隙間の静寂

 その隙間に触れることができたと最初に思えたのは、秋と冬の境目の、ひどく穏やかでぬるい日差しの中、桜庭が寝ているところを見たときだった。

 ドアを開けても事務所には誰もいなかった。
 誰もいないというだけで、今ではすっかり物が増えた事務所でも不思議なくらいがらんどうに見える。――買い出しにでも出ているのだろうか。賢は時々ちょっとした買い物に出ることがある。それでも、短い間でも戸締まりくらいすべきではないだろうか。
 不審に思いつつ誰かが来るのを待とうと部屋に入ったところで、ようやく誰かが今ここにいることに気がついた。ソファの背もたれ越しに覗く後頭部。記憶の中のとうに見慣れた後ろ姿と重ねて、誰だかすぐに気づいた。
「桜庭」
 呼びかけても返事がない。もう一度呼んだところで、部屋の空調の音がかすかに聞こえるだけだ。
 違和感がすぐに生まれる。桜庭とはたまに言い争うこともあるけれど、無視までされるようなことをした覚えはない。それ以前に事務所に入ったときに人の気配が全くと言い切れるほどしなかった。あるはずのない静寂に妙な胸騒ぎがじわじわと生まれる。
「いるなら返事ぐらいしろよ」
 なんだか気が焦って早口になっても桜庭は返事を寄越さない。自然と早足になる歩みでソファに近づいて、彼の顔を覗き込む。そこであっと声をあげてしまいそうになった。
「ねてる」
 桜庭の顔を見て思わず出た拍子抜けした自分の声に自分で笑いそうになってしまい、彼を起こさないように慌てて口を押さえる。ここまで近づいて、空調の音に消されるくらいのとても静かな寝息がようやく聞こえたのも、なんだか無性におかしかった。

 桜庭はソファに腰かけて寝ているだけだった。体調が優れないのだろうか、一瞬だけそんな考えがよぎったけれど、眼鏡もかけっぱなしだからきっとただのうたた寝だろう。
 本の上に手を乗せていて、指の隙間から中身を見ると、今度映画化されるフランス文学であるのが分かった。俺の方が先に読み終わったと言ったら若干悔しそうな顔を見せたのが数日前。なんだ、あんな顔しておいて、もうここまで読み進めたんじゃん。
 桜庭のことを起こさないようにそっと隣に腰かけて、横顔のラインを目で追った。いつもの桜庭と違うのはソファにゆったりともたれかかっているところだ。棒でも通っているのかと思うほど真っ直ぐとしたいつもの背筋が背もたれの形に沿っているのを見て、またなんだか拍子抜けするような気持ちになった。
「疲れてんのか?」
 呟いたところで桜庭は目を覚まさない。余程深く眠っているのだろうか。
 オーディションから始まって、そこから。俺たちの仕事は格段に増えて、プライベートで過ごす時間も削られていく。いや、もう今となっては何がプライベートの時間なのかも曖昧だ。いつも三人でいるのが当たり前になってしまったから。
 デビューしてから今までのほとんどの時間を一緒に過ごしてきたから、それだけの思い出が積もってきた、と思う。今でもはっきり思い出せるし、桜庭はもちろん、翼だって覚えているに決まっていることがある。桜庭が他の事務所のアイドルに暴力を振るわれたのを隠そうとしたこと。怒った俺に桜庭がどうでもいい、なんて言葉を吐いたことまで。
 同じことを、もし今の俺や翼がされたらめちゃくちゃ怒るくせに。どうでもいいなんて言葉は死んでも引っ張り出さないだろう、今の桜庭なら。リラックスして眠りについている桜庭を見て、こんなところが見られるのを、あの頃の誰が想像できただろう。
「…お前も丸くなったよなぁ」
 懐かしいような、呆れるような、嬉しいような。よく分からない笑みが浮かんでしまう。忙しくなっていく日々の中でも、出会ってから今までのことを鮮明に思い出せる自信があった。
 忙しさの中の、閑話休題のような瞬間。ひと息つきたくなる、ゆったりとした場面。だけど穏やかそのものの桜庭の顔に変化が起きた。一旦眉間に皺を寄せてから、少しずつ瞼を開けていく。桜庭の目が俺の顔を捉えて、二、三回まばたきをした。
「…天道か。もうそんな時間か?」
「いや。翼もプロデューサーもまだ来てねぇ。今ここには俺だけだ」
「山村くんなら買い出しに出かけているはずだ。留守を頼まれたのだが、…そうか」
 気が抜けていたようだ、と少しだけ申し訳なさそうなニュアンスで桜庭が呟くものだから、とうとう声をあげて笑ってしまった。途端、桜庭が見慣れた無愛想な顔で何がおかしいんだ、とやや苛立った溜め息をつく。あぁ、いつも見ている桜庭の顔だ。俺がちょっとしたセンチメンタルに浸っていたことに気づきもせず、寝ているところを見られたことなんて些細なことだと思っているみたいだ。
「桜庭も寝るんだなぁ」
「…君は僕を何だと思っている」
 次に見せたのは呆れた顔。これも前からよく見る表情。俺はもうとっくに桜庭の色々な顔を知っているんだ。
 のどかな昼下がり。紅く色づいた葉に隠れて、差し込む陽が暗い時分、事務所でのこと。
 桜庭の寝顔を見て――何か言いたい言葉が浮かんだ気がして、ほとんど思いつきで口を開く。
「桜ば」
「ただいま戻りました!」
 賢の少し息を切らした弾んだ声が俺たちの間に割って入り込んだ。そのあとをプロデューサーの声が追いかける。どうやら道で会ってそのまま二人で来たらしい。
 来客用に奮発してケーキを買っただの今日これから行くロケ地の話だのオーディションの話だの、たった二人が増えただけで賑やかになる部屋。俺の声が聞こえなかったのだろう。桜庭が本を持って立ち上がり何事もなかったかのように賢とプロデューサーのもとへ歩み寄った。その背すじの綺麗な後ろ姿を見て、――当の俺も、桜庭に何を言おうとしたのかすっかり忘れてしまった。

