駄目だった。身体がよろけて二口の方へと傾く。恐らく倒れた先であろう二口の胸の辺りは硬かった。肌と肌がとうとうくっついた。二口の長い腕に抱きしめられる。身体と身体の境界で体温が混じる感覚を俺はこのとき初めて知った。
 あ、あ、と喉が引き攣れたような無様な声が出る。離れろとも触るなとも口が動いてくれない。頭の中で警鐘がガンガンと響いて痛くなりそうだ。だって、これ、こんなの良くない、この先は――考えたくもない。言うことを聞いてくれない身体からなけなしの力を振り絞って二口の身体を引き剥がそうとした。だけどそれも二口がより強い力で抱きしめてきたせいでふいに終わる。二口が俺の耳に唇をあてた。
『どうせ逃げられませんと言いましたよね。だから逃げないでください――俺も逃げませんから』
 すがるような言葉に不安が呼び起こされてもう一度名を呼んだ。どうしたんだ、二口。二口は俺の言葉には答えずに黙って腕を動かす。その行く先に俺はとうとう本気で悲鳴をあげた。
『大丈夫ですよ、茂庭さん』
 何を根拠に、と俺が言う暇などなく、二口はその大きな手で俺の性器に触れた。他人に初めて触られる場所に俺は息の仕方を忘れる。二口が宥め落ち着かせるように俺の背中をさすった。脚がぶるぶる震えて崩れそうになるのを二口の腕が許してくれない。性器を包む手がゆるく動き出したとき、俺は声をあげた。その声はざらりと嫌な響きを持っていて、悲鳴とも息とも違う、高くて癪に障る――女みたいな声だと思った。声変わりをとうに済ませた自分の声からそんな音が出ることが信じられずに、俺は二口の方へ無茶苦茶に腕を伸ばしてしがみつく。
 唇を噛んでも高い音は抑えきれなくて、隙間から漏れるように聞こえた。いやだ、やだ、こんなの知りたくない。自分のものではないような声でひたすら二口の名を呼び続ける。なんだか迷子の泣き声のように悲壮感が漂って居たたまれなくなった。だけど二口は離してくれない。太腿の震えが止まらなくて、支えなしではとても立てそうもなかった。
『気持ちいいですか、茂庭さん』
 普段の笑い声から想像できないほどの艶めいた声が俺の名を呼ぶ。規則正しく動く手からは濡れた音が聞こえ始めて俺は耳を塞ぎたかった。腰が中心から砕けてしまうようなこの感覚を俺は知っている。快楽という文字がちらついたとき、喉がぎゅうと締まって苦しくて息が詰まった。あ、と一際大きな声が俺の身体から溢れる。整えたくても息は勝手に不規則になって、頬がのぼせたように熱くなる。
 ふたくち、みないで。否定の言葉は下手くそな息遣いに混じって不明瞭になる。二口は手を止めずに、ただ俺の耳元で。
『全部見せてください』
 声が俺を撫でた瞬間、背筋が張ってピン、と骨が伸びた。あぁ、と後悔の声が漏れたときには遅くて、二口の手からこぼれた体液が性器を伝って太腿に滴り落ちたのがくすぐったくて、俺は一度ぶるりと大きく震えた。大きな快楽の波が来たあとの倦怠感に侵されて力が抜ける。
 二口はようやく俺の身体を少しだけ離して俺を見た。透き通った茶色とぶつかる。この距離だと睫毛の一本一本さえも分かってしまった。この顔を前にしてもうどうやって弁解すれば良いのか分からない。俺は死ぬほど泣きたくなったけれど、涙が頬を伝うことはなかった。
『茂庭さん、俺、まだ茂庭さんのこといっぱい知りたいです』
 その言葉はどういう意味かを尋ねる前に二口の顔が近づいて、あっという間に唇が重なった。二口の唇はやわらかくてかさついていて、俺はいつかの寒い日に二口が、寒いと肌がすぐガサガサになると唇を尖らせて文句を言っていたことを思い出した。二口の姿が離れていく。まって、と呼びとめようとすると、薄明りは急に眩いほど明るくなり、二口の姿が光に呑みこまれるように見えなくなった。

 思えばあれからだ。
