おはよう、僕たち

 ベーコンの焼けるお腹の空く音と脂のいい匂いがした。意識が一気に光の方へ引っ張られる。今日はベーコンエッグ確定だ。急激にお腹の空っぽ具合を痛感する。うーん、でもなぁ。まだまだ寝ていたい。その欲望のままにもう一度意識の底の方に沈もうとした。

「おら、もう朝だぞ。遅刻するぞ」

 だけど力強い手に揺さぶられて起きざるをえなくなってしまう。あぁそうだ、今日はお母さんの白くて細い手じゃなくてこの手に起こされるんだった――強い眠気が瞼をおろそうとするのを擦ってなんとか耐える。僕が起きたのを確認すると、力強い手の持ち主は「二度寝すんじゃねぇぞ」とだけ言ってさっさと部屋から出ていってしまった。
 ここで二度寝すると怖いんだよなぁ。ベッドから出るとひんやりとしたフローリングに足から震える。だけどなによりまだとても眠い。まだいくらでも寝られちゃう気がした。だけど僕はその眠気をなんとか堪えて五日ぶりくらいに着る学校の制服を着る。
 欠伸をしつつリビングに行くと北斗くんがコーヒーを飲んでいた。お皿はもう空っぽだから先に朝ご飯を食べたのだろう。窓から差す光に照らされながら優雅にコーヒーを飲む北斗くんは、その場面を切り取るように写真にしただけでも売れそうだ。
 出かける前の北斗くんは髪をセットしていなくて、あとコンタクトも入れる前で眼鏡だからいつも一瞬だけ全く別の人に見える。僕は眠い頭で、前にジュピターのオフのを撮っちゃおうみたいな雑誌の企画では北斗くんはばっちり髪をセットしていたしコンタクトだったことをなんとなく思い出した。

「おはよう翔太。…顔洗ったらブラシ持っておいで。寝癖すごいぞ」

 僕に気づいた北斗くんがおかしそうにくしゃりと笑った。僕がもう一回大きな欠伸をかましながらノロノロ洗面台の方へ向かうと、キッチンの方から「もう朝飯できるぞ」と大きな声が飛んできた。うーん、眠い。鏡と向き合うと寝る五秒前ですよとでも言いたげな自分の顔がそこにあった。
 水を流して適当に顔をガシガシ洗う。冷たい水がゆるんだ意識と顔にちょっと痛いけど気持ちいい。だけど顔をある程度洗い終わった僕は顔をあげないまま手をタオルハンガーのところまで動かして、そこで初めてタオルがかかってないことに気がついた。

「冬馬くんタオルかかってないよー」
「は? あっそうだそういえば」

 慌てるような声と一緒にドタドタと騒がしい足音が近づいてくる。その次の瞬間には手にふわりとした感触がしたから僕はそれで顔を拭いた。冬馬くんちにだいぶ前からある黄色いタオルから顔をあげると、ちょっとだけ呆れたような冬馬くんと目があった。
「もう朝飯できてっからな。…ほんと寝癖すごいな」
 その呆れ顔のままちょっと笑って、あの力強い手で僕の頭をわしわしと乱暴に撫でた。そんなすごいかなぁ寝癖、でもまぁ僕は髪の量が多いからなぁ。ブラシを手にとってリビングに戻る。
 そこには僕の予想通りベーコンエッグに加えてポテトサラダ、それにコンソメスープと食パン二切れがあった。冬馬くんがいつも作ってくれるメニューだ。朝ご飯を目にした途端お腹がぐうと鳴って、あまりの空き具合に胃がちょっとだけしくしくするくらいだった。一気に目が覚めるのを自覚して朝食に飛びつく。

「わーい、いただきます!」
「…お前最近朝飯見て起きるようになってきたな」
「いいんじゃない? 前は玄関出るときも眠そうだったろ」

 僕の後ろで北斗くんが笑う声がした。そのまま僕がバターの溶けたおいしい食パンにかぶりついたりちょっと熱いスープを飲んだりするのに合わせて器用に僕の髪にブラシをいれてくれる。北斗くんの手は冬馬くんの手に比べて少しだけ細いし力も優しい。大きさは北斗くんの方が大きいみたいだけど。仕事の都合でこうやって冬馬くんの部屋に泊まるようになってから知ったことだった。
 エプロンを外した冬馬くんも自分の分の朝食を用意して僕の前に座る。髪の毛をいじられながら朝ご飯を食べつつなんとなくその様子を見ていたら、冬馬くんの目が少し――本当に少しだけ赤いことに気がついた。多分蒸しタオルを乗っけたり目薬をさしたらすぐに消えちゃうくらいのものだけどちょっとだけ気になって尋ねてみる。

