夢のまんなか

 世界中に散らばる光を集めたように眩しいステージの対極に位置するのは、きっとここなんじゃないかと思った。あらゆる人が家にきちんと収まって寝静まっているせいで、夜の公園にはひどい寂寥感がある。ベンチから伝わる春のぬるさが、ひと気のない寂しさを一層増しているようで、隣に冬馬がいようが身体に感じる印象はあまり変わらない。

「しょうがねぇよ」

 俺は冬馬を、理想という願望の枠に無理やり嵌めていたんだろうか。闇に流れる空気に吸い込まれることのない冬馬の言葉を聞いた瞬間、まず初めにそんな言葉を彼から聞きたくなかったと思ってしまった。時々壁にぶつかっても道に迷っても、必ず自分で答えを出す冬馬の強さに大きな安心感を覚えていた。

 初めて思いを告げたのは俺からだった。冬馬は、今でも俺が好きだと言う。
 長い月日を重ねた末に生まれたこの気持ちは友愛をとうに超え、目と目を交わせば愛が通じ合うほど静かで深いものだった。でも、冬馬はもちろん、ユニットの中にいるとすっかり大人になった気分になる俺だって、世間からすれば当然のように若者として括られる。それら大切な思い全ては、一般人とはかけ離れた環境に身を置いてきたが故の気の迷いでしかなく、もしかしたら「若気の至り」の一言で済む話なのかもしれない。
 だから冬馬は、今はまだ言い訳のつくこの感情が思わぬ方へ肥大化して取り返しのつかないものに変わる前に、きちんと自分で結論づけようとしている。事の諦めに関しては冬馬の方がずっと悪いのに、その本人が「しょうがない」という使いやすく捨てやすい言葉一つで、俺たちの間にしか存在しない気持ちを片付けようとした。
 終わらせるのは、冬馬の方。彼は強かった。大切にしたいものが多すぎて、後ろを確かに気にしながら、それでも冬馬を好きでいたいと願い、今にも欲に身を滅ぼしそうだった俺より、ずっと。

 今でもステージにあがれば、初めてステージに立ったときの気持ちがたやすく蘇る。本当に、すごく眩しいんだ。真っ暗な舞台裏から急に表へ出て、スポットライトに視界が塗りつぶされて一瞬何も見えなくなるときもそうだけれど、サイリウムに照らされた客席は、上がる前にイメージしていたよりも随分とよく見える。
 初めの頃、自信がなかったわけじゃないけれど、今とは違う意味で客席の反応が気になって、MCのときに客席にいる人たちの顔を注視した。きっと人前では見せないほど大きく笑っている子もいれば、感極まったのか泣いている子もいた。
 俺たちを見て大きな感銘を受けているファンの色々な表情に、そのとき馬鹿みたいにとても感動したんだ。ピアノを弾き終わったあとに浴びるブラボーの歓声のように、俺たちの持ちうる全てをちゃんと見て、返してくれる人たちがそこにいた。全力に対して返してくれる一生懸命さはなんて美しいのだろうと、本気でそう感じた。俺はステージが大好きで、冬馬もそうに違いないのだ。

 それなのに、ステージとはかけ離れたこんな場所で、同じステージを愛する者同士で座っている。隣に腰かける冬馬は、いつもの威勢のいいくらいの声を忘れてしまったかのように黙りっぱなしだ。春めいた軽い生地のジャケットは、でも春の夜には心許なくて、まだ細さの方が目立つ冬馬の身体をなおのこと薄く見せた。
 何か大事なことを考えるとき、冬馬はいつも静かだ。それもそのはずで、高校生として、アイドルとして、一人の青年として迎える「大事なこと」は、まだ成人にも満たなくて、身体も出来上がっていなければ顔にも幼さの残る彼に似つかわしくないほどの重圧を与えて口を噤ませる。一人で立つのがつらくなったら、――たとえ共倒れになってもいい、もう思い切りぐしゃぐしゃに甘えてくれたって良かったんだ。でも冬馬はそうしようとしない。信頼を正しく示す冬馬だからついていく人がたくさんいるんだ。

「あーぁ、俺フラれちゃった」
「…今でも好きだって言ってんだろ」
「それ、俺が言ってもいいセリフ?」
「ダメだ」
「意地悪だね」
「そうかもしれねぇな」

 だって、しょうがねぇから。今まで経験してきた全てのことに、妥協なんて覚えずに生きてきた冬馬が、この関係に対して口にした諦念によく似たもの。どうしてそんなこと言うんだと、積もった気持ちに罅を入れる冬馬を非難するのはきっと簡単だろう。
 ただ、極めて落ち着いて見える彼の目が伏せられて、奥に潜む情熱ばかりを見せてきたその目の淵を囲む睫毛が、怯えるように細かに震えているところへ視線をやると、もう上手な言葉なんて一つとして浮かんでこなかった。