 あんな酷い夢を見てから俺はなんだかおかしくなってしまった。二口のことを妙な目で見てしまう。夢の中の二口はとても怖かったのに、あいつの声と手と唇は俺にあまりに良くない印象を残した。実際に聞いたことのあるものじゃないのに、俺の頭がそれらはまるで俺のためだけに用意されたものであると信じてこびりついて、今でも直らない。
 もう自分の中では認めているんだ。夢の中、ぼんやりとした視界で見た二口の何もかも、とてもとても色っぽかった。普段夢なんてすぐに忘れてしまうのに、二口の姿だけが忘れられない。その幻を思い返すと、なんだかとても喉が渇いて仕方がなかった。…俺はもう、まともに二口の顔を見られる立場じゃない。いつでも部室に来てくださいとメールで来るたびに、二口の顔を盗み見るたびに罪悪感が心をひやりと撫でて、夢の中のように息が詰まるんだ。

 どこからか蝉の鳴き声が聞こえる夜、渇きは急に俺の身体に浮上する。クーラーがタイマーで切れてぬるい空気が籠る部屋で、俺は寝られずに目を開けた。慣れた自分の部屋は暗い中でもどこに何があるか分かる。洋服ダンスの上には綺麗にしているけれど使い込んだ感じが滲み出ているバレーボールが置いてあるんだ。そのボールは、二口も触ったことがある。一度部のみんなが俺の部屋に遊びに来たときに触ったんだ。どうして俺はこんなことまで覚えてしまっているのだろう。
「は、ぁ」
 息が苦しい。喉が渇いて、渇いて。俺は熱が籠る下腹部へ手を伸ばす。自分が世界で一番浅ましい生き物になる瞬間だった。
 二口の残滓が少しでも感じられるものを見たくなくて俺は瞼を強く無理に閉じる。涼しさが失われていく中で額に汗が滲んでいくのが分かった。
「ふたくち」
 渇きに喉が締まって出る声は妙に高くて、女の子の真似をしているようで自分への嫌悪感が積もっていく。瞼の裏に浮かぶ二口は、いつの間にか夢の中よりも鮮明になっていて、だけどそれは全部俺の妄想だ。夜な夜な思い浮かべる二口の身体は引き締まっていて、鍛えてもあまり筋肉のつかなかった俺の身体とは全然印象が違う。
 そしてその身体が俺をぎゅうと強く抱きしめて押し倒すんだ。次に長くて一筋太い血管が浮いて見える腕と骨ばった大きな手が俺の身体を触るんだ。その想像だけで全身の肌が震えて強張る。優しい触り方しか思いつかないのは、あいつが本当に酷いことをする様がまるで想像できないからだろうか。二口は俺の目を見つめながら全身にキスをしてくれる。やわらかな唇の感覚を思い出すために俺は空いている手で自身の唇を触った。二口の唇はもっと薄いから、実際はどうなんだろう、…そんなことしか頭に浮かばない。ゆるく張りつめてきた性器をいつものように扱く。ただ思い浮かべるものは見たことのない女の人の裸じゃなくなった。俺の頭の中に浮かぶ二口は情けない俺の姿をもっと見たいと請う。実際にそんなこと言うはずもないのに、俺は夢の中に酔っていた。
「…く、ぅ」
 手がどんどん濡れてくる頃には俺の中には罪悪感なんて消えて、ただ快楽を迎えることで頭がいっぱいになる。なんて酷い、なんて醜い。だけど俺は止められない。二口に申し訳なくて仕方がないのに止め方を知らなかった。
「ふたくち…」
 名を呼べば二口は笑ってくれた。笑って、茂庭さんと俺の名を呼ぶ親しい声が蘇る。現実に基づいた記憶に想像を重ねると、もう何が何だか分からなくなって俺は堪らずティーシャツの襟を噛んだ。
 腰の辺りが熱を抱えたように重い。俺は手を動かす速度をあげる。遠くの蝉の鳴き声しか聞こえない、ぬるく湿っぽい夜の闇の中から二口の声が聞こえた気がした。――全部見せてください、と。
「あっぁ」
