晩夏の郷愁

「いいじゃないッスか、たまにはこういう日があっても」

 どうしてこんなことをするか理由を尋ねたら、田山はそれだけ答えてあとはずっと押し黙ったままだ。普段から口数が多い方じゃないから、田山が何を考えて感じているのか、仕草や言葉尻の調子なんかで汲み取っていたけれど、時々やっぱり困った。
 商店街を抜けて、人通りの少ない住宅街へ出る。茜色の太陽は家々の間に姿を隠そうとしている最中で、どこかでヒグラシが鳴いている。
 田山は学校を出てからずっと、俺の手をつないだまま離さない。体温はすっかり馴染んでしまったせいで、手汗さえもかかない。

「あのさぁ、ずっと聞かないでいたけど」
「なんスか」
「誰かに見られたらとか考えてねぇの?」

 俺と顔を合わせることなく、田山は空いている手で先を指さした。

「あ、吉井さん、向こう公園ありますよ、ちょっと休みましょう」
「…はぁ、もういいよ」

 つないでいる手の力を少し強くして、田山は先を歩き出す。俺は引っ張られるままついていく。
 俺自身が誰かに見られたくないなら、振りほどくのは一瞬だ。でもそれは違う気がして抵抗できそうもなかった。顔から感情の機微を窺いにくい田山だけれど、この手を離すことでその表情が変わる方が恐ろしかった。
 夜ご飯のつくられるいい匂いや、ぬるいアスファルトから立ち上がる匂い。夏の夕方は、友達とたんと遊んだあとの小学生の頃をなんだか思い出される。
 途中で何人かとすれ違った気がしたけど、あまり視界に入らない。他人の視線が正直ちょっと怖かったのもあるけれど、夕陽に染まった田山の背中を見ていると、こいつが入部したての頃は俺より背が低かったのをなんとなく思い出した。郷愁の漂う道のせいだろうか。
 初めて来る公園は小さくさびれていて、遊具はブランコと滑り台くらいしかない。子どもたちももう家に帰る時間だ、俺たち以外に人の姿はなかった。
 木陰のベンチに二人で腰かける。そのときようやく田山の手が離れたのがなんとなく名残惜しかった。長い間つながれていた体温の方に、歩いている間に慣れてしまったみたいだ。
 手を伸ばして俺の方から掴むと、田山は俺を見た。額にうっすらと汗が浮かんでいる。

「なに、つなぎたくないんじゃなかったの」
「そんなこと言ってねぇだろ」
「吉井さんってたまに素直じゃないッスよね」
「お前ほどじゃないよ」

 はっきりと目に見える形で田山が微笑んだ。手を握り返され、引っ張られる。
 身体が田山の方へ傾くその間に目をつむる。手と同じくらいの温かさの唇が重なった。そのまま薄い唇でちょっとだけ食むようにしてから離れる、田山のキスの癖がまた出ていた。

「…本当に人目とか気にしねぇのな」
「だって、吉井さんとキスしたかったから」
「そーかよ」
「顔赤い。かわいいです」
「うるせぇ」

 言い合って、また田山は黙る。俺もこいつの言葉を待つことにして、二人で手をつないだままでいた。
 ぬるい風が頬を滑り抜けてゆく。たまに公園の外の車道を車が通って去っていた。人はみんなそれぞれの家に帰っているところなのだろう。俺と田山にも住んでいる家があって、しばらくしたらそこへ帰らなければならない。
 たまにはこういう日があっても、か。部活に出ていた頃はこんな風にちゃんと田山と恋人同士で振る舞ったことなんてない。いつも人目を盗んで、一瞬の合間にかすかに触れ合っていただけだった。

「あ、ボール」

 誰かが忘れて言ったのだろうか、茂みからビニール製のボールが風に押されてころころと転がってきた。田山は立ち上がってそちらへ近づき、持ち上げたと思えばリフティングを始めた。サッカーで使うものより遥かに軽いだろうに、忘れもののボールは田山の脚の上でポンポンと軽快に弾む。

「リフティング最高記録何回だっけ?」
「えっと、55回、ッス」
「すげぇじゃん、俺確か50ジャストで打ち止めだよ」

 しかも田山はまだまだこれから期待できる選手だ。感心して笑えば、田山はそこで動きを止める。行き場をなくしたボールはころころとまたどこかへ転がっていってしまう。
 こちらに背を向けているせいで、田山がどんな顔をしているか分からない。俺もそっちへ近づこうと立ち上がる。

「田山?」
「俺は別に、誰かに見られてもいい。知られたり、笑われたっていい。吉井さんが好きだから」

 背中は大きいけれど、線はなんだか俺よりも細い。筋肉をつけたいって真顔で相談されたときの真剣な声音が妙におかしくて笑ったら、こいつ珍しくムキになったっけ。
 俺の方は振り向かず、田山は前を見据えていた顔を少しずつ下に向けて項垂れた。夕闇に染まるうなじから、寄る辺ないさみしさを感じる。

「吉井さんだって気にしなくていいです。だってもう、卒業しちゃうし。うるさい奴がいても離れられる」
「はぁ? 卒業ってお前、半年以上先――」
「部活も引退して、どうせ先にいなくなっちゃうからさぁっ」

 怒鳴るような声音を初めて聞いて、身動きができなくなる。田山はさっきまで俺とつないでいた手を顔へ持っていった。小さく震える背中に、そうせずにはいられなくて手を伸ばす。

「だから、…いいじゃないッスか。たまに放課後、こうしたって」

 そのまま後ろから抱きしめると、振り返った田山がしがみついてきた。母親にすがるような必死さで背中に腕を回され、きつく抱きしめられた。息苦しさと愛しさに涙がにじんで、夕陽がゆらゆらと揺れる。
 子どもも大人も、おとなしく家に帰る時間だ。夏はそろそろ過ぎ去り、涼しい秋が来る。俺はサッカー部員としての成長は終わり、残りの高校生活を受験勉強にあてる。田山は期待のエースで、これからが本番だ。二人で過ごす時間は、バラバラに分解されていく。
 ユニフォームを譲ったときの田山の下手くそなはにかみ顔が浮かぶ。彼のまばゆさとひたむきさに俺は惹かれたのだと、既に過ぎ去ってしまった時間の尊さを思い、うなだれて肩に顔をうずめる田山の頭をそっと撫でた。
 一日の終わりを告げる晩夏のヒグラシが、どこかで鳴いていた。

《了》