 初めてピアノが弾けたとき、この手はきっとピアノをこうして上手に弾くためにあるのだと思った。言いようのない高揚感に身体が浮かされて、熱が出たようなぼんやりとした意識の中に確かな幸福が溢れたんだ。
 冬馬を愛して、心が通じ合ったときも同じだった。俺の全部を捧げてもいいと心から思った。俺に持っていないものを、もしかしたら生まれたときから当然のように自分のものとしているのに、自分の納得できないことにはとびきり弱い冬馬を、全部ぜんぶ大事にしてあげたかった。
 でも、今は。冬馬は強くなった。権力とか名声とか、あらゆるものを捨てたせいで彼自身が得たものもとても大きかったようだった。そして、大きな力を持った事務所に背を向けてまでステージを選んだことに、俺だって自分だけの大きな意味を見出していた。
 心のどこかが子供みたいに意固地になって認めたがらなくても、しょうがない、って言葉が出るのも無理はないのかもしれない。本当に大勢の人に背を向けて、一人だけを大事にするわけにもいかなかった。
 だから、――終わらせるとしたら、きっと今なんだろう。今終わらせたら、二人にとってあまりにも綺麗な有終の美となる。この先アイドルとして眩暈がするほど忙しくなるはずの未来を思えば、何が大事かなんて考えなくても分かった。

「ごめん、じつは冬馬のソロ、見に行ったんだ」
「え?」
「本当に偶然、仕事の合間に時間ができたから一瞬だけね。…ごめん」
「そうだったのか、って別に謝ることじゃねぇだろ」

 なんで今その話、と冬馬が尋ねるけれど、何も返さない俺にまた口を閉ざしてしまう。俺の方が聞き返したいくらいだった。冬馬は、客席から俺や翔太、そして自分を見たことがある? と。
 今の事務所に移って初めて俺たちのソロ曲が決まった。それぞれ一人でイベントもやることになったとき、イベントに出ないメンバーもまたそれぞれ別個で仕事を入れられていた。見たい気持ちは正直にあったけれど、絶対に上手くいくという信頼でソロのことが頭によぎることはあまりなかった。
 だから冬馬のソロが見られたのは全てが偶然だった。先方の都合でスケジュールがずれて完全に時間を持て余してしまい、そういえば今日は冬馬のソロ曲発表イベントで、会場も近い――今思えば、まったく運命のいたずらだ。今この時間の心作りをするために、誰かがわざわざ誂えたのだとしか思えない。

 客席から冬馬を見るのは初めてだった。いつも彼を見ている立場の反対側に、そのとき初めて立って。
 世界中に散らばる光を集めたように眩しいステージに、冬馬がいた。もう充分すぎると思えるほど傍にいる時間を重ねたと思っていた冬馬が、このとき誰がそこにいるのか一瞬分からなかった。どうしてこんな、別人なんだろう。客席側のライトは落ちているはずなのに、なぜこんなに明るいのか。
 反対側に立つと見え方がこんなに変わるなんて、言葉にできないほどの衝撃だった。自分がステージに立つ確固たる意味を、このとき完全に知ってしまった。

 光がある限り、必ず影は生まれるものだと誰かが言う。目に見えるものが全てと言わんばかりのこの業界なら尚更だ。
 でも、そんなことなかった。初めて客席から見た、ステージで自分の全てを賭して歌い踊る冬馬は本当に、世界で一番眩しくてかっこよかった。あの場にいた全員が冬馬から視線を離せなくて、彼の放つ眩しさが、みんなの目の前を明るくして顔をあげさせる。
 人を惹きつけて止まないその光を、果たして自分の手中に本当に収めてしまうのかと、なにより俺自身が思った。本当はもう、こんな暗くて寂しい公園なんかにいなくたって終わりの予感を覚えていたんだ。
 恋を選ぶとは、すなわちそういうことなんだろう。多くのものを犠牲にしてでも、たった一人、恋しい相手を欲してしまう。暴力的なまでに清らかな引力をそのままにするなんて真似、とてつもなく長い道を歩き出したばかりの俺たちにできるわけがなかった。

「しょうがない、な」
「あぁ」

 風に消えかけそうな俺の声を、冬馬はきちんと拾い上げて答えを出す。

「…また新曲が出るな」
「あぁ」
「どんな歌になるんだろう」
「最高なのは間違いないぜ」

 古い灯りが一つ、じりじりと点滅してやがて点かなくなる。より濃い闇が俺たちを包んだ。この時間が、もしかしたらずっと続いてしまうんじゃないかという永遠の匂いに酔いしれそうになる。
 俺たちの最後を飾る、何の邪魔もない、静かで素晴らしい、寂しい夜。この先何度思い出すだろう。

 冬馬は俺よりずっと強い。言葉にしなくたって、いいや、言葉にできないほど大切にしていたものの前を通り過ぎられるくらい。もうずっと前から知っていることだ。
 ただ俺は――前を向き続ける冬馬が一度でも、一瞬でも一人の青年としてこちらに寄りかかっていたらと、今まさに過去になろうとしている憧れの残滓に、少しばかり引きずられているだけだった。

「目指すはトップアイドル、だな。冬馬」

 冬馬が俺と視線を合わせて、それを肯定とした。翳る月の光さえも瞳に入れて煌めく様を覗いた、ただそれだけで、目の前の彼がまるで別人みたいだと、そう思った。

《了》