 手に水よりも重い液体がかかる。達する瞬間はとても気持ちがいい。全身がびりびり痺れて、爪先まで力が入って、とろけてしまうような快感に瞼がすっと重くなるんだ。だけどいい思いをした代償は必ずやってくる。強い快楽と共に訪れるのは倦怠感に似た眠気と、達する前よりも遥かに強い罪の意識だ。
「ふたくち…」
 女の子のような声はすぐには直らない。目に涙が浮かんできて、俺は一人洟をすすった。どうして俺、大事な後輩のことを思いながらこんなことしているんだろう。いつも後悔するのにどうして同じことを繰り返してしまうんだろう。こんなのバレたら嫌われるどころじゃないし、俺は死んでしまいたくなる。だけど時間が経つと、快楽を覚えた頭がもう一度、と夢の中の二口を求めるんだ。同じことの繰り返し。しかも最近の二口の姿と俺が描く幻はリンクしていて尚のことたちが悪い。だからもう、最近はあまり部室に行くのに気乗りしない。
「ごめん…」
 このままだと本格的に涙が出てきそうで枕に顔をうずめる。真っ暗闇になった今ならようやく寝られそうだ。背中の汗でティーシャツがひっついて気持ちが悪いけれど、もう何もかも自業自得なんだ。目を閉じるとゆるゆると眠気がやってきた。なんて都合のいい身体なんだろう、大嫌いだ。俺は何度も謝罪を口に唱えながら、二口が再び部室に来てほしいと頼んでくることを少し恐れて眠りに就いた。

+++

 屋内なのにじりじり焦げつくような熱気を感じる廊下を歩いて、俺は部室にやってきた。夏休み真っ只中の舎内に人なんて誰もいない。人の声の代わりに蝉の鳴き声しか聞こえないのが少しだけ不自然で俺は少しだけ緊張した。
 この間練習を見に来たとき、うっかりタオルを部室に忘れてしまった。そのままでも良かったのにマネージャーがわざわざ洗濯してくれたらしい。部室に入って目に入りやすい場所に置いておきますので都合のいい日に来てください、という連絡がつい昨日届いた。俺は謝罪とお礼を返して、そのあとどうやって二口に会わずに取りに行けるかを必死に考えた。練習に呼ばれるのはなんだかんだ嬉しいけれど、二口のことをじっと見てしまうことだけを避けたい。我ながらとても勝手な理由だった。
 どうしようかと考えているとき、マネージャーから遅れてもう一つの連絡が来た。明日は体育館の定期点検日だから練習は午前で終わります、監督がいるから部室は夕方まで空いているけれど、部員とすれ違いになるかもしれないので気をつけてください、という内容に、俺は不覚にも嬉しいと一瞬感じてしまい、そのあと色々な意味でマネージャーに謝りたくてまた自分のことが嫌いになりそうだった。誰も知らない、俺だけの罪が積もり積もって溜まっていく。だけど引き取りに行くならもう明日しかないと考えて、こうして暑さがピークの昼下がり、蝉の鳴き声を全身に浴びながら学校まで来た。
 ドアは連絡の通り開いていた。だけど監督の姿も見当たらない、職員室だろうか。換気のためか窓が開いていたけれどドアを閉めていたら意味がない。熱気と涼しい風が同時に吹き寄せて思わず顔をしかめる。だけどお目当てのタオルは古びた背もたれすらないベンチに綺麗に畳んで置いてあったのがすぐ見つかった。なぜか強い安堵を感じて俺はタオルを手に取って部室を出ようとした。

 瞬間。目に入ってしまったものがあった。錆びついたロッカーの右から三番目が開いている。ロッカーを閉めないのは鎌ちと二口の悪いくせだった。戸締りはきちんとしてるけどそれでも危ないからちゃんと閉めてと俺もマネージャーも注意したことがあった。左から二番目の、かつて鎌ちが使っていたロッカーはきちんと閉じられていた。今は誰が使っているのか俺は知らない。だけど右から三番目のロッカーが変わらず誰が使っているかは知っていた。