「冬馬くん目どうしたの? ちょっと赤いよ」
「…え」

 次の日がオフだったりすると、(本当にたまにだけど)冬馬くんはとんでもなく夜更かしをすることがあるみたい。理由はフィギュアだったりゲームだったり料理の研究だったりするけど、それは次の日が休みだからすることであって、今日みたいに午前はのんびりできるけど午後からは仕事だよって日にだって冬馬くんはちゃんと睡眠をとるような人だ。夜更かしじゃなかったら何なんだろう。やっぱり来客用のベッドじゃ寝にくいのかな。疑問に思って尋ねてみたわけだけど――冬馬くんが目よりも遥かに顔を赤くしたのを目の当たりにして思わず僕は後ろを振り返った。

「…北斗くん?」
「俺そんな大したことしてないよ」

 楽しげな北斗くんの返事に今度は僕が呆れ顔になる番だった。冬馬くんは真っ赤な顔をごまかすみたいにスープを一気飲みして「あちぃっ」とか顔をしかめてるし、その赤い目をちょっとだけ赤い目を気にかけた僕が馬鹿だった。

「ラブラブなのはいいけどさーそれに付きあう僕のことももうちょっと考えてよね」
「大丈夫だよ、翔太も愛してるぞ」
「北斗くんありがとう。そういうことじゃないけど」
「ほっほら翔太早く飯食え! ほんとに遅刻しちまうぞっ」

 冬馬くんが真っ赤な顔のまま僕を急かすけど、僕のお皿は既に半分空っぽだ。今日は冬馬くんデザートに果物剥いてくれなさそうだなぁ、そんなことを思いながら冬馬くんの手作りのポテトサラダのもくもくとした感触を口で味わう。

 冬馬くんと北斗くんは恋人同士だ。ちょっと前に二人は翔太にも教えなきゃと思って、ととても重く厳しい表情でこの秘密を打ち明けてくれた。けれど僕は二人が打ち明けてくる前からなんとなく気づいていたから、ちょっとだけ優位に立ったような気分になって「やっぱりね」と表情を作りながら返事したことを今でもよく覚えている。
 それからは僕の前では主に北斗くんの方が構わず冬馬くんとイチャイチャするようになってしまい僕はほとほと困って…はいないか、正直。ただ時々、こういうのんびりした時間のふとしたときに、これから二人はどうなっていくのかな、と考えてしまうことがある。ジュピターとしてはこれからも大丈夫だと思うけれど、北斗くんと冬馬くんはどうなるだろう。二人とも僕の好きな人だから、できればずっとずっと仲良しでいてほしいと思う。

「はい翔太。今日もばっちりだね」

 北斗くんがヘアバンドをつけてくれた。髪の毛があげられて視界が明るくなる。僕の目の前には居心地悪そうに頬杖をついた冬馬くんがいた。だけど髪をセットされた僕を見て「今日も決まってんな」と笑顔を見せてくれる。
 冬馬くんの笑顔を見ながら最後のベーコンの一切れを飲みこんだとき、僕は――この日突然、この二人ならきっと大丈夫だという確信に近いものを初めて持った。よく分からないけれど、こうやって冬馬くんの部屋で三人一緒に、北斗くんが僕の髪を触って、冬馬くんが朝ご飯を作ってくれて、これからこの先もずっと朝ご飯を食べていられるような、そんな気がした。北斗くんが僕の肩を叩く。

「翔太、そろそろ出る時間じゃないのか?」
「食器は片づけといてやるから。今日久々の登校だろ? 遅刻なんかするなよな」

 時計を見ると、冬馬くんの部屋から学校に出る時間までもう十分となかった。僕は慌てて自分の部屋、もとい冬馬くんの部屋に鞄を取りに行く。出る前にもう一度洗面台に行ってパパッと歯を磨いて鏡を見てみると、そこにはいつもの、学校に行くときの僕がいた。

「…大丈夫だよね」

 一人でそう呟くと、分からなかったことが分かったような気がしておかしくて笑ってしまう。翔太、と冬馬くんが僕を呼ぶ声がした。返事をして玄関に向かうと、冬馬くんと北斗くんがドアを開けて待っていてくれた。

「午後は直接スタジオに来るの忘れんなよ」
「分かってるよ」
「それじゃあ」

 いってらっしゃい。二人の声に押されて僕は外へ出た。最近寒くなってきたとニュースが言っていたけれど、太陽が眩しくて僕は顔をしかめる。だけどお腹がいっぱいでいい天気ともなれば、今日は間違いなくいい日になると思えてきて、僕は少しだけ駆け足で学校へ向かった。

《了》