 次に桜庭の隙間に触れたのは、足を覆うほどの雪が積もった冬のとき。

「…寒いのは正直得意ではない」
 誰に聞かれるわけでもなく、桜庭が自分からそう言い出した。
 そのときはPV撮影で、雪が荒れることもなくしんしんと静かに降る絶好のロケーションでカメラが回されたわけだが、どんなに自分で気をつけてもプロデューサーやスタッフが気を遣ってくれても、積もる雪に沈んでいる足が冷えきって仕方がなかった。腹の底がぶるぶると震えるようで、吐く息もゆらゆら揺れて見えた。
「俺も。でも俺の場合は寒さというより雪ですかね。雪国出身なので冬は毎年苦しめられました」
 鼻の頭をほんのり赤くした翼が同意する。そういえば、俺たち三人とも冬は雪が猛威をふるう県の出身だ。冬といえば随分と幼い頃から実家の雪かきを手伝っていた、そんな記憶が蘇る。
「寒さは動きを鈍くする。つい昨日、こんな真冬の時期に野外ライブをおこなった女性アイドルユニットの映像を見た」
「あ、それ俺も見ました。最初はテレビで見ているこっちが寒くなりそうだと思ったんですけど…」
「俺も見たよ。すごかったよなぁ、寒いからって全然動き崩れてないし、雪が一つの演出に思えたくらいだぜ」
 性別が違おうが、事務所が違おうが、昨日見たユニットの野外パフォーマンスには感心するものがあった。滅多にない条件下でのライブ、きっといつにも増した緊張も苦戦した部分もあったかもしれないのに、映像の中で笑う彼女たちはそんな様子を微塵も見せずにファンを楽しませていた。雪の中ライブに行くのは悩んだけれど、来てよかった――そんなファンの感想も聞こえてきた。
 野外ライブは俺たちも何度か経験したことはある。ただ、仕事の割合としては少ない方だ。今後、フェスに出ることが増えたら野外ステージを踏む機会も増えるのだろうか。どんなときでも、見てくれる人たちのために最高のパフォーマンスを。口で言うのはとても簡単だ。だから、それの実現のために俺たちは何ができるのだろう。
「寒いのは得意ではない、気温に左右されて否応なしに動きが鈍くなる瞬間が増える。だが昨日の映像を見て、そんなことを言っている場合ではないと感じた」
 言葉を吐きだすたびにはぁ、と白い息をつく桜庭はこの待ち時間を持て余してぼんやりと目の前を見ているだけのようにも思えるし、ずっとその先の未来を見据えているようにも思えた。桜庭の視線の先には何が見えるのだろう。同じものが、見えているはずだけれど。
「いつでも最高のパフォーマンスができるように。僕たちはまだまだ、一瞬たりとも無駄にできないな」
 世界全体が薄く白く染まったような中で、桜庭と目が合う。だいぶ前から気づいていたことがある。雑誌やテレビではクールだの冷たいだの鋭いだの形容されることの多い、桜庭の涼しく切れた目。その目の中で、雪の溶けるように何かが優しく滲む瞬間があることを。
 俺はその目の内を見ることを許された存在になったのだろうか。単に俺に桜庭のことを気づく余裕ができただけだろうか。
 誰も寄せ付けない雰囲気を纏っていた桜庭のやわらかい性質に気づくことができると、嬉しい以外の別の感情が隣り合わせで湧いて、それに名前をつけるのがまだ怖かった。このときは、桜庭が俺たち三人を当たり前のものとして成長したがっていることが嬉しいだけとして、自分の中で納得させていた。
「そんなの、当たり前だ」
 外気に逆らって笑うと、顔が寒さに突っ張って少し痛む。息を吸い込むと、白く透明な空気が肺に入り込んで、指先がじんと痺れた。