 開いたロッカーの戸には部で使っているプラスチックのハンガーがかかっていて、黒いティーシャツが吊り下げられていた。黒地には派手な絵がプリントされていて、二口が音楽が好きな親戚から譲られたけどダサくてとても外には着て出られないと嘆いていた。このシャツを褒めていたのは誰だっただろう。二口はその言葉を信じられないという風に聞き顔をしかめながらシャツの裾で自分の汗を拭っていた。その記憶が頭の中を駆け巡って、喉に汗が伝う。
 これは二口の身に纏っていたものである――認識と共に悪い考えが俺の胸にぽつ、と汗の雫のように生まれた。それは滲むようにじわりと黒く広がっていく。俺はどこまで転落すれば気が済むのだろうか? じいじいと蝉が一際大きな声で鳴いて――身体が、急激に渇きを訴えた。このままだと死んでしまうと悲鳴をあげる。二口が、欲しい。身体の内側に灯りはじめる熱さと自身の浅ましさにくらくらと眩暈がして軽い吐き気がした。
 何、考えてるんだ俺。目の前がグルグルと回る。夜毎二口のことを思いながら自慰に耽ったあと俺を軽蔑する理性が俺を叱る、お前のやっていることは誰かに受け入れてもらえるようなことではないんだぞと。夢で見た二口に執着しひたすらに求める渇きが俺を追い詰める、お前はもう二口のことを忘れて生きることなど敵わないと。追い打ちをかけるような声が追って俺の頭の中で響く。
『茂庭さん、全部見せて』
 既に聞き慣れてしまった声だった。その声に憑りつかれたように俺の腕はそっと動いた。ぬるりとした空気が絡みつく。
「二口」
 情けない声だった。どうして俺は理性に勝てないんだろう。夜な夜な酷くて浅ましい妄想で後輩を自分の好きなようにして、女の子になったみたいに喘いで、今だって――。二口が親戚から譲ってもらったらしいティーシャツの生地は少し分厚かった。風を吸い込んだ表面がひんやりとしている。今日の二口はこれを着たのだろうか。涼しく整った顔に汗の流れる様を想像する。心臓がドンドンと派手に鳴って、血が身体の上の方にのぼった。頭がおかしくなりそうだ。いや…もうおかしいのかもしれない。あの夢を見て以来俺の中は確実に変になっていた。
 目を閉じて普段信じてもない神の存在に許しを請う。今は誰も見ていない。外の蝉だって俺には興味ないだろう。だから、お願いします――少しだけ、二口に触ることを許して下さい。俺はティーシャツの裾を掴む。罪悪感やら緊張やらで身体が強張っている割に、手に全然力が入らなかった腕も手もふるふると震えた。シャツをグイと引っ張ると、ハンガーが揺れてシャツがずり落ちそうになる。俺はそこへ引き寄せられるように顔を近づけた。今の自分の姿がどれだけ滑稽かなんてもう知らなかった。ただ喉が渇いて苦しくて、熱が灯って、二口が――欲しくて仕方がなかった。

「茂庭さん」
 籠った空気が声の振動で揺れて、俺の心臓は確かにそこで一瞬凍りついて動きを止めた。夢の中で何度も聞いた、でも俺が聞き慣れてしまったものはここまで硬くない、声。都合の良い優しさもやわらかさもどこにもない。俺の身体と同じようにその声も凍りついたみたいだった。ぎちぎちと音が鳴りそうなほどぎこちなく首を声のした方へ向ける。二口がドアノブを持ったまま、驚きに二つの茶色い目を見開いていた――終わった、もう何もかも。
「ふた、くち」
「茂庭さん、何やってるんですか…」
 驚いたせいか二口の声はかすれている。どうして俺はここまで迂闊だったんだ。ドアノブの回る音も、ドアが開く音も、うるさいくらいの蝉の鳴き声すらも今の瞬間まで何一つ聞こえなかった。二口の視線は俺の姿を捉えて離れない。俺は二口のティーシャツに触れて顔を寄せていた、らしい。はっと覚めるように現実に戻る今の思考では自分の行動がまるで信じられなかった。いや、信じられない自分のことが信じられず、こんないやらしい行為をしていたのは紛れもなく俺であることが嘘みたいで、頭の中が真っ白になる。俺の口は間抜けに開いたけれど、二口に返す言葉はそこから出てこない。
