陽だまりにさらわれて

 ベーコンの端がカリカリに焼けて少しめくれている。脂と塩のいい匂いがフライパンから立ちのぼり始めたところで、後ろであくびをかます間抜けな声がしたから振り返る。

「…はぁ、ねむい」
「亘(わたる)さん、おはようございます…って」

 眉間に皺を寄せて、よれよれのスウェットからお腹を出してぼりぼりと掻いている亘さんのその頭。
 昔見たアニメで、科学の実験に失敗したキャラが、フラスコから爆発した煙を浴びて黒焦げのぼさぼさになるシーンがあったことを思い出す。亘さんの髪はただでさえやわらかくて癖がつきやすいというのに。

「ちょっと亘さん! 髪の毛すごいことになってますよ!」
「ふぁ…、あとで整えるからいーんだよ」
「もう…また髪の毛乾かさないまま寝たでしょ」

 返事はせず、まだ覚め切っていない寝ぼけまなこでテーブルの上に置いていたコーヒーをすする。かけている眼鏡はずれているし、無精ひげだって生えている。仕事に行くときの格好とはまるでかけ離れていて、百年の恋も冷めちゃいそうだ。

「ボク前にも言いましたよね、枕も傷むし寝ぐせもつくからやめてくださいって」
「うっせーな、帰ってきた瞬間に寝る以外の選択肢ねぇっつーの。シャワーだってだるいのに」
「ったく、しょうがないなぁ…」

 寝起きでどん底の機嫌がこれ以上悪くなってもめんどくさいし、これで切り上げる。フライパンに向き直り、パチパチと音をたてて焼かれていく卵とベーコンへ視線を落とした。
 亘さんが当然のように飲んでいるコーヒーは、そろそろ起きると予想して淹れた。お礼がないのなんて慣れている。そもそも、「いただきます」だってボクが教えたようなものだ。「ごちそうさま」はまだまだ時間がかかりそうだけど。
 トースターからパンの焼き上がりを知らせる軽いチャイムが鳴る。火を消して皿にベーコンエッグをよそってから、パンを取り出してバターを塗る。
 ひとり暮らし用に設計されたキッチンでふたり分のご飯をつくるのはなかなか骨が折れる。皿をシンクに落とさないように気をつけているけど、ボク自身もお腹がペコペコで早く食べてしまいたい。

「ほら、できたよ」
「…ん」

 テーブルへ持っていく。亘さんはさっそく手をつけようとしたけど、ボクがきっと睨むと、めんどくさいって思っている気持ちを隠そうともせず正直に顔をしかめた。

「…いただきます」
「うん、めしあがれ~」

 幻聴と間違えそうなほど小さな声だったけど、まぁいっか。ボクも手を合わせて、湯気のあがる目玉焼きへ箸で切れ目を入れた。とろとろした黄身があふれる。亘さんが半熟が好きだからそうしてるけど、ボクも好きになった。
 トーストを齧りながら、亘さんはスマホをチェックしている。肘だってついててお行儀が最悪なのに、眼鏡越しに長い睫毛が伏せられているのが、やっぱり何度見たって好き。惚れた弱みすぎる。

「…なにジロジロ見てんの?」
「亘さん、きちんとしてればかっこいいのになぁ」
「家の中でもきちんとなんてしてられっか」

 ボクの提言は軽くあしらわれ、大きな口で目玉焼きを半分以上食べてしまう。垂れた黄身が皿にぽたりと落ちていく。本当に溜め息が出る。会社でも同じようなことしてないか不安だ。
 きちんとよく噛んで食べないから、どんなにいいものをつくったところで亘さんのご飯はめちゃくちゃ早く済んでしまう。ボクがようやく半分食べたところで亘さんは食べ終え、「いただきます」は案の定言わずにさっさと脱衣所へ向かった。
 目の前に誰もいないけれど、洗面台から水が流れて、髭剃りやボクの使ったことのない整髪剤のフタを開ける音とかが聞こえるのはけっこう好きだ。亘さんは毎朝こうして変身するのだ。