 古いフィルムを丁寧に見返すように何もかもを思い返せるんだ。
 だから、ずっと前にもう気づくことができた。
 桜庭の中には隙間がある。
 心の、隙間が。

 最初は人ひとりすら受けいれられる広さのなかった隙間が時間と共に大きくなっていくのが嬉しかった。桜庭の態度がやわらかくなったのは一緒に過ごしてきた俺のおかげでもある、なんておこがましいことは思わない。長いか短いかは分からない。けれど濃いのは確かであった今までの時間の中で、誰かを受け入れる余裕を作ったのも、それを相手に示したのも桜庭自身だ。
 …ただ。

 サイリウムとスポットライトの、あまりに眩しすぎる煌めきの中で桜庭が歌う。
 頬を伝う汗に彼の歌声が乗り、光の海を掻き分けて空間に響き渡る。
 俺の足元だけぐらりと揺れたのかと。
 本気でそう思った。

 変わったのは表情や性格だけじゃない、歌だってそうだ。音程を完璧になぞるだけのものから、感情を込めた人間の、桜庭の歌になった。その変化を間近で見てしまって、どうして平然としていられるだろう。かっこいいという素直な憧れが湧いて、それが男としてかアイドルとしてか俺の中ではもう区別ができなくて、とにかくそれくらい胸の中が引っ掻き回されてしまった。
 桜庭が俺たちを受け入れると同時に、俺たちに自分の気持ちを見せてくれるんだ。俺だけが自分の気持ちを誤魔化す、なんて情けないことを通すわけにはいかなかった。本当は、ずっと蓋をしていられたら楽だっただろうけれど。アイドルを通して変化していく桜庭をすぐ側で見ているのは――それはもう、くらくらするような思いだ。
 最初から、見せてくれれば良かったのに。そうすれば、こんな思いしなくて済んだかもしれないのに。何度考えただろう。
 桜庭の変化についていけないわけじゃない。ただ、許容量を過ぎていた。全部、桜庭のせいだ。桜庭が、嘘などもうつけそうにないこの心をますます重くしていくようで、俺はやっぱり、今でもこの気持ちに明確な名前をつけることをできるだけ避けたかった。