「あ、の」
「何やってたんですか、茂庭さん」
 二口がドアを閉じる。逃げ場などなかった。少しだけ落ち着きを取り戻した声が俺を責めているようにも聞こえた。思考ができなくなった頭では感情が一番上に浮いてくる。俺は揺れる足元になんとか力を入れる。
「嫌いにならないで…」
「は?」
「あの、ごめん、ほんとあの俺、汚くてごめん、だけどあの、俺、二口には嫌われたくなくて」
「あの、茂庭さん」
「ご、ごめん、もう何て言えばいいのか分からないけど、本当にごめん、許して…」
「茂庭さん」
「も、もう話しかけてこなくていいから、だけど、嫌いにはならないで…」
 涙がぼたぼた出てきた。こんなことまでしておいて、二口に知られたら軽蔑されて当たり前のことを今までこそこそしておいて、俺の心が二口に見放されることを拒否した。二口に嫌われることは忘れられることよりも遥かに怖くて死ぬことよりもずっと恐ろしいように感じられた。涙が頬で汗と混じる。膝ががくがく震えて、ついによろけて姿勢が崩れた。床に跪く姿勢になった俺を二口がどんな顔で見ているかなんてもう見たくない。自分がしてきたこと、していたことの後悔で身体が胸から潰れそうだった。
「茂庭さん、あのさぁ」
 低くなった二口の声が聞こえる。顔を恐る恐るあげると、二口は俯いて――くすくすおかしそうに笑っていた。肩を震わせて、自身の顔を押さえている。どういうことか分からない俺を置いて、二口は言葉を続ける。
「知ってた、つうか、気づかない方が無理、というか…」
「二口?」
「自分が今まで、どんな目で俺のこと見ていたと思うんですか」
 声は俺に真っ直ぐ向けられる。俺は言われたことの意味をすぐには理解できなかった。どんな目で、二口を――まさか。飲み物を飲む二口の姿がちらつく。まさか、そんな、全部、ばれていたのだろうか? うそ、と馬鹿のような声が出た。
 二口が後ろ手でドアに鍵をかけると大股で俺に近づく。崩れ落ちた俺の身体を腕を引っ張って無理やり起こす。あ、と声が出たときには二口の身体も、顔もぐんと近くにあった。夢でしか見たことなかった姿がくっきりと目の前に現れて、俺はまた眩暈を覚える。
「茂庭さんのせいです」
「二口」
「茂庭さんのせいで、俺までおかしくなったんです」
 吐息がかかる距離とその声が、俺の渇きに染み入るように伝わって俺はごくりと空気を呑みこんだ。
 額がくっついて二口の汗と自分の汗が境界上で混じる。唇はそっと重なった。夢の中とは違って、二口の唇はしっとりとしていて、だけど夢で味わったよりもずっとやわらかかった。二口の腕が俺の背にまわされる――受け入れて、くれているのだろうか。堪らず抱き締め返すと、二口が俺の唇をがり、と噛む。痛みに声をあげると、二口はその隙から舌をいれてきた。
「んっぅ!」
「ん」
 ぞくりと背筋が震えて、あとからビリビリした。また崩れそうになるけれど、脚の間に二口が膝を差し込んできてそれを許してくれない。舌は滅茶苦茶に俺の口の中を掻きまわしてくる。歯だってぶつかった。どっちのかよく分からない唾液が口の端を伝う。
「ん、ん…ぅ」
 顔に添えられる手は力が強くて無理な姿勢で上を向いているせいか顎が少しだけ痛い。だけどそんなことさえすぐに気にならなくなる。いつの間にかぎゅうと閉じていた目を薄く開けると、二口もこちらを見ていた。間近で見る二口の目は夢や妄想なんかよりずっと濃い茶色をしていた。
「っん、はぁ、ふたくち」
「ん、茂庭さん」
 唇が離れる。酸素が肺に急に入り込んで、苦しくて咳き込んだ。二口は俺の身体を抱きしめて離さない。その力強さがまた苦しくて、涙がまた滲んでくるほど――幸せだった。二口は顔をずらして俺の耳たぶに口づける。あ、高い声があがる。二口の顔はそこから舌を這わせながら俺の首筋までキスをしながら伝って降りてきた。よく分からない震えと一緒に下半身が重くなる。