「っあ、」
「シェービングクリーム、新しいやつ左上の棚に置いといてますよ」
「……」

 髭剃りをしているであろうときに亘さんが声を出したので教えてあげたら、何も返ってこなかった。買っておいてって言ってきたのは亘さんなのに。

 ひとり暮らしにはちょっとだけ広いけど、ふたりで住むには狭すぎるワンルームにぽかぽかと陽が射す。あったかくて穏やかだから、ボクはこの部屋が好きだ。
 だから、お腹がいっぱいになるとたまにうとうととうたた寝してしまう。その点、きちんと働きに出る亘さんはえらい。

「アキ、今日も遅くなるから」

 太陽の光をさんさんと浴びながら、食べかけのトーストを持ったままぼんやりしていたら、亘さんの低い声に呼び起こされた。ハッとすると、首を傾けて怪しげに見つめている。
 脱衣所にあらかじめ置いておいた、きちんと(ボクが)アイロンがけしたシャツとスラックスを身に纏い、髭も剃って髪をジェルで整えた亘さんは、何百回見たって世界で一番かっこいい。ちょっと悪めなところに惹きつけられちゃう。

「亘さん、かっこいい…」
「聞いてんのか、お前…」
「遅くなるんだよね。最近ずっとそうでしょ」
「まぁな、ほんとだりぃ」

 動くとふんわり香水の匂いがする。ボクが亘さんの匂いとしてすっかり覚えているこの香りは好きだ。
 ジャケットを羽織り、カバンにスマホをテキトーに突っ込む。そんなことしているから、スマホがねぇって騒ぎだすはめになるんじゃないのかと言ったところで響かないのを知っている。
 革靴を履き、玄関横の棚に置いてある鍵を持ってまさに出て行こうとする。その背中に、やっぱりボクは声をかけた。

「亘さん」
「んだよ」
「今日も帰ってきますか?」

 亘さんはボクを振り返って見つめる。人をいつも睨んでいるかのような切れ長の鋭い目がゆるんで、今日初めての笑みを浮かべる。といっても顔がちょっとだけ動いただけくらいのものだけど。

「あたりめーだろ、ここは俺のうちだ」
「よかった」

 立ち上がって亘さんに近寄って背中に抱き着く。「クソあちぃ」と悪態をつかれたけど、振りほどかれるようなことはされなかった。

「いってらっしゃい」
「あぁ」

 ドアが開くと、眩しい光がもっと差し込んで、そして閉じられていく。遠ざかる速い足音を聞き届けてから、テーブルに戻って冷めてしまった朝食を再開した。今日も、いい日になりそうだ。

 ボクはここじゃない部屋で身体を震わせていたときに亘さんと会った。
 いつぐらい前だか、感覚じゃ分からないけど、とにかく寒い夜。ボクが母さん――亘さんのお姉さんに捨てられた日。
 あの部屋にいたときの出来事をよく思い出せないから、いつぐらい前だか分からなくなってしまっている。いつもきつい香水の匂いと、いろんな食べ物の混じった匂いに満ちていて、でも何か食べる気力もないし、ボクはお腹が空いていた。
 一生ここか、となんとなく思っていた。
 それ以外に何も考えようなかった。でも、亘さんがそこに現れ、ボクをここへ連れてきたのだ。

 母さんの弟。それ以外は好き嫌いが多いのとお行儀が悪いこと以外、詳しく知っているわけじゃない。亘さんが何のお仕事をしているかも知らない。というか、聞いても分からない。制服が買えなかったせいで中学校から通っていないからかも。
 でも亘さんは、口も態度も悪いけど、ボクに対して「馬鹿」と言ったことだけは、今まで一度もないんだ。
 冷めたってベーコンはおいしい。こんな風に何かをつくって、お腹いっぱい食べられるのは奇跡のように思える。物音にびくつきながらテレビを見ることもない。
 だから、亘さんがボクにありがとう、なんて言わなくたっていい。さみしくなんてない。本当だ。さみしくなんてなったら、ボクは暮らす場所がいよいよなくなってしまう。亘さんには嫌われたくない。
「夜は何をつくろうかなぁ」
 亘さんの好物を思い浮かべながら俯くと、コーヒーの水面がゆらゆら揺れて、ボクの姿がにじんで見えなくなった。

《了》