この花は貴方の愛に似ている

 食後のお茶を飲み終えたピエールが立ちあがって「コンビニに行ってくるね」と言った。外を見ると春を終えた空はまだ少しだけ明るかった。俺たちはアイドルという立場だから、名が一般世間にも知られた辺りから例え真夜中でも迂闊に外へ出るということはしない。俺たちの行動がどう見られるか、そのつもりじゃなくたって分かったものじゃない。だから俺も立ちあがって、薄いカーディガンを羽織ってさっさと玄関を出ようとするピエールを慌てて追いかけた。

「ちょっとピエール、まさかそのまま出かけるつもり?」
「そうだけど、ダメかな? すぐ目の前のコンビニだよ」
「何が欲しいんだい? まだ足りない? ケーキだったら昨日の現場スタッフさんにいただいたやつが冷蔵庫に少し残ってるけど」
「うーん、違くて、ちょっと、…帰ったらみのりにも見せるから! お願い、いい?」

 出会った頃の彼はものを頼むときに少しだけ背伸びをして、首を傾げてこちらを見上げていた。それが今では屈むようにして膝を折って、変装用の大きなレンズのサングラス越しにこちらを覗きこむように見上げている。ピエールの大きな瞳の中が困った気持ちを滲ませてゆらゆらと揺れていた。俺はいつもそれに勝てなくて、あまり良くないかもなと思いつつ、時には喜んでピエールのお願いを聞いていた。
 夜に出かけたいと言ったのもこれが初めてじゃない。アイスが食べたい、星を見に行きたい、お散歩したい、とか色々あったけれどピエールはそれらのお願いの最後にいつも「三人でいこう!」とつけた。だから、今みたいに一人でさっさとどこかに行こうとするピエールの行動に俺は驚いたと同時になんだか少しだけ不安になってしまった。

「本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ、すぐ帰ってくるよ!」
「だってピエール目立つから…俺も一緒に行くよ」
「二人で一緒にいたらもっと目立っちゃう! みのりはおうちにいて。…みのり」

 みのりはほんと、ママだね。
 笑顔で明快にそう言ってのけたピエールは、何を言ったのか理解するのに一瞬多くの時間のかかった俺に微笑んで、「いってきます」と少しサイズの大きなキャスケットを被って玄関のドアを開けて出て行った。少しだけ涼しい玄関にぽつんと俺だけが取り残される。ピエールが出ていくとこの部屋は一気に静かになって、さっきまでピエールと一緒に見ていた恭二が役者として出ているドラマの次回予告しか聞こえなくなった。

 さっきの言葉、どういう意味なんだろう。リビングに戻って食器を片づけながら出る間際にピエールが言い放った言葉を頭の中で反芻しながら考えていた。俺がママ、か。
 よくファンや番組の司会とかから俺はお母さんみたいだねと言われる。「面倒見がいいとは言われます」と笑えばみんな満足するけれど、何より俺自身が自分をお母さんみたいだとか、母性があるなんて思ってもいない。恭二やピエールだって思ってもいないだろう。
 ただ面倒見がいいとよく言われるのは本当だ。でもそれは生まれ持ったものじゃなくて、花のおかげかもしれないなと思う。気温差や水の量でいとも容易く枯れてしまう花を美しく育てるためには目を離さないでいつも注意を払う必要がある。それが人相手にも発揮されているだけだろう。ただ恭二とピエールは――俺はなんだかすごく構ってやりたいという気持ちに駆られる。仕事の都合で見るんじゃなくて、本当に、ずっと見ていたいと思うんだ。
 恭二とピエールが仲良く遊んでいるのを見るとそれが自分のことのように嬉しくなるし、それと同時に家に帰っても誰も自分の存在を見ようとはしなかった、そんな寂しさを思い出す。恭二もピエールも同じ寂しさを抱えていると気づいたのにはそう時間はかからなくて、だから俺は、二人にうんと優しくしたいと思った。人に対して初めて抱いた心からの気持ちだった。あの寂しさを二人にも長いこと味わってほしくなかったのかもしれない。
 十歳以上も違う年下の二人。そんな二人をまるで自分の弟みたいに思ったこともある。出会ったばかりの恭二は前に進みたいのに卑屈で、ピエールはとても無邪気なのに人についてどこか達観していた。二人から見て俺はどう見えていたか分からないけれど、一緒にやっていく仲だし、なにより見たときからとても素敵な二人だったから、俺は長い人生を歩んでいる分知っていることをアドバイスすることもあれば、結成当初は自分の生活に無頓着な恭二と日本の生活に慣れていないピエールの世話を積極的にすることも多かった。そこが周りの言う母性とか母さんみたいだとかに繋がるのかもしれない。

 だけど、それも今ではどうだろう。デビューライブを無事に終わらせて、帰りに俺のこの部屋によってみんなでコンビニのケーキをお祝いで食べたのは今でも鮮やかに思い出せるのに時はあっという間に経って、恭二は経験を重ねるにつれて自信とプライドが根づいてとてもかっこいい大人の男になったし、ピエールなんて会ったときからぐんぐん背が伸びて、声も元気いっぱいの弾むような声から少し高めの透き通るような声に変わって今じゃすっかり誰もが振り返る異国の美青年になった。二人ともかっこいいねと褒めるたびにピエールは「ありがとう」と微笑んで、恭二はむず痒そうな顔で、でも「ありがとうございます」と言った。
 変わり続ける二人に個別の仕事が来ることも多くなった。恭二はドラマの主役で、ピエールは雑誌のモデル。俺は園芸番組や園芸雑誌のコラムや料理番組のゲストとかを担当することもある。だけど、ふいに襲われるんだ、俺だけ変わってないという置き去りにされることの、胸の底が揺り動かされそうになる感情に。