「や、やだ、二口」
「やだ、って。ここで嘘つかないでください」
「あぁ、ん…、ぁ、やだ…」
「そういう声、めっちゃ可愛い…」
 今までずっと嫌いだった、女の子の真似しているような声。二口はもっと聞きたいと首筋に顔をうずめてくる。俺の頼りない背を支える腕がずれて、手が俺の身体の上を動いた。向かう先に俺は悲鳴をあげる。確かな熱を持って反応している箇所だった。
「たってる」
「や、やだ! だめ、二口、ほんとに」
「嫌だとか言わないでください。もうここまできておいて引いたりしませんよ」
 あやすように俺の額や頭に何度も口づけてくる。二口の手は制服のズボン越しに包むように俺の性器に触れた。くすぐったくて、だけど確かに快楽の兆しを訴えてくる。俺は縋るように二口の身体に抱きついた。二口は煩わしそうに片手でがちゃがちゃとベルトを外して、今度は下着越しにゆるくたった性器に触れてきた。二口の手は大きくて硬くて、とても熱い。その手触りにびくりと反応して俺の身体は硬くなったりやわらかくなったりした。
「あ、あ、ぁ…ふたくち」
「茂庭さん、茂庭さん…全部見せてください。俺、ずっと見たかったから」
 瞼にとてもやさしいキスが降りてくる。二口の動きは考えていたよりもずっと荒っぽくて不器用で、だけど俺はその一つひとつの動きに確かに気持ち良いと感じた。布越しの感覚がもどかしくて身体を捩じらせると、二口が俺の空いている手で俺の手を掴んだ。そのまま二口の下腹部まで導くように引っ張る。掌に熱さが伝わった瞬間、息を呑んでしまった。――二口も、同じ気持ちでいてくれている。その事実が受け入れがたくて、俺はただ息をついた。
「茂庭さん、俺のも触って」
 ねだるような声に、俺はひたすら頷いて応えた。二口はとうとう俺の下着の中に手をいれて硬い掌で包んだ。俺の身体の中で一番敏感になっている部分は快楽を全身に伝える。濡れた音が間近に聞こえて俺は声をあげた。二口の息もあがっている。俺はどうすればいいのか分からず、二口の動きに従ってひたすら手を動かす。初めて触れる二口の性器は熱くて硬くて、自分のものに触れているときと大差ない感覚なのに、俺はかなりドキドキして分かりやすいほど興奮した。
「んっんぅ、二口、ふたくち…」
「茂庭さん…」
 熱に浮かされたように名を呼んでいる間、二口は俺の頬やら耳やら至るところに唇を滑らせた。汗がとめどなく溢れて止まらない。うるさいほどの蝉の鳴き声に紛れて、濡れた音を俺と二口で共有していた。
 二口の性器に硬さが増す。滑りやすくなった手をひたすらに動かしているけれど、俺はさっきから息が全く整わない中、快楽に胸が潰されそうでひどく息苦しかった。二口の指が俺の性器の先端をこねるように触れてきて、浅ましい声は一際大きくなってしまった。気持ち良くて、あつくて、なんだかもう二口が触れたところから溶けてしまいそうだ。
「あ、んぅ! だめ、ふたくち、おれ、いきそうだから…」
「別にいつでもいっていいですよ」
「そ、そんな、ひ、ぃ! ん、んぅ…!」
 二口が俺を追い詰めるために手を速く動かす。限界が近くて視界が赤くなったり白くなったりして、だけど眉間に皺を寄せた二口が苦しそうに息をついている様を目の当たりにして――もう何も考えられなくなる。二口の長い睫毛には汗の粒がついていた。涼しい顔が快楽に耐えようと綺麗に歪んでいる様はとても色っぽくてならなかった。
 ぐちゅり、と一層大きな濡れた音が響いたとき、俺の限界はとうとう訪れた。
「あっぁ、ふたくち…! や、っあぁ…」
「っん、もにわさん、おれも、いく」