 その隙間にこれ以上自分から近づけないことが分かったのは、熱い雨の降る夏のとき。

 夏が嫌いだと桜庭が言った。
 あまりに小さい声だったから、聞き逃すか逃さないかの判断に困ったくらいだ。
 その日はひどいにわか雨が降って、共に帰路についていた俺と桜庭は雨宿りをするはめになった。道の途中で見つけた小さな公園に休憩所があることに気がついて、そこのベンチに並んで腰をかける。
 雨に濡れていく地面から蒸した熱い空気がたちあがって、首元に湿ったぬるさを感じた。濡れたはずなのに、気温のせいかじめじめと暑くて仕方がなかった。
「珍しいな、お前が好き嫌い口にするの」
「…思ったことを言っただけだ。それ以上の意味などない」
 桜庭の、少し濡れた髪から小さな水滴がぽたりとゆっくり落ちていくのが目につく。鞄の中にはハンカチやタオルの類が入っているはずなのに、桜庭は身体を拭こうともしない。少ししか濡れていなくたって、風邪を引くだろうと他人にも強要するくらいの奴なのに。雨粒にふちどられる桜庭の横顔は少しだけ青ざめて見えるようで、思わず声をかけた。
「おい」
「……」
「風邪引くだろ、…俺にこんなこと言わせんのか?」
 言ってから胸が冷えるような思いになった。本当はこんな冗談めいた声の調子は出したくなかった。どうしてそんな顔をするんだ、と正直にそのまま尋ねてしまいたかった。今まで大切に積み重ねてきた記憶のどこを探しても見つからない横顔を、いきなりこうして目の当たりにしているみたいで戸惑った。
 桜庭は――俺の冗談をおどけた調子だときちんと筋書き通りに受け止めてくれた。そのくらい自分で拭くと、差し出したタオルは軽く押し返される。自分でやったことなのに、その態度がなんだか無性に寂しくて、冷えた胸の奥でかすかな震えを覚えた。
「俺は夏、好きだな。小さい頃はよく向日葵畑に連れてってもらった」
「そうか」
「海も花火もいいよなぁ。縁日だって。楽しかったことをいっぱい思い出せるから、夏が好きなのかもな」
「僕は…、…」
 口を噤む。屋根の外側、すぐ近くで激しく降る雨の音がますます大きくなった気がした。桜庭の言いかけた言葉をうやむやにできるくらいの雨音ではなかった。なぁ、桜庭、一体何を考えている? これまで何度言おうとした言葉だろう。だけどやっぱり言うことなんてできずに、胃のあたりでぐるぐる消化されることを期待しながら、喉奥にあらゆる言葉を詰め込む。
 こんな顔を近くで見て、なんで夏が嫌いなのか、なんて。聞けるわけ、ないだろ。聞いたところで答えないのは目に見えている。…俺は自己中心的な奴で、適当な言葉を言って自分の触れられる桜庭の隙間が狭くなるのが素直に嫌だった。だから何も言えなくなる。夏が嫌いな理由なんて見当もつかない。どんな憶測も、桜庭の硬い無言の前では意味がなかった。

 いつかの冬、桜庭が言っていた言葉を思い出す。桜庭はいつだって同じところを見据えていてぶれることはない。だから例え今が桜庭の気に障る夏だとしても違わないはずだ。
「雨やまねぇな」
「あぁ」
「…にわか雨も多いけど、夏だっていいもんだぜ。野外フェスが多いのは夏だもんな。俺たちの絶好のチャンスだろ?」
「…そうだな」
「それに」
 桜庭、今どこを見ている? 置いていかれたような不安感も、言葉の裏に隠して。
「夏が来なきゃ、三人で花火見に行けないだろ」
「…あぁ」
 やまない雨の気配に圧されることなく桜庭が微笑んだ。見ていなければ分からないくらいの微笑だ。たっぷりとした水分の漂う空気の中で見た桜庭の笑みは綺麗で、俺は言葉を飲み込んでそれを見つめる。肌にまとわりつく湿気と、雨音以外何もない静寂。この夏はいつ終わるのだろう。

 好きだ、と。もう何度出かかった。
 昔の俺なら昔の桜庭に対して簡単に、言わずにいられないことを簡単に言い放ってみせたかもしれない。頑なな壁を力で開けることを一番と考えていたあの頃。
 今の俺では今の桜庭に言えないことが増えてきた。好き、だなんて夢のようで、そんな言葉は桜庭の隙間には届かないのを知っていた。
 桜庭の変化を、出会ってからずっと間近で見続けていた。どこがどんな風に変わったのか、ファンやプロデューサーの気づかない、とても細かいところまで話せる自信があった。それくらい、自分からその姿を目で追っているところもあった。だけど俺は未だに、桜庭の過去の欠片を拾うことができずにいる。
 言葉にしなくても響くものがこんなにも多いものだと、どうして今まで気づくことができなかったのか。動かないことが嫌だった。誰かが困っていれば手を差し伸べて、それこそ俺がやらなければ誰がやる、くらいには思っていたのに。桜庭の静寂の前ではどうすればいいのか分からないんだ。
 だから、今は――積み重ねてきたものと、これからまだたくさん手に入れられるものを大事にしていく。待つのは自分の性分じゃないと思っていたし、何もしないのはつらいものもある。でも、自分が何もし得ない時もあることはアイドルになる前から知っていたことだ。
 桜庭のことを早く、早くもっと知りたい。初めて見る表情に気づいたとき、俺は彼にどんな顔を見せるだろう。泣くだろうか、笑うだろうか。桜庭は俺の隙間にどれだけ気づいてくれているか、こんなにも彼のことを見てきたというのに、自分のことはてんで分からなくて、ふとした瞬間に途方に暮れてしまいそうだ。

 雨の多く降る日が減っていく。季節の変わるときが近いのだろう。秋は桜庭の生まれた日がある。彼の嫌う夏が静かに、分からないくらいのスピードで遠ざかっていって、やがて静かで暗い秋が来る。

《了》