 何かを、アイドルを始めるのが遅かったのかもしれない。昔はひどく荒んでいて、俺を受け入れてほしい、分かってほしいと悲鳴をあげながら人を傷つけて、自分も傷つけられた過去。花と出会ってようやく自分と向き合えた瞬間。アイドルという人を魅せる仕事なのに自分も魅せられているこの今。どれもが消し去りがたい俺の時間で、だから俺にはもう成長する余地なんて無いのかもしれない。何かを始めるには遅すぎて、何かを続けるには時間がなかった。母性、だなんて。二人は俺の精一杯の優しさがなくても一人で立って前に歩くことができるのに。
 食器を洗う手が止まる。今洗っている恭二用のお皿は最近メインのおかず用のお皿になってしまっている。恭二用のコップだってもう何ヵ月戸棚から出してないんだろう。週に四回以上夜ご飯をうちで食べていたのがここに立っていると本当に嘘みたいで、まるで夢みたいだと感じた。恭二の出ているドラマはとうに終わってバラエティ番組がひたすら笑い声を流している。
 ピエール、いつ帰ってくるんだろう。コンビニは目の前にあるのにまだ帰ってこない。食器の泡をすすいで手を拭いてピエールに連絡をとろうとした。ついでにテレビの電源を切る。この部屋がこんなに静かなのを忘れていたのは恭二とピエールのせいだった。二人は本当に、本当にかっこよくなったんだなとこんなに静かな部屋でなぜか俺はそんな感想を抱いた。
 俺が持てる限りの優しさを全部ぜんぶ、ありったけ注いだことに後悔なんてない。立ち回りに苦労することもあったけど、溜め息なんて出たこともついぞなかった。ただ、寂しい。懐かしさを抱くと胸が痛くなる。アイドル番組に集中していた俺に、「アイドルの名前を呼んだって俺のお腹は空いたままッス」とジト目で訴えた恭二や、ハンドクリームをピエールの手に塗ったらツヤツヤのピカピカになって、「みのりすごい!」とはしゃいだ声をあげたピエールの残滓が薄くなりつつある今を、俺はこの先どうやって生きればいいんだろうか?

「みのり、ただいま」

 ドアの音と共にピエールの声が聞こえた。やっと帰ってきた。俺はほっとしてピエールを出迎えに行くと、ピエールは――とても大きな花束を持っていた。何本あるのか見た目じゃ完全に分からないほど多くのカーネーションが束ねられた、大きくて真っ赤な花束だった。

「ピエール、これは…?」
「ごめんね、コンビニって言ったの、嘘。ほんとはお花屋さん行った。日本じゃお母さんにカーネーション送るって教えてくれたの、みのりだったから」
「お母さんって…ピエール、俺はピエールのお母さんじゃ」
「分かってる、ボクの本当のお母さんはボクの国にいるよ。でもみのりも、お母さん」

 出会った頃よりずっとうまくなった日本語ととても綺麗な顔でそんなことを言ってのけるピエールに、まさかピエールは俺がお母さんみたいだと言われているのを真に受けてしまっていたのかと心配になった。だって、俺の優しさは母性じゃない、寂しさの共鳴から生まれた愛情だったし、二人にとって余計なお世話かもしれないようなものだ。二人にしてきたことに大きな後悔を覚えそうになったとき、ピエールが俺の胸元にそっと花束を押しつけた。困ったようにはにかんで俺を覗きこんだ。

「もらってよ、みのり。ボク困っちゃうよ」
「そんな、…どうして?」

 ピエールの大きな瞳の中の水晶がゆらゆら揺れて俺を見ていた。そして、逸らさずに息を静かに吸う。

「ボク、この国に来たとき、どうすればいいのか分からなかった。プロデューサーや恭二、みのりがいなかったらどうしようか今でも分からなかったかもしれない」
「ピエール…」
「初めて会ったとき、ボク、今よりずっと小さかったよね、子ども、だったよね…だけどみのりは、ボクにご飯作ってくれた、知らないところ連れていってくれた、歌を教えてくれた、日本語教えてくれた、…だからボク、笑顔を知ることができた」

 透き通る紫色の瞳が滲む。笑顔なのに今にも泣きだしそうなその顔を、俺は心から綺麗だと思った。背や声だけじゃなくて、心だって。俺が望んで愛をあげた子は、本当の王子様になったらしい。心臓がすごく速く動いて、身動きなんてとれそうにもなかった。

「恭二だってきっと、ううん、絶対そう思ってる。ボク、まず謝るね。みのりの時間をボクを育てるためにいっぱいもらってごめんなさい。それでね、…ここまで見ていてくれてありがとう」

 これからも恭二とみのりとボク、一緒に行こうね。
 大きなカーネーションの花束を受け取ると、床に花弁がいくつか散った。息を吸い込むと甘い香りに胸がいっぱいに満たされて、その香りに喉が震える。ピエールの名前を呼ぶこともできなくなって花束に顔を埋めて俯いた俺の耳に、「笑って、みのり」ととても優しくて綺麗なピエールの囁き声が届いた。

《了》