そのダリアが枯れたとしても

 幼い頃リビングにある花瓶に花が生けられていたのを覚えている。だけどその花瓶の中に水が入ってないことに気づいたのは小学校にあがってからだった。その花が生花ではないことに僕はようやく気づいたのだ。
 真っ直ぐ、まるで茎に針金が通っているのかと思うほど長い間花瓶に佇んでいるその花は何なのか母に尋ねるとドライフラワーというのだと教えてくれた。花の一番美しい時を摘み取り、乾燥させて水分を全て抜き取るものらしい。薬剤を染みこませて色をより鮮やかにさせる方法もあるが、こちらの、自然に乾燥させた方が色に味わいがあると思わないかと同意を求められて、幼い頃の僕はそうだと答えたけれど、内心病院みたいだと思っていた。水を吸う花に比べて色は落ち着いているが、言い方を変えればそれは既に植物として死んでいるような状態のように思えたのだ。そこに薬剤を投入する様を想像すると、病に苦しむ弱々しい身体に点滴を打ち込むところと重なって見えた。

 人から贈られてくるプレゼントの中にドライフラワーで装飾されたものもあった。生花に比べて日持ちするため管理も楽で貰い手の扱いに困るなんてことはないからだろう。だが僕は、乾燥しきってかさついた手触りを伝えてくるこの花がどこか苦手だった。幼い頃に抱いた病院の印象が拭いきれていないのかもしれない。しかし同時に苦手というのもおかしな話だとも思っている。ものの一番美しい瞬間を切り取って保存できたのならそれに越したことはないのだ。
 今まで様々な患者を診てきた。このまま時が止まってくれれば、そんなことを言う患者や親族もいた。逆のことを言う者も、同じくらい。姉は自分の時間に対してどう考えていたのだろう。考えても仕方のないことだと分かっていても、時々そう思わずにはいられない。だが記憶を頼りに姉の内の何かを予測しようにも、優しい笑みばかりが思い起こされてまるで分からない。本当のことはもう姉しか知りえない。ただ姉の病室に飾ってある花は紛れもない生花であった。
 花も同じなのだろうか。自分が一番綺麗に咲き誇っているときを切り取られて無理に保存され、なおも自身を幸福に思うか、死にながらも生かされている状態を嘆くか。それとも、いずれ枯れると分かっていても咲けたことに対して喜びを覚えるのか。最近、人間も花も一緒だと思う。少なくとも似ている。僕自身ですら鼻で笑いたくなるような、そんな浮ついた思考をしてしまうのは医者とアイドル、どちらも他人の時間に関わる職業に就いているからだろうか。ただ後者は、今は僕たちが花の立場だ。どう消費されることが正解なのか未だに分からない――終わりを思うことができなかった。

「この花、綺麗だけどあまり持ちが良くないんだとよ。水はこまめに変えろよな」
 花屋で聞いてきたという生け方に四苦八苦し、ようやく僕の部屋にただ置いてあるだけで持て余していた花瓶に花を生け終わった天道がこちらを振り向いて言った。
 華美な色があまり好きではないため、初めてあげたとき天道には「モノクロ映画みたいだな」と言われ、柏木には「おばあちゃんちに似ています」などと言われた。だからか天道が僕に贈った鮮やかな黄色い一輪の花は僕の部屋にあまり似つかわしくない。その花が僕の部屋の中で咲いていることに慣れるのに時間がかかりそうだった。
「いやぁしかし綺麗だろ、この花。俺が選んだんだぜ」
「さっきも聞いた。…生けたのならもう帰ってもいいぞ」
「そんな冷たいこと言うなよー誕生日だろ今日!? 飲みなおそうぜ!」
「一番飲めない奴が何を言っているんだ。明日も仕事だから柏木も帰ったんだぞ」
 そう言うと天道は拗ねたような顔をして荷物をまとめ始めた。「生け方知ってるから俺がやる」と部屋まで半ば無理に乗り込んできた天道は自分で買った花を自画自賛して止まないようだったが、聞けば一輪挿しでは枯れやすく扱いが難しいらしい。
「天道、なぜこの花を選んだんだ」
 玄関を出ようとする天道にそう尋ねると、ほんの少しの間をおいて靴を履きながらこちらを向かずに「お前に似合うと思ったから」と、小さな声でそう答えた。
「…まさか扱いが難しい、というところとでも」
「そんなわけねーだろ!」
 勢いよく立ちあがった天道がよろけて慌てて僕の肩にしがみついた。そして、そのまま服越しにかすかに痛みを覚えるくらい服の布地を握りしめて離さない。俯いた彼の表情が見えないし、どんな顔をしているかもあまり予測が出来なかった。しばらくの沈黙に流石に疑問を覚えて名を呼ぶと、天道はようやく顔をあげた。
 視線と視線が近くでぶつかる。こちらを覗きこむ赤茶色の瞳が一瞬大きく揺れた。その瞳の奥で僕の何を思っているのだろうか。天道は言葉を探しているのか困ったような笑みを浮かべると、僕の肩から手を離した。
「本当に似合うと思ったんだよ。実際そう思ってる」
「…それはすまなかった」
「相変わらず素直じゃないな」
「その一言は余計だ」
 いつも通りの笑みを浮かべて天道は「また明日」と出て行こうとした。こんな短い時間だったのに本当に騒がしい男だ。溜め息を口の中で噛みつぶしながら後ろ姿を見送ろうとすると、天道は最後にこちらを振り向いた。
「贈った花、ダリアっていうんだ。さっきも言ったように一輪挿しには難しいけど、保存剤とか、あと漂白剤を少し混ぜても長持ちするらしいぞ」
「…そうか」
「まぁ好きに育ててくれ。そのままだと最後は枯れるけど、枯れた姿だって綺麗なもんよ」
 それじゃあ、おやすみ。そう言って出ていく背中に、ドアが閉まってからおやすみと呟いた。

 天道のくれたダリアは月の光を浴びながら眩しいと感じるほどに咲いてそこに佇んでいた。大ぶりな花は確かに花束にするのは難しいかもしれない。この花のどこが僕に似ているかは分からないが、あの大きく揺らいだ瞳を思い出すと、それがなぜだか納得できそうなのが不思議だった。しかし天道は出会ってからそうだ。快活で分かりやすい男なのに読めないところが多かった。
 この状態を維持するのは難しいと天道は言った。保存剤を入れるのも確かに一つの手だろう。しかし僕は、水を入れ替えるのみでできるだけそのままにさせるつもりだ。枯れた姿も美しいとは考えたこともなかったから、その姿を見届けたいと思ったのだ。
 花弁に触れるとやわらかな手触りが伝わる。こうして瑞々しい花に触れるのは随分と久しぶりなことのように思えた。明日はどう咲いているのだろう。それは僕にも天道にも知りえないことだ。もう萎んでいるかもしれない。それでもこの花の様子を思うと、なんだか今日はよく眠れるような、そんな気がした。

《了》