 腰が揺らめいて、もう耐えられずに熱を吐き出した。ほとんど同じようなタイミングで俺の手も精液に濡れる。俺はまた、倦怠感に近い眠気がうっすらやってきたのを感じていた。だけど最後、二口がそっと、乗せるような軽くて優しいキスをしたせいか、押しつぶされそうな罪悪感は跡形もなく消え、代わりに安心するような解放感に、渇きがひたひたとした潤いに満ちていくのを目を閉じてただ確かに味わった。

+++

「ボトル忘れたんですよ。タオルとかだったら別に置いて帰っても良かったんですけど、口をつけるものは親がうるさくて」
「うん」
「そうしたら茂庭さんがいたんです。もう本当にびっくりしました」
 空が少しオレンジ色に染まりつつある。部室であんなことしたのに、二口はいつもの調子で笑うから俺はいたたまれなくて俯いた。
 あの色っぽくて艶めいた声や顔はどこへやら、二口は達したあとこともなげに「消臭スプレーどこでしたっけ」と言ってのけたのだ。俺はそれに面食らってしまい、さっきまでの時間すら夢だったのかと疑いたくなったけれど、手をぶらぶらとゆるく繋いてくる二口の手は確かな感覚を持っていた。あたりに誰もいないことをいいことに、俺と二口は手を繋いだまま帰り道をゆっくり歩く。
「二口、あのさ」
「はい」
「いつから…一体いつから俺が、その、お前のこと変な目で見てるって気づいてたんだ?」
「あぁ…」
 二口は微笑んで目を伏せる。いつだったかな、と軽く歌うように答えてこちらを向いた。橙が差し込んだ二口の瞳はとても綺麗で、俺は吸い込まれるような感覚にふと息を忘れる。
「そんなのもう忘れちゃいました。ただ…」
「ただ?」
「茂庭さんの気持ちを考えても悪い気はしなかったんです。自分でもわけわかんねぇって思いました。だって茂庭さん、男だし」
「…二口の言うとおりだよ」
「だけどそれが俺の感覚なら間違いないって思いました。茂庭さんだって同じ気持ちですよね?」
 …あぁ。どうしてこいつは、俺の気持ちをこうも言い当ててしまえるのか。夜毎に悩んでいた気持ちがすっと溶けるように消えていく。
 今吹いている涼しい風みたいに、二口の正しくて軽い言葉は俺の心に馴染むように入り込んでくる。明日も晴れそうですね、と笑う声が聞こえた。二口がぎゅっと俺の手を握る。
「いつでも会いに来てくれていいんですよ」
「…もう何回も聞いたよ」
「だって茂庭さん言ってもそんなに来ないから」
「どういう顔して会いに行けばいいのかわかんねぇんだよ」
「そんなのいつも通りの顔でいいんですよ。…別にどんな顔してたっていい。俺待ってます」
 目の前がふと暗くなって、二口はまた俺にキスをした。瞼の裏で何度も描いた優しいキス。誰かが見てたらどうするんだと言葉だけで一応叱ると、誰も見てませんよと笑い飛ばした。
「俺、茂庭さんのまだ見ていないところも全部見たいです」
「うん」
「だからこれは…二人きりの秘密ですね」
 悪戯っぽく笑う二口が唱える未来がとても嬉しかった。気持ちを受け入れてもらうことがこんなに嬉しいことだなんて、俺は知らずにいた。
 ――そしてふと気づく。この気持ちの名前を、俺はあの夢を見た時から知っていたのだと。まだ口に出していないから、言葉にして確実なものにしようと俺は立ちどまる。二口が合わせて立ちどまった。二人の間に風がすり抜ける。心臓がドキドキと大きく鳴ったけれど、満足感に浸ったこの胸では怖いとはもう思わなかった。俺は二口の顔を見据える。
「二口」
「はい」
「俺、二口が好きだ」
 二口は目を見開いて――それから大きく笑って、俺の腕を引っ張って走り出す。
「俺も茂庭さん、好きですよ」
「二口!」
 よろけた俺を見て二口はまた笑い声をあげて、より大きな声で俺の気持ちに確かな言葉で答えた。

「とっくの前から、ね!」

《了》